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書写山圓教寺 散策記 on 2023-1-18 その12 姫路城主・松平直基の墓所

2023年03月19日 05時05分45秒 | 姫路市
本日は書写山圓教寺 散策記シリーズの第12回として「姫路城主・松平直基の墓所」
というテーマで書いていきます。

書寫山圓教寺への過去の訪問は下記の3回です。
 1)2009年6月28日 (日)
 2)2016年1月18日(月)
 3)2023年1月18日 (水)

書写山圓教寺 散策記シリーズ過去の記事

第1回 書写山圓教寺での修正会 鬼追い会式 on 2023-1-18 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

第2回 書写山圓教寺 散策記 on 2023-1-18 その2 書写山の名前の由来 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

第3回 書写山圓教寺 散策記 on 2023-1-18 その3 伝和泉式部歌塚塔と圓教寺 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)


第4回 書写山圓教寺 散策記 on 2023-1-18他 その4 椎名鱗三文学碑 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)


第5回 書写山圓教寺 散策記 on 2023-1-18 その5 境内諸堂(1)奥の院 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)


第6回 書写山圓教寺 散策記 on 2023-1-18他 その6 境内諸堂(2)大講堂、常行堂、食堂 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)






これから使用する写真はすべて2023年1月18日に撮影したものです。



上の2枚の写真は姫路城主・松平直基(なおもと)の墓所の近遠景


上の写真は現地説明板

そのままTEXTにしておきます。
  ●姫路城主・松平直基(なおもと)の墓所●
松平直基は、徳川家康の孫にあたります(家康二男、秀康の第五子)もと出羽国の
山形城にいましたが、1648(慶安1)年西国探第職として播磨国の姫路城主を命じ
られました。しかし、山形から姫路へ移封の途中、江戸で発病し姫路城に入らず
亡くなり、遺骨は相模国(神奈川県)の最乗寺に葬られました。
のちになって、直基の子・松平直矩が姫路城主となってから1670(寛文10)年に
分骨し、ここ書写山に墓所をつくりました。

松平直基(1604~1648)の戒名は仏性院殿鉄関了無大居士 
養祖父・結城晴朝に養育される。
慶長12年(1607)に結城家の家督を相続した。
慶長19年(1614)に結城晴朝が死去したため、その隠居料である5千石を相続する。
寛永3年(1626)からは松平姓を称したが、これは親藩・譜代としての扱い
(結城氏の場合は外様扱いとなる)を受けるべくの対応で、名字こそ松平になったものの、
家紋は結城家の結城巴、太閤桐から変えず、結城家の祭祀を継承した。
生涯、引っ越し続きで4回の引っ越しを経験(下記)しています。
寛永元年 (1624年)越前勝山藩3万石
寛永十二年(1635年)越前大野藩5万石
正保元年 (1635年)山形藩15万石
慶安元年 (1648年)姫路藩15万石

松平直基の子供の松平直矩(1642~1695)は直基の急死で6歳で姫路城主を継ぎますが
幼少で姫路の西国監視の役は困難と、越後村上に移されました。成長後、姫路に
戻されましたが越後騒動の処分で九州へ転封されます。その後、1692年に結城氏ゆかりの
白河に移されました。
松平直矩は幕府によって生涯7度もの国替え(引っ越し)を余儀なくされた。
松平直矩をモデルにした映画「引っ越し大名!」が2019年の8月に公開されています。
主な出演者は星野源、高橋一生、高畑充希らの豪華メンバーです。


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