'80s Julie TV session

1980年代TVの中のジュリー・・・
って80年代好きとずっと勘違いされたかな今更思う今日この頃(笑)

●1975年の沢田研二を探る~白い部屋

2016年02月21日 | 75年のじゅりー

 


昨年ツアーで久々に歌われた75年のシングル「白い部屋」、この曲をテレビで歌う姿をハッキリと記憶されてる方は果たしてどれぐらいいるのだろうか?

 



「危険なふたり」から「追憶」に至る過程で74年いっぱいまで怒涛のテレビ出演をこなしたジュリー。
遅まきながらその姿を追ってるだけでも、ソロとして最初のピークを迎えていたのが実感出来る。

前年74年あたりからミディム国際見本市への出席、ハワイでのライブなど本格的な海外進出計画がスタート、その流れで9月にはロンドンでアルバム録音を済ませ、海外に先駆ける形でリリースされた国内シングル「愛の逃亡者」。
こちらは異例の「英詞」のままの発売とあり、それなりのテレビ露出・プロモーションもあったにせよ大きなヒットまでは至らず(最高位12位・19.1万枚)。

しかし、当初国内リリースはされない予定だったという話もあり、セールに関しては国内では元より製作サイドも「英詞」とあって過度の期待はしてなかったのかもしれない。

あくまで「ファンの熱い要望に答えた」(「ヤング」誌74・12月号より)、実験的・変則リリース感は残る(ちなみにほぼ同時期に西城秀樹「傷だらけのローラ」仏語版なんて珍品も国内シングル発売されたこともあった)。

明けて75年、年明けよりさらに本格的なヨーロッパでのシングルリリース&プロモーション活動、煽りを受けこの時期極端に国内でのテレビ露出は少ない。



75年3月1日、12枚目のシングル「白い部屋」が発売。

英詞のまま出した「愛の逃亡者」を「実験的・変則リリース」と捉えたとすれば、74年7月の「追憶」以来久々の日本語シングル、当然セールに力を入れるべき作品になるハズではないだろうか?

ところが調べてみると意外な結果が・・・


●75年2月16日(日)
TBS「ロッテ歌のアルバム」

●75年2月28日(金)
フジ「ゴールデン歌謡速報」

●75年3月3日(月)
フジ「夜のヒットスタジオ」

●75年3月19日(水)
NET「ベスト30歌謡曲」

●75年4月1日(火)
NHK「歌のゴールデンステージ」




「白い部屋」テレビ初披露は特定出来ないが、発売時期&ラジオでのオンエアから考えると早くて2月16日放送のTBS「ロッテ歌のアルバム」、2月28日放送フジ「ゴールデン歌謡速報」では歌われていたのが残された資料から確認出来る。
発売1ヶ月間でたったのこれだけ、当時のジュリーとしては極端に露出が少ないという印象は拭えない。


驚くことに4月以降もテレビ露出は少なく、5月21日には次の13枚目のシングル「巴里にひとり」が出るワケだが、結局2月28日放送のフジ「ゴールデン歌謡速報」~5月いっぱいまで確認されたテレビ出演番組はわずかに12番組。

5月後半の番組では「巴里にひとり」に変わり、「白い部屋」の披露はもうなかったかもしれない。
そう考えて、さらに抜けてる番組を含めたとしても「白い部屋」を歌う姿をテレビで見れたのは、多く見積もっても10回あるかないか程度だろう。

露出が少ない理由として考えられるのは・・・

・単に特別売れ行きがこの時期のジュリーにしては良くなかった(最高位8位・21.8万枚)
・初舞台「唐版・滝の白糸」が3月にあった
・海外へプロモーションのため行き来してた時期だから
・当時の週刊誌広告から結婚が本決まりになってく段階だったのもわかる、4月5日はザ・ピーナッツの最終公演
・連続ドラマ「悪魔のようなあいつ」も動き出していた


全盛期のジュリーのシングル曲としてはなんとも淋しい露出量、10回程度となるとずっと後年の「ポラロイド・ガール」や「muda」辺りと同レベル。
それとも単に当時のジュリーはシングル発売時、毎回過剰なテレビ露出量が付き物というこちらの勝手な思い込みが強すぎるのだろうか?、「ウインクでさよなら」辺りもかなり少ないような気はする。

