'80s Julie TV session

1980年代TVの中のジュリー・・・
って80年代好きとずっと勘違いされたかな今更思う今日この頃(笑)

●1975年の沢田研二を探る④~いくつかの場面

2016年04月27日 | 75年のじゅりー

 

 

さて、三億円時効・沖縄海洋博に沸いた75年もいよいよクライマックスへ向かう、ベトナム戦争の終結もこの年の大きな出来事であった。

改めて08年放送FM「今日は1日 ジュリー三昧」を聴きなおすと、TBSの歌番組出演時には久世光彦より、ストリングスの導入など細かな指示が入れられたことが語られていた。
本人も視聴率的にそれ程高くもなかったし、ドラマの挿入歌で売れたという感じはしてないとの話、発売後の多くのテレビ出演で大衆に支持されていったのかもしれない。

11月に入るとジュリーは映画「パリの哀愁」撮影のため、12日までフランスへ滞在(帰国日時も資料によりまちまちで正確ではないと思う)、帰国後は年末まで毎年恒例になった賞レース関連の番組出演や話題が続くこととなる。

 

 

 


この辺りの75年賞レース関連で特に印象深い物としては、第6回「日本歌謡大賞」におけるノミネート時、フランスから番組出演のため一時帰国、午前11時20分羽田着~夜10時半再びフランスへUターンという離れ技をやって見せた時ではないだろうか?

話だけでも凄いとは思っていたが、当時フランスまでアラスカ経由~北周りで27時間もかかり、現地人から「お前死ぬぞ」とまで言われたらしい。
ジュリー自身の記憶も余程忘れられないのだろう、「夜8時の番組に出演して仮眠をとり夜の便で帰った」と詳細だ(FM「ジュリー三昧」より)、本人も「死にそうだった」とは笑えない話である。

実は24日(月)放送の「日本歌謡大賞」本選の情報量に比べ、ノミネートの日付が原本資料からの特定が出来ず、再調査してみると11月3日(月)の「紅白歌のベストテン」に”即日発表!3万人が選ぶ日本歌謡大賞!! ノミネート歌手総出演”とあり、放送時間も夜8時からの1時間枠でジュリーの記憶とも一致する物が見つかった。

ところが、司会には堺正章とあり、実際の映像を見てみると司会が高島忠夫なのが気になる。
それと本選は東京12チャンネルでノミネートが日テレ放送といのも気がかりだ、それ以外の日にこの映像があてはまる番組名が見当たらない。
よくよく見たら、司会者の立ち位置にちゃっかり英語で「TOKYO12CHANNEL」と書いてあるではないか・・・取りあえずここでは日帰り電撃Uターンは、本選放送日の新聞の番組見出しでも3日にノミネートとあるので、11月3日としておき、今後の再々調査に期待したい。

ちなみに、24日の「日本歌謡大賞」本選は意外にも午後3時~夕方4時50分というおかしな時間帯に放送され、同日の夜8時から放送の日テレ「紅白歌のベストテン」にも「歌謡大賞」の特番として放送・出演してるので、両番組間の関連性は決してありえなくはない。
この24日の時の司会者は確かに堺正章で、「紅白歌のベストテン」の文字をバックに歌うジュリーの姿も確認出来る。

なぜ、そんな時間に放送されたか?と考えたら75年の24日は月曜日、おそらく23日(日)勤労感謝の日の振り替え休日で休みだったのではないだろうか。

「歌謡大賞」本選では「パリの哀愁」で共演のクローディーヌ・オージェやサリーの姿も見られ、放送音楽賞受賞をキスで祝福、直後「奥様に一言」という司会の高島忠夫の突っ込みに、言葉を発さず笑みで返す光景も見られた。
身内への私信をテレビの電波には乗せたくなかったのか、それとも単なる照れ笑いだったか・・・

 

話は戻り、11月13日(木)ホテル・オークラで「時の過ぎゆくままに」100万枚突破の謝恩パーティが関係者500名余りを集め開かれた、これは正式な帰国翌日ぐらいに開催されたように思われる。
高さ6メートルの氷細工のエッフェル塔も置かれ、「巴里にひとり」や「時の過ぎゆくままに」をはじめとするヒット曲が披露され盛り上がった・・・こう書くと何か特別な出来事のように見えるであろう。

が、当時頻繁にヒット記念・発売記念と称しこの手のパーティは度々開かれてたようで、今となっては華やかな黄金時代が偲ばれこの時代らしい大人の雰囲気・重厚さも感じる。
この席で、フランスのファンはプロマイドを欲しがり、放送局には来るが日本人のようにどこまでもは追ってはこない、第3の特徴に表現方法の違いとして両ほほにキスをしてくると述べた。
「歌謡大賞」でのクローディーヌ・オージェも、なるほど向こうではごく自然な行為のようだ。
 

 

帰国直後の14日(金)には、さっそくフジ「歌謡ヒットプラザ」に出演、早くに収録済みと思われる来年の「かくし芸」の予告が流れた。
以後19日(水)の「レコ大速報」、先に述べた24日(月)「日本歌謡大賞」、26日(水)「あなたが選ぶ全日本歌謡音楽祭 入賞者」、12月2日(火)「FNS歌謡祭 下半期ノミネート」、12月14日(日)「日本有線大賞」と、賞レース物への出演が続く、とにかくほぼ全ての賞番組に「予選」と「本選」があるからややこしい。

 

そう思ってたらこの問題は翌76年の新聞記事にプロダクションの団体である、日本音楽協会が在京民放各社に「音楽祭の顔ぶれがいつも同じ」「本大会の前にノミネートを開くのをやめてくれ」などクレームを申し入れたとあり、思わず苦笑いしてしまった。
さらに「この2~3年の新人が子供すぎる」「見た目のかわい子ちゃんの出しすぎ」、「歌よりアクション、涙のご対面などプラスαで視聴率を取ろうとしてる」と批判の文章は続く、当時から現代に通じる問題提議がされていたのには驚いた。 

