'80s Julie TV session

1980年代TVの中のジュリー・・・
って80年代好きとずっと勘違いされたかな今更思う今日この頃(笑)

●1975年の沢田研二を探る④~いくつかの場面

2016年04月27日 | 75年のじゅりー

 

 

さて、三億円時効・沖縄海洋博に沸いた75年もいよいよクライマックスへ向かう、ベトナム戦争の終結もこの年の大きな出来事であった。

改めて08年放送FM「今日は1日 ジュリー三昧」を聴きなおすと、TBSの歌番組出演時には久世光彦より、ストリングスの導入など細かな指示が入れられたことが語られていた。
本人も視聴率的にそれ程高くもなかったし、ドラマの挿入歌で売れたという感じはしてないとの話、発売後の多くのテレビ出演で大衆に支持されていったのかもしれない。

11月に入るとジュリーは映画「パリの哀愁」撮影のため、12日までフランスへ滞在(帰国日時も資料によりまちまちで正確ではないと思う)、帰国後は年末まで毎年恒例になった賞レース関連の番組出演や話題が続くこととなる。

 

 

 


この辺りの75年賞レース関連で特に印象深い物としては、第6回「日本歌謡大賞」におけるノミネート時、フランスから番組出演のため一時帰国、午前11時20分羽田着~夜10時半再びフランスへUターンという離れ技をやって見せた時ではないだろうか?

話だけでも凄いとは思っていたが、当時フランスまでアラスカ経由~北周りで27時間もかかり、現地人から「お前死ぬぞ」とまで言われたらしい。
ジュリー自身の記憶も余程忘れられないのだろう、「夜8時の番組に出演して仮眠をとり夜の便で帰った」と詳細だ(FM「ジュリー三昧」より)、本人も「死にそうだった」とは笑えない話である。

実は24日(月)放送の「日本歌謡大賞」本選の情報量に比べ、ノミネートの日付が原本資料からの特定が出来ず、再調査してみると11月3日(月)の「紅白歌のベストテン」に”即日発表!3万人が選ぶ日本歌謡大賞!! ノミネート歌手総出演”とあり、放送時間も夜8時からの1時間枠でジュリーの記憶とも一致する物が見つかった。

ところが、司会には堺正章とあり、実際の映像を見てみると司会が高島忠夫なのが気になる。
それと本選は東京12チャンネルでノミネートが日テレ放送といのも気がかりだ、それ以外の日にこの映像があてはまる番組名が見当たらない。
よくよく見たら、司会者の立ち位置にちゃっかり英語で「TOKYO12CHANNEL」と書いてあるではないか・・・取りあえずここでは日帰り電撃Uターンは、本選放送日の新聞の番組見出しでも3日にノミネートとあるので、11月3日としておき、今後の再々調査に期待したい。

ちなみに、24日の「日本歌謡大賞」本選は意外にも午後3時~夕方4時50分というおかしな時間帯に放送され、同日の夜8時から放送の日テレ「紅白歌のベストテン」にも「歌謡大賞」の特番として放送・出演してるので、両番組間の関連性は決してありえなくはない。
この24日の時の司会者は確かに堺正章で、「紅白歌のベストテン」の文字をバックに歌うジュリーの姿も確認出来る。

なぜ、そんな時間に放送されたか?と考えたら75年の24日は月曜日、おそらく23日(日)勤労感謝の日の振り替え休日で休みだったのではないだろうか。

「歌謡大賞」本選では「パリの哀愁」で共演のクローディーヌ・オージェやサリーの姿も見られ、放送音楽賞受賞をキスで祝福、直後「奥様に一言」という司会の高島忠夫の突っ込みに、言葉を発さず笑みで返す光景も見られた。
身内への私信をテレビの電波には乗せたくなかったのか、それとも単なる照れ笑いだったか・・・

 

話は戻り、11月13日(木)ホテル・オークラで「時の過ぎゆくままに」100万枚突破の謝恩パーティが関係者500名余りを集め開かれた、これは正式な帰国翌日ぐらいに開催されたように思われる。
高さ6メートルの氷細工のエッフェル塔も置かれ、「巴里にひとり」や「時の過ぎゆくままに」をはじめとするヒット曲が披露され盛り上がった・・・こう書くと何か特別な出来事のように見えるであろう。

が、当時頻繁にヒット記念・発売記念と称しこの手のパーティは度々開かれてたようで、今となっては華やかな黄金時代が偲ばれこの時代らしい大人の雰囲気・重厚さも感じる。
この席で、フランスのファンはプロマイドを欲しがり、放送局には来るが日本人のようにどこまでもは追ってはこない、第3の特徴に表現方法の違いとして両ほほにキスをしてくると述べた。
「歌謡大賞」でのクローディーヌ・オージェも、なるほど向こうではごく自然な行為のようだ。
 

 

