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【動画あり】首里城下の旧日本軍壕爆破された最深部の映像第32軍壕、11年ぶり撮影

2020年08月04日 04時09分47秒 | Gooニュース

まず、Gooニュース(沖縄タイムス)の記事を紹介します。

撮影は2020年6月30日。
gooニュース
https://news.goo.ne.jp/article/okinawa/region/okinawa-20200802170000

 

次に、沖縄新報が作成したYoutube動画を共有

11年ぶりに第32軍司令部壕公開 首里城地下

 

NHKが代表撮影し、産経新聞社がYoutube動画でまとめた映像を共有

第32軍司令部壕の映像公開 沖縄戦の拠点 当時の様子生々しく

以下はサンケイニュースからの引用です。

第32軍司令部壕は先の大戦末期、首里城(那覇市)の地下約30mに構築された。

総延長は1千数百m。5つの坑道で結ばれ、参謀室、電信室、救助室などがあったと

されるが、大半は土砂に埋まっており、詳細は明らかでない。  

公開された映像は、第5坑道の入り口から約150m奥に進んだ部分まで

 

さらに首里城地下に眠る第32軍司令部壕を1997年に調査した牛島満総司令官の孫、

牛島貞満さんが「貴重な映像を資料として使ってほしい」と当時の映像を今年、

7月10日に公開されたYoutube動画を共有させていただきました。

首里城地下に眠る第32軍司令部壕【1997年調査】

 

1944年、首里当蔵町の沖縄師範学校(現県立芸大金城キャンパス)は第10方面軍第32軍

傘下の第9師団(武部隊)司令部として接収された。

武部隊が台湾移動後、1945年1月旧真和志村松川の国立蚕糸試験場(現松川団地)に

駐屯していた第32軍司令部が移ってきた。1944年12月から野戦築城隊が首里城下西側

部分を戦闘司令所壕として掘削開始し、1945年3月末の米軍の沖縄進撃(兵54万人)

から1945年5月末まで沖縄現地軍(兵10万人)の中枢陣地として機能した。

1945年5月末、第32軍司令部は急遽、本島南部への撤退を決定、司令部壕を爆破した。

8月2日のNHK総合 21:00から放送のNHKスペシャル「沖縄 “出口なき”戦場

~最後の1か月で何が~」上述の5月末から約1か月、民間人も巻き込んだ洞窟(ガマ)

でのゲリラ戦という悲惨な事実についての報道があった。

この中から若干の写真を紹介します。

軍事行動は牛島満司令官らが自決した6月23日で終了

上の写真は第32軍の幹部の集合写真。

第32軍司令部の幹部らは首里城下の壕に約1,000人が駐留した。

 

上の写真は第32軍司令部の幹部

真ん中が 牛島満中将 (1945年6月23日自決)

右は   長勇少将  (1945年6月23日自決)

左は   八原博通大佐(昭和56年(1981)5月7日まで生存)

      南下作戦を上申した本人、戦後に証言

 

参謀の任にあった長勇少将と八原博通大佐は戦時国際法(非戦闘員の保護)を軽視

する人物で本土決戦まで日にちを稼ぐ目的で民間人を巻き込んだ南下作戦を上申

決定された。

 

沖縄戦関連で過去に書いたブログへのリンク

 最後の官選沖縄県知事「島田叡」の功績を讃える

 

 沖縄の島守「島田 叡」を描いたTBS系TVドラマ「生きろ」を視聴して

 


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