日本の敗戦原因も突き詰めていくと、現代の社会の構造と全く同じとはよく聞く、物事の本質は何十年経っても変わらない。

 

 

この頃、「11月22日 銚子」「23日 宇都宮」「12月6日 京都」「12月7日 刈谷」、秋ツアーとまで呼べない散発的なコンサートが開かれていた。

問題の事件はこの過程の中、7日の刈谷公演の帰途に起きたようだが、詳細については興味がないのでわからない。
この時代の芸能誌は今以上に”話を盛る”と、現在放送中の「爆報!THEフライデー」でも古参芸能人が口を揃えよく話すので、正確な検証は今となってはこの手の本を追っても難しそうだ。

度々本人も語り、91年のBS「沢田研二スペシャル~美しき時代の偶像」内でも当時の新聞記事がそのまま放送されてるので、今更隠す件でもないだろう、例の「頭突き」・・・である。
「関西公演の帰途」、「新幹線のホーム」、「12月17日(水)一般客からの訴えで明るみに」なり、翌18日(木)に新聞各社の社会面で報道という流れらしい、もちろん芸能各誌で騒がれたといえ、後から追う限りでは2度目の事件時に比べるとあまり大きくはならなかったようにも見える。

 

 

そんな中、12月21日(日)放送のTBS「サンデースペシャル 日本レコード大賞17年の泣き笑い」、つまり事件発覚の3日後の番組で、司会の高橋圭三よりこの件に関し突っ込まれ、ばつが悪そうに俯いて頭を下げ、直後歌に入る姿が映し出された。
この番組の「時過ぎ」は、80年代後半の「テレビ探偵団」に谷隼人が出演した際、最後のゲストのリクエスト曲として唐突に流されたことがあり、何の番組の「時過ぎ」かと長年思っていたら30年近く経って謎が解けた。
と、言うことはこの場面の局マスターは保存されてるようだが、放送時のタイトルテロップなどは失われてるようである。

事件発覚3日後の「時過ぎ」

 


しかし・・・、懲りてないのか年末の「レコード大賞」放送直前のリハーサル風景が流れる番組でも、座席に座って物思いにふけってる姿を映し出されてた所、何を思ったのだろう(されたか?)一瞬怒りの表情をテレビ画面にあらわにして見せ、翌年の「2度目」を考えるとこの場面がどうしても想起させられる。

擁護するつもりはないが、これだけハードなスケージュールをこなしてれば相当抑圧された思いもあっただろうし、何もしない相手に対し自ら手を出したり、言葉を荒げるようなことは決してしない男だろう。
大らかな時代だった分、ファンや観客側も現在に比べ荒っぽいことを仕掛けてきたのも確かだと思う、74年の「FNS」では歌に入る直前後頭部に紙テープが直撃し、思わず睨み返すように振り返る姿も映し出されていた。

 

12月21日(日)には、70年代ジュリーを代表する名作「いくつかの場面」がリリースされた、購入特典に抽選で「比叡山フリーコンサート」のフィルム・コンサートや、6折ピンナップなどが用意された(コンサートのファイルムは、当時の番組内では頻繁に使用されたが、やはり全編のテレビ放送はなかったのは確実と思われる)。

この時代の日本の新しい才能達や大御所が楽曲提供・参加し、70年代版の「彼は眠れない」(?)とも取れる。
ティンパン・アレー系が結集した「あの娘に御用心」に話題は集中しがちだが、元・六文銭の及川恒平や、ソロ初期の矢沢永吉に多くの詞を提供し、自らも「プカプカ」を始めとする優れたポップ・ソングライターであった西岡恭蔵の参加にも個人的にはもっと注目してもらいたい。
細野晴臣との交流や、昨年の矢野顕子のライブでも彼の「春一番」が歌われたことからもその才能は確かだ、99年命を絶ってしまったのは改めて残念でならない。

こちらも”今は亡き”になってしまった河島英五作のタイトル曲は、70年代を通し歌われ時に観客との合唱ともなった。
フォーク的な”臭み”があるせいか80年代はあまり披露される機会には恵まれず、00年代になり再びライブで多く歌われるようになったのは、本当の意味で歌詞が実年齢に追いついたからかもしれない。
20代で振り返るには少し早い気もする、昔の若者の方が精神的に老成していたようにも思う、発売前の12月7日放送の沖縄からのライブ番組でも歌われ、おそらくライブでも発売前すでに披露されていたのは間違いないようだ。

中の歌詞カードの曲ごとのポートレートはぜひともアナログ・サイズで手にして見て欲しい、70年代の青春・沢田研二がそこにいるから。




やがて時代は年を追うごとに音楽もファッションも洗練され、80年代に入ると「軽く、薄く、短く、小さく」をモットーにした、「軽薄短小」などという言葉がもてはやされる。
重厚さや長くて大きいものが尊重されたのは高度成長期の話、60年代・70年代の窓の景色は遠い過去へと変わってゆく。

この75年3月に来日公演を行ったジャズ界の”帝王”マイルス・デイビスは「アガルタ」/「パンゲア」という各2枚組の日本でのライブ・レコードを置き土産に残し、80年代に復帰するまで長期引退へ入る。
復帰後~亡くなるまで、この作品で聴かれるような情念渦巻く重いサウンドを演奏することは2度とはなかった、前年74年自ら「ジャズは死んだ」ともつぶやいた。
ジャズの世界もまた、軽くポップな洗練されたフュージョンと呼ばれる音楽に形を変えて行った。

この年「内ゲバ」事件による犠牲者は過去最高を記録、99年に出された書籍「シリーズ20世紀の記憶 連合赤軍"狼"たちの時代-1967~1975」はいみじくも「1975」で区切られ終わる。
それは「あさま山荘」以降終息に向かった反体制勢力は、この後も国内外でハイジャックを始めとする事件を起こすが、だいたいこの75年辺りでその力をほぼ失い内部崩壊を始めたと受け止める。