帰国直後の14日(金)には、さっそくフジ「歌謡ヒットプラザ」に出演、早くに収録済みと思われる来年の「かくし芸」の予告が流れた。
以後19日(水)の「レコ大速報」、先に述べた24日(月)「日本歌謡大賞」、26日(水)「あなたが選ぶ全日本歌謡音楽祭 入賞者」、12月2日(火)「FNS歌謡祭 下半期ノミネート」、12月14日(日)「日本有線大賞」と、賞レース物への出演が続く、とにかくほぼ全ての賞番組に「予選」と「本選」があるからややこしい。

 

そう思ってたらこの問題は翌76年の新聞記事にプロダクションの団体である、日本音楽協会が在京民放各社に「音楽祭の顔ぶれがいつも同じ」「本大会の前にノミネートを開くのをやめてくれ」などクレームを申し入れたとあり、思わず苦笑いしてしまった。
さらに「この2~3年の新人が子供すぎる」「見た目のかわい子ちゃんの出しすぎ」、「歌よりアクション、涙のご対面などプラスαで視聴率を取ろうとしてる」と批判の文章は続く、当時から現代に通じる問題提議がされていたのには驚いた。 

日本の敗戦原因も突き詰めていくと、現代の社会の構造と全く同じとはよく聞く、物事の本質は何十年経っても変わらない。

 

 

この頃、「11月22日 銚子」「23日 宇都宮」「12月6日 京都」「12月7日 刈谷」、秋ツアーとまで呼べない散発的なコンサートが開かれていた。

問題の事件はこの過程の中、7日の刈谷公演の帰途に起きたようだが、詳細については興味がないのでわからない。
この時代の芸能誌は今以上に”話を盛る”と、現在放送中の「爆報!THEフライデー」でも古参芸能人が口を揃えよく話すので、正確な検証は今となってはこの手の本を追っても難しそうだ。

度々本人も語り、91年のBS「沢田研二スペシャル~美しき時代の偶像」内でも当時の新聞記事がそのまま放送されてるので、今更隠す件でもないだろう、例の「頭突き」・・・である。
「関西公演の帰途」、「新幹線のホーム」、「12月17日(水)一般客からの訴えで明るみに」なり、翌18日(木)に新聞各社の社会面で報道という流れらしい、もちろん芸能各誌で騒がれたといえ、後から追う限りでは2度目の事件時に比べるとあまり大きくはならなかったようにも見える。

 

 

そんな中、12月21日(日)放送のTBS「サンデースペシャル 日本レコード大賞17年の泣き笑い」、つまり事件発覚の3日後の番組で、司会の高橋圭三よりこの件に関し突っ込まれ、ばつが悪そうに俯いて頭を下げ、直後歌に入る姿が映し出された。
この番組の「時過ぎ」は、80年代後半の「テレビ探偵団」に谷隼人が出演した際、最後のゲストのリクエスト曲として唐突に流されたことがあり、何の番組の「時過ぎ」かと長年思っていたら30年近く経って謎が解けた。
と、言うことはこの場面の局マスターは保存されてるようだが、放送時のタイトルテロップなどは失われてるようである。

事件発覚3日後の「時過ぎ」

 


しかし・・・、懲りてないのか年末の「レコード大賞」放送直前のリハーサル風景が流れる番組でも、座席に座って物思いにふけってる姿を映し出されてた所、何を思ったのだろう(されたか?)一瞬怒りの表情をテレビ画面にあらわにして見せ、翌年の「2度目」を考えるとこの場面がどうしても想起させられる。

擁護するつもりはないが、これだけハードなスケージュールをこなしてれば相当抑圧された思いもあっただろうし、何もしない相手に対し自ら手を出したり、言葉を荒げるようなことは決してしない男だろう。
大らかな時代だった分、ファンや観客側も現在に比べ荒っぽいことを仕掛けてきたのも確かだと思う、74年の「FNS」では歌に入る直前後頭部に紙テープが直撃し、思わず睨み返すように振り返る姿も映し出されていた。

 

12月21日(日)には、70年代ジュリーを代表する名作「いくつかの場面」がリリースされた、購入特典に抽選で「比叡山フリーコンサート」のフィルム・コンサートや、6折ピンナップなどが用意された(コンサートのファイルムは、当時の番組内では頻繁に使用されたが、やはり全編のテレビ放送はなかったのは確実と思われる)。

この時代の日本の新しい才能達や大御所が楽曲提供・参加し、70年代版の「彼は眠れない」(?)とも取れる。
ティンパン・アレー系が結集した「あの娘に御用心」に話題は集中しがちだが、元・六文銭の及川恒平や、ソロ初期の矢沢永吉に多くの詞を提供し、自らも「プカプカ」を始めとする優れたポップ・ソングライターであった西岡恭蔵の参加にも個人的にはもっと注目してもらいたい。
細野晴臣との交流や、昨年の矢野顕子のライブでも彼の「春一番」が歌われたことからもその才能は確かだ、99年命を絶ってしまったのは改めて残念でならない。