この中で局マスターが現存してる物となると数は絞られ、製品化されてる「夜ヒット」75年5月5日放送の回、あとはTBS「歌のグランプリ」が可能性が高い。
「ベスト30歌謡曲」はパラパラ残してる程度でこの曲を残してるかは微妙、元々が少ないだけにナツメロ番組などで流れるワケがない、残された「白い部屋」映像はどれも貴重。

反面、海外でのセールは絶好調、ジュリー自身の結婚も秒読み段階、作者の加瀬さんまで機上での出会いからわずか1週間(!)、8歳年下の美女とスピード婚というジュリーに先立つどんでん返しの早業を決めて見せた(挙式は4月3日)。



さて「白い部屋」とはどういった位置の曲だったのだろうか?

 

本格的セールから元よりやや脱力モード、会社との年間発売契約上出さなきゃならないルーティンワーク・消化試合的な1枚だったのではないだろうか?

或いは「追憶」が自身の歴代セールベスト5に入る大ヒットだった分、海外に力を向けたり英詞曲を出すなど、流せる「余裕」という物があったのかもしれない。

逆に同年の「時の過ぎゆくままに」などは「レコード大賞を狙う」とハッキリ書いてあったというジュリーの証言の通り、当然セールに対する強弱の程度は毎曲あったのだろう。

多忙を極め私生活・海外進出の充実期と重なり影に埋もれ、麻丘めぐみの同タイトルとかぶりジュリー自身にも若干嫌がられ、後に歌われる機会も少ない不遇の1曲それが「白い部屋」・・・

この曲のレコーディング日は75年1月18日、ヨーロッパ出発の日の午前中にギリギリに歌入れという、レコーディング・セッションもクソもない、ある意味やっつけ仕事だったという事実を裏付け資料として追加しておこう。

国内より世界進出へ向かうその直前の収録、ドタバタのスケジュール、半ば気持ちはうわの空、それより向こうの曲の発音に頭をかかえる沢田研二26歳。

この時代のジュリーには多忙につきそういう作品もあったのも事実、「思いきり気障な」~「今度は華麗な」~「愛とは不幸を」の3枚のアルバムのリリース間隔も、今の視点から見ると相当ムリを感じる。

ただし、良き時代に作られた作品はある程度のメンツさえ揃えれば、それなりの名演・名曲と語られる作品も出来上がってしまう事が洋邦共多々あるワケで、「白い部屋」も水準は軽くクリアしてる楽曲ではあるのは確かだ。



な~んて、最近「1989の○○」とかいう本が話題に上がり、読みもしないクセ当時子供の年齢の作者に対し、「あの頃の何がわかるよ!」とついつい思ってしまった通り、やっぱりリアルタイムで見てないと立体感が浮かばない、若造にはホントのとこわからないなぁ残念(笑)

 

 

 「白い部屋」で75年4月21日出演時の貴重な「夜ヒット」
髪の長さに注目

 

 75年3月3日放送回に比べ短い

 

 

 

 

次回これ又意外な真実、「巴里にひとり」編に続くかも?

 

 

 

 

 

 

 

 































★江古田でムッシュかまやつヲ見る

2016年02月13日 | 追っかけ

 

 

フォーク系の老舗ライブハウス、江古田マーキー

 

 

最初ガラガラであせった( ̄▽ ̄)

 

 

 

 

 

 

 

 