75年以降も90年代に入るまで、毎年のようにライブはもちろん、テレビのブラウン管でも「時の過ぎゆくままに」を歌うジュリーの姿は見られた。
しかし、75年のジュリーが歌う「時の過ぎゆくままに」はそこにしかないオーラを放つ、77年の「勝手にしやがれ」もまたしかり。
こけた頬・うつろな目で歌い、井上堯之のギターが肉声の如く寄り添う「時の過ぎゆくままに」はその重厚さ・情念みたいな物が、まだ世に受け入れられた時代の葬送曲のようにも聴こえ、黒の衣装はまるで喪服のようだ

結局12月31日、この年の賞レースは同じ事務所の布施明「シクラメンのかほり」が総なめとなり、「日本レコード大賞」も彼の手にと渡った。
「時の過ぎゆくままに」の売り上げ枚数には諸説あるが、オリコン・チャートを元にすると最終的に100位内登場週数26週、91.6万枚となり「勝手にしやがれ」より約2万枚ほど上回る、テレビで歌う姿はドラマシーンを抜きに75年内だけでその数約40に上る。

そして華やかな話題の多かった75年の反動のように、年の終わりの事件がケチをつける結果となってしまい、翌年の停滞へとつながる。
今にして思えばハッピーエンドで終わらないのもこの時代らしい、この時代の映画は最後に全員死ぬのも多い、とにかく重く暗い。

 

 

ジュリーが75年最後の仕事、NHKホールでの「紅白歌合戦」へ出演しようとしていた頃、同じ日、同じ街、渋谷の郵便局では数百枚の自主レコード・ジャケットが床に並べられ、自ら消印を押し発送作業に追われる男の姿があった。

彼はその足で出来たばかりの渋谷のライブハウス「屋根裏」へ向かい、自身のバンドのラストライブを行なった、バンドの名は70年代初頭政治的メッセージを歌詞に込め、一部で熱狂的支持を受けた「頭脳警察」と言う。
そのレコードはかつて「世界革命戦争宣言」「銃をとれ」「赤軍兵士の詩」(※1)の「革命三部作」を収録し、メジャー・レーベルより発売禁止処分を受けた彼らの1stアルバムであり、ジャケットにはあの「三億円事件」のモンタージュ写真が大きくあてがわれていた。

70年代最後の年、彼は歌詞を美しいメロディーに乗せ「浮気な時間はいつだって 勝手に流れを変えちまう 断りもなしに突然に 追いかけても無駄なことだよ」と激動の1970年代を振り返る、"狼"たちの時代は1975年12月31日、終わりの時を告げようとしていたのであった。

 

 

 

 

 

(※1)ここでの「赤軍」は日本の赤軍ではない。

 

 

 
















 


●1975年の沢田研二を探る③~時の過ぎゆくままに

2016年04月12日 | 75年のじゅりー

 

 

 

7月20日の比叡山オープニングコンサートで、大成功の元幕を明けた「JULIE ROCK'N TOUR '75」。
8月からツアーは本格的にスタート、8日のつま恋を除き全て1日2回公演、日程もかなりハードだ。

8月1日 北海道厚生年金
8月3日 青森市民会館
8月4日 秋田県民会館
8月5日 山形県民会館
8月6日 新潟県民会館
8月8日 つま恋 19:00のみ
8月9~10日 名古屋市民会館
8月11日 金沢観光会館
8月13日 岡山市民会館
8月14日 島根県民会館
8月16日 広島郵便貯金会館
8月17日 松山市民会館
8月18日 山口市民会館
8月19日 長崎市公会堂
8月20日 福岡市民会館
8月22・23日 大阪フェスティバルホール
8月27・28日 渋谷公会堂

1ヶ月で20日間、39公演になるだろうか?

とは言っても、この時代のミュージシャン達はジャズ喫茶や米軍キャンプ・ディスコでの無数のステージ、過酷なライブツアーの逸話は数多く、当時としてはこれでも平常運転なのかもしれない。

注目したいのが75年の「つま恋」と言えば、吉田拓郎とかぐや姫など中心に行われた、オールナイトイベントがこの75年の8月3日と4日のハズ。

こちらは日本のフォーク&ロック史に残るコンサートとして映像や資料も多く残され、中には「拓郎・かぐや姫・5万人 炎の12時間つま恋コンサート肉迫写真集」などというタイトルから暑苦しい写真集まで出てると言うのに、8月8日のジュリーのコンサートに関しては情報が皆無なのは何故なのだろう?、年度や日付が離れてるならともかく、わずか数日後ならなおさら気にならずにいられない。
いったい「つま恋」のどの場所でどのようなコンサートだったのだろう、わかっているのは昼間”ジュリーズ”とスタッフによる野球大会が行われ、約100人のファンが観戦したというのん気な情報だけなのが残念。

 

8月30日、日比谷野外音楽堂で「JULIEVS沢田研二 セカンドライブコンサート」というツアーとは別枠のスペシャルイベントが、昼間の3時から行われた、「全席自由・2000円」という設定も現在のジュリーのライブではありえない。
当時の日比谷野音のロックイベントは金も払わず突破する客、階段がありステージ上に上がってくる客は当たり前、野音ならではの解放的なイベントだったのだろう。

出演は他に、この年ハワイで「サンシャイン・フェスティバル」に出演し数万の客を熱狂させた話題のロックバンド外道、加藤和彦プロデュースでデビュー直前のルージュ、スーパーギタリスト竹田和夫ひきいるクリエイション、プログレのコスモスファクトリー、70年代日本のロック好きにはたまらない名前が並ぶ。
「聖者の行進」では久々にステージに上がるショーケンの姿も見られた、なおこの模様は外道など他の出演者も含めラジオでもオンエアされたらしい。

4月に解散したキャロル、ダウン・タウン・ブギウギ・バンド、カルメン・マキ&OZの1stなど、この年前後から日本のロックバンドも徐々に好セールを見せるバンドが出始め、反面80年代に向かって洗練・商業化も進行してゆくことになる。

