人文科学と妄想とは、よく似ている。
その生産物は暇つぶしには面白いが、実利には欠ける代物。
さらにどちらも反証のしようがなく、反証したら最後、不毛な論争合戦が待っているだけ。
これをうちの母方の祖母は、馬鹿に触るな、野糞に触るなと、幼い母に聞かせたらしい。
何のメタファーかは、わかる人にはわかるであろう。
さて、芸術と幻覚とは、よく似ている。
どちらもお客さんが見たことも聞いたこともないことを見聞きし、それを現実に表現するからだ。
わからないのは作為体験である。
これはきっと、本人か身近な人でオカルトにこった人でもいるのかしら?
はたまた、単なる偶然の連続を意味があるものと思いたい人がいたのかもしれない。
オカルト思想に毒されると、自分は何者かに憑依されて生きているとか、自分が無限大に膨張するんだなどと、そんな珍妙なことを主張する人がいてもおかしくない。
私は思う。
異常体験とは、不随意な変性意識体験ではないかと。
それならば、自分の意識の許可なしに、ある主題を考え始めるのが、思考にはまった状態。
自分の意識の許可なしに、夢を見るのが幻に振り回されている状態。
そんな体験をしてしまうと、自分は何者かに支配されているとか、自分が何者かを支配しているだなんてことを言い出してもおかしくない。
宗教の修行とは、随意的に変性意識に入る作業である。
よく、何らかの宗教団体に入っておかしくなったという話を聞くが、修行幹部を大量に短期生産するやり方では、野狐禅に入った未熟な新入信者を救うこともできないだろう。
故にそんな悲劇はばんばん増える訳である。
そんなわけである。