時間ないから【感想】



・開場時間に行ったら人がほとんどいなくてたまげた、最終的にはそこそこ埋まってたけど。
・チケットにはバックが「横内タケ(Gt)&富岡”グリコ”義広(Dr)」とある、80年代初頭にデビューした本格派のロックバンド元「TENSAW」の2人。
演奏力はさすがに高い、久々にバンドの音を聴いたと言うより体で浴びたような感じ、翌日まで体に残るぐらいバキバキだった。
・ベースの方もいかにもバンドマンらしい佇まいでかっこよかった、いい音を出すミュージシャンは見た目から違う。
帰宅後調べたら「cosa nostra」や清志郎さんと「love jet」をやってた方だった。
「love jet」はテレビにもよく出てたしおぼえてる、ただ「love jet」の衣装が衣装だけに気がつかなかった。
・横内タケさんは「TENSAW」どころか、キャリアはもっと古く70年代の初めのフォーリーブスのバック「ハイソサエティー」時代はあのジャニーズ事務所に、その後は「ウォッカコリンズ」にもいたとは。
「ウォッカコリンズ」はよく聴いてたのに、アラン・メリルや大口広司の影に隠れこれも全然気がつかなかった。
・最初からいきなりゲスト、スパイダースのベーシスト加藤充さんと、田辺社長から交代した末期のドラマーの前田富雄さんとムッシュの3人で2曲の大サービス。
ベースの良し悪しはどこで判断するの?という問いに「気持ちが良ければいい」、昔とあるベースマンにそう教えられたが、加藤さんのベースは凄くいい音をしてた、なんと今年81歳\(@o@)/、スパイダースも出来るうちにやって欲しい。
・前田さんは前田さんで引退後うちの地元で魚屋さんを営業してたとは驚いた、どこに誰がいるかわからないものだ、小学生の頃から散々通ってた場所じゃないか知ってるなんてもんじゃない、あの街のレコード店でGSのカセット買って涙してた15歳がここにいたのだけど、マチャアキの「孤独の叫び」は我が家ではヘビロテで有名(笑)
スパイダースの後、日本初のプログレ・バンド「ファーラウト」にも在籍してたらしい、これまた全然知らず。
・ムッシュはあまり歌わず続いてまたゲスト登場、橋本タイジさん。
「昔、ナベプロがフォーリーブスに対抗して売り出してカスりもしなかった」、「えっ、誰だろ?」、雰囲気からして昔なんかやってた人っぽい・・・
「ギミーシェルター」「ブラウンシュガー」「悪魔を憐れむ」ストーンズ・ナンバー数曲、それが単なるストーンズカバーじゃない。
何というかリアル世代じゃなきゃ出せないオーラーみたいな、一瞬ここは新宿ニューアシベ・か日劇ウエスタンカーニバルか?トリップしたような錯覚、あの時代好きにはたまらない、思わず熱くなる。
・帰宅後色々調べたら、どうも「ウォッカコリンズ」の周辺にいた方らしい、マネージャーやたまに歌も歌ってたらしい。
ナベプロが売り出したと言うのは、「ハイ・スパンキー」という4人組のヴォーカルグループだった。
実際にジャズ喫茶やウエスタンカーニバル、PYGの浅草国際や田園コロシムにまで出てる、「プラチナゴールデンショー」「夜ヒット」「ドレミファ学園」・・・まさにあの時代の体現者、「カスりもしなかった」といえうらやましすぎる!、デビュー曲はあの森本のタロー作曲だ。
・他にも貴重なゲストの方々が続々と、それが何処にも記載されず出てくるからムッシュのライブらしい(笑)
・肝心のムッシュは「バン・バン・バン」「あの時君は」「ゴロワーズを吸ったことがあるかい」「ブーン・ブーン」、そして最後に「やつらの足跡のバラード」決め曲はしっかり歌ってくれた、欲を言えば「どうにかなるさ」はやって欲しかった。
・耳が難聴で音程が正確に取れないとか(今年77歳)、確かに若干ヨレ気味かな?、ジュリーも段々そうなってくのだろうか。
・先日見た「ディランⅡ」の限定25人ライブも、どう入れても30数人しか入らない満員電車のような店内で最高だった、席がないからマイクの30cm前の席にどうぞと言われても(笑)
やっぱり自分は予定調和・キメキメのホール・コンサートよりこういうライブが大好き、それにしてもフォーキーなライブハウスで有名な江古田「マーキー」で、どうしてこんなライブがあったのだろう(笑)



 ご記憶な方は相当な古参ナベプロ・マニア・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ★このブログの人はこんなのも今聴いてます#4