ジュリーのツアーに井上バンドと共に参加した「ミッキー吉野グループ」のミッキー吉野も、「ゴールデン・カップス脱退後帰国したらフォーク全盛でガッカリ」し、テレビドラマ・CMの音楽製作を行うスタジオチームにシフトチェンジ、売れるまで月1枚のペースで他人のレコード製作しながらバンドを維持したと言う。
この翌年には「ゴダイゴ」と名乗り70年代後半には大ブレイク、日本のお茶の間にロックバンド&ロックサウンドなるものを浸透させていった1人だが、ヒットしたシングル曲のイメージが強すぎるせいか現在の評価はティンパン・アレー系に比べ低い気がする。
放送中の「悪魔のようなあいつ」の脚本を手がけていた、長谷川和彦の翌76年映画監督デビュー作「青春の殺人者」で、ゴダイゴの最初のアルバムから音楽が使われることになるのも興味深い。

日本で最も早くシンセサイザーを導入した1人でもあるミッキー吉野と、75年は井上バンド側もサリーの脱退、新メンバー加入、渡辺プロから独立しウォーターエンタープライズ設立、10月には日本の女性ロックボーカルの始祖・麻生レミを加え単独公演を行うなど、大きな動きがありメンバー間も悲喜交交、それら全てがサウンド面にも反映されたツアーだったのかもしれない。

 

夏のツアーも終わり、9月に入ると8月21日にリリースされたシングル「時の過ぎゆくままに」の本格的売出しが始まる。

ここはジュリーのテレビ出演が主題のブログ、それでは「時の過ぎゆくままに」を最初にテレビで披露したのは何時なのか?(ドラマシーンは除く)どのぐらい出たのか?
今更この曲は「ジュリー最大のセールを収め6人の作家に競わせ決めた・・・」うんぬん語ったとこで無意味、誰も語らなかった「時過ぎ」に突っ込んでみようと思う(ジュリー自身も「時の過ぎゆくままに」を「時過ぎ」と略す時がある)。

 

まず、8月前半に2回出ただけで8月のテレビ露出もドラマを除くと少ない、ここでは「時過ぎ」は歌われてない可能性が高い。
そうなると9月1日放送の「夜のヒットスタジオ」(DVD収録&再放送済み)が初なのだろうか?

ヒントとなる映像が1つ、頻繁にTBSで放送されている「あなたが聴きたい歌の4時間スペシャル」、あの番組でおなじみになってしまった、何度も流れるこの「時過ぎ」映像。



これは75年9月23日放送のTBS「歌のグランプリ」最終回の映像、会場は赤坂プリンスホテルからの生中継。

 

そこでもう1つ、「あなたが聴きたい」で流れたコチラの映像。



新聞の見出しから、「歌のグランプリ」という番組がパーティー形式の番組だったのを薄々感じてはいたが、この映像も雰囲気とTBSというキーワードから考えて「歌のグランプリ」の映像と思われる。

問題は後ろにサリーの姿を確認出来るのと、サリーが夏服、ジュリーの衣装がドラマの可門良風、ということはサリーの脱退前で季節は夏頃、かなり初期の「時過ぎ」映像と見て間違いなさそうだ。



該当する「歌のグランプリ」を探って行くと、遡り5月20日放送回の「歌のグランプリ」になってしまう、6月6日から始まるドラマ「悪魔のようなあいつ」の宣伝にでも歌ったのだろうか?

もう1つ実は8月12日放送の「歌のグランプリ」にも出演していて、しかも出演者に「岸部修三」の名前がある回があるのだ、この時だけサリーが復帰して加わった可能性も不定は出来ない。
ところがこの回は資料から判断すると別の曲が歌われた可能性が高い・・・というワケで残念ながらハッキリしない。

ただこの「歌のグランプリ」が9月より前、初期の「時過ぎ」映像なのは間違いないとは思う。

同じく75年キャンディーズの映像
会場のパーティー形式的雰囲気から「歌のグランプリ」と思われる



話を戻すと「レコ大」勝負曲「時過ぎ」、9月1日放送の「夜のヒットスタジオ」から10月まで、「ロッテ歌のアルバム」、「ベスト30歌謡曲」、「歌のグランプリ」など1ヶ月に10回ばかりの各番組への出演が続き、売り出しに力が入る様子がわかる。

9月16日放送の「ミュージックフェア75’」では「花・太陽・雨」「残された時間」「時の過ぎゆくままに」、井上バンド+ミッキー吉野グループのバッキングで夏のライブの雰囲気が再現された。
9月29日放送の「夜のヒットスタジオ」は「時過ぎ」で4度出演してるうちマスターはおろか、ファンの当時録画でもこの回だけ見かけない幻の回。
他の3回の衣装や同時期の「時過ぎ」映像から考えると、おそらく黒衣装で歌ったのではないだろうか、いつも予想を遥か上回るジュリーファンのことだ、ある所には必ずある気はする。



9月26日にはドラマ「悪魔のようないあいつ」が全17話いよいよ最終回をむかえた、途中打ち切りの話も聞く。

演出・プロデュースを手がけた久世光彦自身”あまり視聴率の取れなかった死屍累々のような作品”と酷評しながら、”1番思い出に残ってる作品、出来の悪い子ほど可愛い”ともあるインタビューで話している、視聴率的には良くなかったのは確かなようだ。
”今のように個室で見る、ビデオに録画して後で見るなんてこともなかった、一家で揃って会話をしながら見た最後の時代”とは説得力を感じる、ヒット作の「時間ですよ」や「ムー」に比べあまりにも娯楽性はないドラマ、テレビの見方も違ったのだろう。

実際の「三億円事件」時効成立の12月9日(火)深夜23時頃から10日(水)にかけての各局の報道ぶりも凄まじい。


NHK「3億円強奪事件 時効成立迫る」
日テレ「11PM」時効成立!? 土居まさるの3億円ジョッキー
TBS「時効!3億円事件・その残したもの」
フジ「”3億円”時効成立」
NET「ザ・23」時効!!3億円事件

これが深夜の同時刻に放送、今の24時間テレビが流れてるような時代じゃない、調べながら75年がいかに「三億円事件」時効に沸いたのか今も紙面から熱気が伝わってくるようであった。