こちらも”今は亡き”になってしまった河島英五作のタイトル曲は、70年代を通し歌われ時に観客との合唱ともなった。
フォーク的な”臭み”があるせいか80年代はあまり披露される機会には恵まれず、00年代になり再びライブで多く歌われるようになったのは、本当の意味で歌詞が実年齢に追いついたからかもしれない。
20代で振り返るには少し早い気もする、昔の若者の方が精神的に老成していたようにも思う、発売前の12月7日放送の沖縄からのライブ番組でも歌われ、おそらくライブでも発売前すでに披露されていたのは間違いないようだ。

中の歌詞カードの曲ごとのポートレートはぜひともアナログ・サイズで手にして見て欲しい、70年代の青春・沢田研二がそこにいるから。




やがて時代は年を追うごとに音楽もファッションも洗練され、80年代に入ると「軽く、薄く、短く、小さく」をモットーにした、「軽薄短小」などという言葉がもてはやされる。
重厚さや長くて大きいものが尊重されたのは高度成長期の話、60年代・70年代の窓の景色は遠い過去へと変わってゆく。

この75年3月に来日公演を行ったジャズ界の”帝王”マイルス・デイビスは「アガルタ」/「パンゲア」という各2枚組の日本でのライブ・レコードを置き土産に残し、80年代に復帰するまで長期引退へ入る。
復帰後~亡くなるまで、この作品で聴かれるような情念渦巻く重いサウンドを演奏することは2度とはなかった、前年74年自ら「ジャズは死んだ」ともつぶやいた。
ジャズの世界もまた、軽くポップな洗練されたフュージョンと呼ばれる音楽に形を変えて行った。

この年「内ゲバ」事件による犠牲者は過去最高を記録、99年に出された書籍「シリーズ20世紀の記憶 連合赤軍"狼"たちの時代-1967~1975」はいみじくも「1975」で区切られ終わる。
それは「あさま山荘」以降終息に向かった反体制勢力は、この後も国内外でハイジャックを始めとする事件を起こすが、だいたいこの75年辺りでその力をほぼ失い内部崩壊を始めたと受け止める。

75年以降も90年代に入るまで、毎年のようにライブはもちろん、テレビのブラウン管でも「時の過ぎゆくままに」を歌うジュリーの姿は見られた。
しかし、75年のジュリーが歌う「時の過ぎゆくままに」はそこにしかないオーラを放つ、77年の「勝手にしやがれ」もまたしかり。
こけた頬・うつろな目で歌い、井上堯之のギターが肉声の如く寄り添う「時の過ぎゆくままに」はその重厚さ・情念みたいな物が、まだ世に受け入れられた時代の葬送曲のようにも聴こえ、黒の衣装はまるで喪服のようだ

結局12月31日、この年の賞レースは同じ事務所の布施明「シクラメンのかほり」が総なめとなり、「日本レコード大賞」も彼の手にと渡った。
「時の過ぎゆくままに」の売り上げ枚数には諸説あるが、オリコン・チャートを元にすると最終的に100位内登場週数26週、91.6万枚となり「勝手にしやがれ」より約2万枚ほど上回る、テレビで歌う姿はドラマシーンを抜きに75年内だけでその数約40に上る。

そして華やかな話題の多かった75年の反動のように、年の終わりの事件がケチをつける結果となってしまい、翌年の停滞へとつながる。
今にして思えばハッピーエンドで終わらないのもこの時代らしい、この時代の映画は最後に全員死ぬのも多い、とにかく重く暗い。

 

 

ジュリーが75年最後の仕事、NHKホールでの「紅白歌合戦」へ出演しようとしていた頃、同じ日、同じ街、渋谷の郵便局では数百枚の自主レコード・ジャケットが床に並べられ、自ら消印を押し発送作業に追われる男の姿があった。

彼はその足で出来たばかりの渋谷のライブハウス「屋根裏」へ向かい、自身のバンドのラストライブを行なった、バンドの名は70年代初頭政治的メッセージを歌詞に込め、一部で熱狂的支持を受けた「頭脳警察」と言う。
そのレコードはかつて「世界革命戦争宣言」「銃をとれ」「赤軍兵士の詩」(※1)の「革命三部作」を収録し、メジャー・レーベルより発売禁止処分を受けた彼らの1stアルバムであり、ジャケットにはあの「三億円事件」のモンタージュ写真が大きくあてがわれていた。

70年代最後の年、彼は歌詞を美しいメロディーに乗せ「浮気な時間はいつだって 勝手に流れを変えちまう 断りもなしに突然に 追いかけても無駄なことだよ」と激動の1970年代を振り返る、"狼"たちの時代は1975年12月31日、終わりの時を告げようとしていたのであった。

 

 

 

 

 

(※1)ここでの「赤軍」は日本の赤軍ではない。

 

 

 
















 


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