 

一方、スケージュールにレコーディング日がグッと増え、年末に発売されるアルバム「いくつかの場面」のレコーディングがこの頃進められていたらしい。
・・・と思ったが、「9月中旬に仏ポリドールのディレクター、ミッシュル・エルモス・ニーノ氏が来日し仏語曲7曲、英語曲2曲、「追憶」「白い部屋」11曲が録音 フランス向けのLP製作」ともあり、そっちのレコーディングかもしれない。

 

この頃、”トッポ”こと盟友・加橋かつみのテレビ出演も目立つ、北島音楽事務所に移籍し演歌調の曲をリリースしてた時期だろう。
特に9月5日放送の東京12チャンネル「加橋かつみとデート」が、夜7時台に放送されていたのはタイムマシンがあれば戻って拝みたいような番組、”テレビ番外地”と呼ばれた12チャンネルらしい。

同じく元オックスの野口ヒデトも「真木ひでと」と改名し演歌調で復活を果たしヒット、トッポ以上に多くのテレビ出演をしていた、「転落歌手復活」などこの時代表現もドギツイ。
ショーケンも久しぶりに「お前に惚れた」で、歌手業を再開しこちらもどこか演歌調であった。

見方によっては「時の過ぎゆくままに」もライト演歌・ポップ演歌(?)とも映る、ひょっとして20代後半に差し掛かったジュリーも、事務所の方向性によっては「あなただけでいい」に見られるようなヤング演歌調(??)への転身もありえたのかもしれない。

歌謡曲もGS~筒美京平登場以降ポップ化したと言っても、フォーク~ニューミュージックが台頭してきたと言っても、演歌やムード歌謡の勢力もまだまだ衰え知らずのこの時代、この年最大のヒットは”ド演歌”、さくらと一郎の「昭和枯れすすき」なのだから。
その前年74年は殿さまキングス「なみだの操」、73年はぴんからトリオの「女のみち」が最大のヒット、”ド演歌”が200万枚に迫る勢いで売れたのだ。

こんなこと書くのはやめようかと一瞬思った・・・が先日ジュリー自身が「堯之さん、大野さん達とPYGをやってなければより歌謡曲、ひょっとしたら演歌へ行ったかもしれない」と語る当時のラジオを聴かせて頂き、まんざら間違ってないじゃないかと思ってしまった。
周りのスタッフ・ブレイン達にも恵まれていたのだろう、優れたミュージシャンの周りには優れた人材が集うのは常である。

作詞の阿久悠もこのドラマの話がなければジュリーと関わることはなかったと、著書に書かれてるのもたまたま図書館で見かけてしまった、「時の過ぎゆくままに」はお互いにとってキャリアの最重要曲の1つとなって行く。

 

10月に入っても「ベスト30歌謡曲」、「歌謡ヒットプラザ」、「ヤングおーおー」、「ドカンと一発60分!」、ドリフ特番など順調にテレビ出演が続く、10月3日・4日には「大阪祭り」(難波球場)とスケジュールにはある。

これが後にテレビ放送もされた大阪球場「音と光の饗宴 沢田研二ショー」に違いない、製作は読売テレビだが関東地区でも放送されたようだ。
関東での放送日は12月13日(土)日本テレビ、驚いたのが放送時間、朝の9時(!)からの1時間枠、朝起きて新聞見たら終わってるような時間帯。

いったい誰に向けての放送だったのだ?、なんと大らかな、ある意味雑な時代だろう。

 

この後も「時の過ぎゆくままに」の快進撃は続くかに思えた、ところがここで一旦「時過ぎ」のセールにちょっと待ったが入る。

10月18日から11月12日まで約1ヶ月もの長期間、先日亡くなられた出目昌伸監督の映画「パリの哀愁」撮影と海外盤レコードのプロモーションのためフランスへジュリーは渡り、それに合わせる様に18日以降テレビ出演は事前収録したいくつかの番組以外、日本での露出はバッサリと途絶えてしまう。

東京~ヨーロッパの度重なる往復、過密なスケジュールに追われ、甘い新婚生活もままならず「スレ違い」などの報道も囁かれ始めた。
ジワジワと増殖するフラストレーション、元々発火しやすい爆薬の導火線は徐々に伸びて行った、”好事魔多し”とは誰が言ったか季節は問題の12月へと向かう。

 

テレビにはプロレスラー大木金太郎やボボ・ブラジルが、得意の「原爆頭突き」や「一本足頭突き」をこれでもかと連打する姿がテレビのゴールデンに映し出されていたのもちょうどまたこの時代。
ゴールデンに週に3団体もプロレスが放送され高い視聴率をはじき出していた、「頭突き」という今にしてみると一見突拍子もない技、逆に今ではなかなか見かけない光景を、ごく日常的に見かける機会が現在よりずっと多かったのだ。

やっかいなことに、ただただ「頭突き」一本槍で試合をする大木金太郎は複数の団体のリングに上がり、それだけテレビに映し出されるその技を見かける確立も高かったのかもしれない、当然ジュリーもその1人であり何が潜在下にインプットされたかは定かではない。

あの吉田拓郎も大のプロレス好きだったと言う、見たことがないとは言わせない、いや決して冗談ではなく・・・

 














●1975年の沢田研二を探る②~巴里にひとり

2016年03月19日 | 75年のじゅりー

 

 

 

75年に入り海外進出・舞台・連続ドラマの撮影・結婚、続々と新たなる試みが押し寄せ、この時代の平常時に比べるとテレビへの露出が少なかったと思われるジュリー。

それでは「白い部屋」に続いて5月にリリースされた「巴里にひとり」、この曲で露出は増えたのだろうか?
「海外でヒットした」ことを含めジュリーファンには重要曲として認知されるこの曲、しかしこちらも一歩外に出ればファン以外にはあまり知られてない曲と感じる。

なにしろ「追憶」「危険なふたり」は言わずもがな、「魅せられた夜」34万、「恋は邪魔もの」27万なんて数字を連発してた時期だ。
実際この曲も「勝手にしやがれ」や「TOKIO」などの有名曲に比べ、国内でのテレビ露出はそれほどではなく、比例するように国内セールのみに絞れば売り上げも特別高くはない(最高位5位 売り上げ20.3万枚)。

 

 

まず、発売日が75年5月21日、となると「巴里にひとり」テレビでの歌い始めは5月に入ったぐらいからと考えられる。

かっこうのサンプル「夜ヒット」DVD収録の5月5日放送回では「白い部屋」と「巴里にひとり」の2曲が披露、他の番組でもこの2曲が披露されることもあったらしい。
たとえば発売前日に当たる、5月20日放送のTBS「歌のグランプリ」では「大突撃50曲メドレー」、こんな見出しが踊る他、「招待されるのは沢田のレコードを海外に買いに行こうと計画中のOLら200人」ともある。

 


「夜ヒット」5月5日放送回からここまでの間・・・


●75年5月5日(月)
フジ「夜のヒットスタジオ」(「夜ヒット」DVD収録)

●75年5月13日(火)
フジ「栄光のビッグスター75’」

●75年5月14日(水)
NET「ベスト30歌謡曲」

●75年5月20日(火)
TBS「歌のグランプリ」

●75年5月22日(木)
MBS 記念番組(「プリンツ21」ジュリー特集年表掲載 )

●75年5月
NHK「歌のゴールデンステージ」(「ヤング」誌スケジュール掲載 ) 

5月だけで6番組しか確認出来ない、うち2つは原本資料未確認(ちなみに渡辺プロ「ヤング」誌は先々のスケジュールのためか実際には出演してない掲載もある)、5月中旬頃ドラマ撮影もスタートしていたようだ。

発売直前5月19日には、前年夏の「三菱重工爆破事件」を始めとする「連続企業爆破事件」の「東アジア反日武装戦線”狼”」メンバーが一斉逮捕、同じ年齢の主犯格達にジュリーは何を思ったのか。
犯人数名は現在も海外逃亡中、ジュリーも事件も現在進行形、1975は何も終わってはいない。

 

 6月4日、いよいよ帝国ホテルにて午後3時から婚約記者会見、夜には再びヨーロッパへ旅立ち帰国は13日、4日出発~帰国12日表記の物もありバラバラ。
婚姻届けの提出先の出張所も資料により違う、どれが正しいのだろう?いずれにしても後から正確な日時特定は難しいと感じる。

5日、ニッポン放送「はかま満緒のいきいき生放送」内で婚約記者会見は放送、翌6日には各局ワイドショー、同日夜のフジ「スター千一夜」では「沢田研二 結婚速報」とあり大々的にテレビでも報道。
どうもこの1日遅れずつの流れも不自然に感じるが・・・当日新聞の縮刷版に掲載されてる1次資料と言える物より確認した物であり、6月4日が婚約記者会見日なのも間違いないとは思う。

 

6月6日、ジュリー初の連続ドラマTBS「悪魔のようなあいつ」がスタート。

海外進出・結婚、もはや容姿共々無敵状態のジュリー、この人は人生で何度絶頂を経験したのだろう、常人が到達出来る域を遥か越えている。

余談ながらやたら「伝説」の一語で語られるこの番組、歴史から完全に見落とされてるのが夜8時台にはドラマ「あこがれ共同隊」も同日同局のTBSでスタート。
郷ひろみ・西城秀樹・桜田淳子が出演、初回には山口百恵、他の回では吉田拓郎がゲストに登場という、堂々たるもう1つの「伝説」のドラマだ。
8時台に「あこがれ共同隊」を見て、10時台の「悪魔のようなあいつ」を見てたという方も案外多いかもしれない、最終回もまた「悪魔のようなあいつ」と同日。
金曜8時台裏では、時まさに絶頂のアントニオ猪木ひきいる新日本「ワールドプロレスリング」、勝野洋のテキサス刑事の「太陽にほえろ」も毎週放送、テレビの中に本物のスター達が存在した幸福な時代。

ところが80年代後半「テレビ探偵団」に西城秀樹が出演した際、「あこがれ共同隊」のマスターテープは残されていないことが判明(※1)、ファンが家庭用デッキで録画した映像が代わりに流されたことがあった。
これだけ豪華出演者勢ぞろいのドラマ、ドラマ保存率の高いTBSが残さなかったのも謎、ジュリーのファンとしては「悪魔のようなあいつ」が消去されなかったのは幸運と言うしかない、消去される可能性も十分あったのは記憶に留めておきたい。

 

 さて、肝心の「巴里にひとり」に戻ると6月に入ってもなお、テレビ露出はそう多くはない。


●75年6月16日(月)
フジ「スター千一夜」 ふくらむ夢を・・・
フジ「夜のヒットスタジオ」

●75年6月18日(水)
NET「ベスト30歌謡曲」

●75年6月29日(月)
TBS「東京音楽祭 国内大会」(同日毎年「後夜祭」的な「サウンド・インS」は歌なし)

 


確認出来たのは4番組、どれもファンには案外知られた映像ではないだろうか、手元にもそれぞれ複数のソースが確認出来古くから引き継がれてきた物なのだろう、この曲辺りになるとベータマックスが出始めファン所有の映像の数もわずかづつながら増えてくる。

それでもソニーのベータ2種目のSL-7300、75年7月の当時価格が29万8000円、60分テープが4500円(βⅠのみ倍速なし)、現在の紙幣価値にするとデッキが50万、テープは軽く1万ぐらいの感覚だろうか。
ジュリーのコンサートがA席で3000円、後方は2000円でも見れた頃だ、誰しもが買えてデッキがあっても全てを保存出来たハズがない、ジュリーファンのパワーは今も昔も金額・場所・時間全てを越えてしまうぐらいの熱量を感じずにはいられない。

音楽に限らず、他ジャンルにも残すに残せなかったのが惜しまれる映像がたくさんある時代だ。
この6~7月にかけても、ティンパンアレー、山下達郎のシュガーベイブ、浜田省吾の愛奴、頭脳警察、友川かずきの名が番組表には並ぶ、どれも今もコアなファンが居ながら全てこの世から失われてしまった映像なのだ(厳密にはシュガーベイブが1曲のみ現存)。

6月25日、ジュリー27歳の誕生日深夜には極秘披露宴が行われ、ショーケンや1人を除く元タイガースのメンバー全員など約100人が集まった、サリーの井上バンド脱退~役者転向もデビューから追いかけたリアル世代には特に忘れられない事柄だろう。

ジュリー結婚に関する、75年に入り新聞に掲載された芸能週間誌広告見出しだけでその数実に30以上に上る。

 

 

7月に入ってもレギュラーのドラマが放送されてたといえ露出は少なく、見覚えのない番組は7月1日の「75’上半期FNS歌謡祭」と12日「8時だョ!全員集合」ぐらい。

ただし「全員集合」も内容は7月から11週に渡り過去のコント集が放送された時期らしく、過去出演時のVTRが流れたのみの可能性が高い、「FNS」では特別賞を受賞。
7月11日の「上半期歌謡大賞」にジュリーの名前は見当たらないのと、7月13日の「東京音楽祭」世界大会の方も新聞に名前がなく出てない可能性が高いと考えられる。
他の7月の出演番組は8日のミカ・バンドとの「ミュージックフェア75’」、比叡山翌日21日の結婚祝いの「夜ヒット」、こちらもファンにはよく知られてる映像だと思う。


最後に、局マスターが現存してる可能性が高いのと、その根拠をまとめてみよう。

「夜のヒットスタジオ」5月5日放送回(製品化・再放送されてる)
「東京音楽祭」(70年代当時はTBSが力を入れていた番組、もっと前の年の保存が確認されてる)
「歌のグランプリ」(桜田淳子のDVDに5月20日放送回を始め、何本かこの番組が収録されている)
「75’上半期FNS歌謡祭」(過去のFNS特番で保存が確認されてる)
「8時だョ!全員集合」(保存率の高さで有名、VTRのみ出演の可能性も高い)

逆に保存”されてない”可能性が高い映像、同じくその根拠をまとめてみると・・・

「スター千一夜」(月~金の70年代帯番組、全部は保存されてないと考えるのが妥当)
「ベスト30歌謡曲」(NETの保存率は低い、こちらもパラパラ残ってる程度と考えられる)
「夜のヒットスタジオ」DVD未収録回(DVD収録、再放送共々されなかった)
「ミュージックフェア75’」(同日に出演してる加藤和彦追悼でフジに出演した全映像を流した際、この回は流れなかったから)


と言うワケで「巴里にひとり」、「もっとテレビで歌われてたのだろう」、「ベータが出たと言っても古いからあまり残ってないのだろう」と思い込んでいて、調べてみたら「白い部屋」に続きこちらも想像以上にテレビ露出自体が少なかったと言う・・・これも海外プロモーション・結婚・ドラマ撮影の余波なのだろうか?
ドラマ「悪魔のようなあいつに」かけるジュリー自身の、「他の仕事を削ってでも打ち込みたい」との言葉も残されている、7kgの減量を課してまで賭けたドラマであった。

 

夏真っ盛りの7月20日午後3時、75年ジュリーを象徴する一大ビッグイベント「比叡山フリーコンサート」が3万人の観客を山上に集め開催、ステージには150本もの巨大スピーカーが並んだ。
この日、行きたくても行けない全国のファン達はAMラジオ(ニッポン放送)にダイヤルをセット、大音量にしそれぞれの想いでこのコンサートを聴いた。
同時にタイガース時代からの切り抜きやポスターを、この日全て処分したファンも決して少なくはないのだろう。

翌月、8月1日北海道から本格的に全国縦断コンサートはスタート、75年秋以降もヨーロッパ~国内の往復は続く、年末の総本山「日本レコード大賞」へ向け、新曲「時の過ぎゆくままに」を引っさげて75年後半もジュリーは休みなく走り続けるのであった・・・

 

 

 

 

ファン提供の映像から

 

ランニング中のヒデキ

 

 

 なぜか突然

 

ヒデキも死んでたのは知られてない( ̄▽ ̄)

 

 

 

 

(※1)25年以上前の時点での話、その後何らかの素材が発掘される可能性は不定出来ない。
現在ネット上で見られる番組OPは同じく80年代後半~90年代初頭に多数放送してたTBS系の回顧番組内で放送された物だったと思う、視聴者提供かマスターかは不明。

 

 

 

 

 

 

 

実は、この時期ラジオ覧には月~金で必ず「沢田研二」の文字がアリ、当時のファンはほぼ毎日ジュリーの声を聴けたのでした(「沢田研二~愛をもとめて」かな)、うらやましい(笑)

 

 

 

続く、かも?

 

 

 

 

 


●1975年の沢田研二を探る~白い部屋

2016年02月21日 | 75年のじゅりー

 


昨年ツアーで久々に歌われた75年のシングル「白い部屋」、この曲をテレビで歌う姿をハッキリと記憶されてる方は果たしてどれぐらいいるのだろうか?

 



「危険なふたり」から「追憶」に至る過程で74年いっぱいまで怒涛のテレビ出演をこなしたジュリー。
遅まきながらその姿を追ってるだけでも、ソロとして最初のピークを迎えていたのが実感出来る。

前年74年あたりからミディム国際見本市への出席、ハワイでのライブなど本格的な海外進出計画がスタート、その流れで9月にはロンドンでアルバム録音を済ませ、海外に先駆ける形でリリースされた国内シングル「愛の逃亡者」。
こちらは異例の「英詞」のままの発売とあり、それなりのテレビ露出・プロモーションもあったにせよ大きなヒットまでは至らず(最高位12位・19.1万枚)。

しかし、当初国内リリースはされない予定だったという話もあり、セールに関しては国内では元より製作サイドも「英詞」とあって過度の期待はしてなかったのかもしれない。

あくまで「ファンの熱い要望に答えた」(「ヤング」誌74・12月号より)、実験的・変則リリース感は残る(ちなみにほぼ同時期に西城秀樹「傷だらけのローラ」仏語版なんて珍品も国内シングル発売されたこともあった)。

明けて75年、年明けよりさらに本格的なヨーロッパでのシングルリリース&プロモーション活動、煽りを受けこの時期極端に国内でのテレビ露出は少ない。



75年3月1日、12枚目のシングル「白い部屋」が発売。

英詞のまま出した「愛の逃亡者」を「実験的・変則リリース」と捉えたとすれば、74年7月の「追憶」以来久々の日本語シングル、当然セールに力を入れるべき作品になるハズではないだろうか?

ところが調べてみると意外な結果が・・・


●75年2月16日(日)
TBS「ロッテ歌のアルバム」

●75年2月28日(金)
フジ「ゴールデン歌謡速報」

●75年3月3日(月)
フジ「夜のヒットスタジオ」

●75年3月19日(水)
NET「ベスト30歌謡曲」

●75年4月1日(火)
NHK「歌のゴールデンステージ」




「白い部屋」テレビ初披露は特定出来ないが、発売時期&ラジオでのオンエアから考えると早くて2月16日放送のTBS「ロッテ歌のアルバム」、2月28日放送フジ「ゴールデン歌謡速報」では歌われていたのが残された資料から確認出来る。
発売1ヶ月間でたったのこれだけ、当時のジュリーとしては極端に露出が少ないという印象は拭えない。


驚くことに4月以降もテレビ露出は少なく、5月21日には次の13枚目のシングル「巴里にひとり」が出るワケだが、結局2月28日放送のフジ「ゴールデン歌謡速報」~5月いっぱいまで確認されたテレビ出演番組はわずかに12番組。

5月後半の番組では「巴里にひとり」に変わり、「白い部屋」の披露はもうなかったかもしれない。
そう考えて、さらに抜けてる番組を含めたとしても「白い部屋」を歌う姿をテレビで見れたのは、多く見積もっても10回あるかないか程度だろう。

露出が少ない理由として考えられるのは・・・

・単に特別売れ行きがこの時期のジュリーにしては良くなかった(最高位8位・21.8万枚)
・初舞台「唐版・滝の白糸」が3月にあった
・海外へプロモーションのため行き来してた時期だから
・当時の週刊誌広告から結婚が本決まりになってく段階だったのもわかる、4月5日はザ・ピーナッツの最終公演
・連続ドラマ「悪魔のようなあいつ」も動き出していた


全盛期のジュリーのシングル曲としてはなんとも淋しい露出量、10回程度となるとずっと後年の「ポラロイド・ガール」や「muda」辺りと同レベル。
それとも単に当時のジュリーはシングル発売時、毎回過剰なテレビ露出量が付き物というこちらの勝手な思い込みが強すぎるのだろうか?、「ウインクでさよなら」辺りもかなり少ないような気はする。

この中で局マスターが現存してる物となると数は絞られ、製品化されてる「夜ヒット」75年5月5日放送の回、あとはTBS「歌のグランプリ」が可能性が高い。
「ベスト30歌謡曲」はパラパラ残してる程度でこの曲を残してるかは微妙、元々が少ないだけにナツメロ番組などで流れるワケがない、残された「白い部屋」映像はどれも貴重。

反面、海外でのセールは絶好調、ジュリー自身の結婚も秒読み段階、作者の加瀬さんまで機上での出会いからわずか1週間(!)、8歳年下の美女とスピード婚というジュリーに先立つどんでん返しの早業を決めて見せた(挙式は4月3日)。



さて「白い部屋」とはどういった位置の曲だったのだろうか?

 

本格的セールから元よりやや脱力モード、会社との年間発売契約上出さなきゃならないルーティンワーク・消化試合的な1枚だったのではないだろうか?

或いは「追憶」が自身の歴代セールベスト5に入る大ヒットだった分、海外に力を向けたり英詞曲を出すなど、流せる「余裕」という物があったのかもしれない。

逆に同年の「時の過ぎゆくままに」などは「レコード大賞を狙う」とハッキリ書いてあったというジュリーの証言の通り、当然セールに対する強弱の程度は毎曲あったのだろう。

多忙を極め私生活・海外進出の充実期と重なり影に埋もれ、麻丘めぐみの同タイトルとかぶりジュリー自身にも若干嫌がられ、後に歌われる機会も少ない不遇の1曲それが「白い部屋」・・・

この曲のレコーディング日は75年1月18日、ヨーロッパ出発の日の午前中にギリギリに歌入れという、レコーディング・セッションもクソもない、ある意味やっつけ仕事だったという事実を裏付け資料として追加しておこう。

国内より世界進出へ向かうその直前の収録、ドタバタのスケジュール、半ば気持ちはうわの空、それより向こうの曲の発音に頭をかかえる沢田研二26歳。

この時代のジュリーには多忙につきそういう作品もあったのも事実、「思いきり気障な」~「今度は華麗な」~「愛とは不幸を」の3枚のアルバムのリリース間隔も、今の視点から見ると相当ムリを感じる。

ただし、良き時代に作られた作品はある程度のメンツさえ揃えれば、それなりの名演・名曲と語られる作品も出来上がってしまう事が洋邦共多々あるワケで、「白い部屋」も水準は軽くクリアしてる楽曲ではあるのは確かだ。



な~んて、最近「1989の○○」とかいう本が話題に上がり、読みもしないクセ当時子供の年齢の作者に対し、「あの頃の何がわかるよ!」とついつい思ってしまった通り、やっぱりリアルタイムで見てないと立体感が浮かばない、若造にはホントのとこわからないなぁ残念(笑)

 

 

 「白い部屋」で75年4月21日出演時の貴重な「夜ヒット」
髪の長さに注目

 

 75年3月3日放送回に比べ短い

 

 

 

 

次回これ又意外な真実、「巴里にひとり」編に続くかも?