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北風家当主第66代当主 北風荘右衛門正造貞忠の功績と事蹟

2017年09月01日 03時45分41秒 | 神戸情報
神戸市兵庫区にある能福寺の境内に北風正造の顕彰碑があります。
明治29年(1896)兵庫県知事周布公平により建立された。書は初代の兵庫県知事
伊藤博文によるものである。
北風正造(1834-1895)は「北風の兵庫か 兵庫の北風か」と呼ばれた兵庫の豪商北風家の
第66代当主で、天保5年(1834)3月20日山城国紀伊村竹田村(京都市伏見区)で
長谷川織部景則と母・三宅登士子の次男として生まれた。
嘉永5年(1852)19歳のときに兵庫の大豪商北風家の養子となった。
家長となったのは安政2年(1855)21歳の時であった。
商売の方は優秀な番頭たちに任せ、自身は表向き幕府の御用達を勤めながら、勤王の志士に
資金面で援助した勤王の士でもあった。
(代々の主人が個人の剰余金を居間と土蔵の2つの地下秘密蔵に貯め、60万両以上あったという)
明治に入っては、初代兵庫県知事伊藤博文のもと、私財を投じ、国事・県政に尽力貢献した。


本稿では北風正造の功績及び事蹟を纏めるとともに文献資料も列記した。


上の写真は北風正造の肖像




上の2枚の7写真は北風家の系図
  出典:安田荘右衛門、喜多善平著「北風遺事・残燈照古抄」昭和37年

「どりゃ、北風はんで振舞われよか」これが兵庫津の船着き場で一日の仕事を終えた
 沖仲仕たちの合言葉だった。兵庫津鍛治屋町の北風荘右衛門家は代々「荷主船頭の
 気っぷを大切に」という家訓に従って北国、北海道から荷を運んできた船乗り達の
 宿料は一切無料で大広間には少ない時でも100人を超える船乗り達が提供される
 一汁三菜と酒で夜更けまで楽しんだ。
 店頭には運ばれてきた北国米やニシンに仲買人たちが群がった

  出典:夜明けの人々 Page 60-62

 九州に逃げた尊氏の追討将軍である新田義貞から軍忠状とその佩刀を賜り、喜多風
(後に北風に改める)の姓、名前の「貞」の字を賜り、喜多風貞村(第44代) となり、
 左衛門佐(従五位上相当)に任官。左記より北風家の人名には「貞」のつくものが多い。
 しかし、九州から反撃してきた尊氏軍によって、湊川の戦いで楠木正成は戦死、
 新田義貞と共に喜多風家一門は敗走。貞村は、猪名川上流の地に隠遁、度々兵庫に
 潜入して再起を期すも病死する。遺児は父の意志を継いで尊氏を付け狙うが、
 貞村の妻(藤の尼:本名不明)は一門を一時出家させる等、尊氏に認められた新領主
 赤松氏との仲裁に奔走。喜多風家の命脈を繋いだ。
 藤の尼が一門を諭した文書が尼ぜ文書であり、滅亡するはずだった喜多風家の面々は
 私心を排除して公に奉仕すべしとの家訓を残した。
 これより公に奉仕する伝統が北風家に伝わる

  47代良村の後、本家は2家に分かれ、宗家は六右衛門(48代行村から)、嫡家は
  荘右衛門(48代惟春から)を代々名乗った。宗家は酢の販売、嫡家は海運業を主に
  取扱い、張り合いながら繁栄した。


  以上 Wikipedia 北風家より


1.箱館産物会所兵庫出張所の用達兼仲買生産捌方取締
 安政4年(1854)幕府は大坂に箱館産物会所を創立、翌年、箱館産物会所兵庫出張所が
 兵庫北浜川崎町に設置。北風正造は御用達兼仲買となった。会所は北風家の家を提供。
 願い出により費用100両を幕府より下附。問屋、仲買の口銭取り決め
  出典:再版神戸市史 別録1  近世の兵庫及び付近の沿革 Page78-79
     再版神戸市史 別録1 近世人物列伝 Page55-58

 文久3年(1863)11月徳川慶喜が順動丸に乗って兵庫を訪問した時、北風正造を招き
 幕府北海産物御用達での北風正造の働きを讃えて当時では珍しい竜頭金側時計を贈呈。
 北風正造は大変喜び家人はもとより兵庫津の人々にも祝儀が配られた。
   出典:夜明けの人々

2.兵庫津の名主役
 万延元年(1860)北風正造27歳の時、兵庫津の名主となった。
 この時代には窮民を救済するために海面埋立の作業員や役夫として雇用し返礼として
 粥をふるまったり金銭を融通したりした。
 役夫が開発した新田に粥腹新田の名前がつけられた。
 また、湊川の堤防を修築し、毎年歳末には貧民に施しをしています。
   出典:再版神戸市史 別録1 近世人物列伝 Page55-58

3.七卿落ちの手配
  文久3年(1863.)8月18日の政変で失脚した尊王攘夷派の7人の公家は京都を
  追放され、長州藩へと落ち延びた。(公武合体派の薩摩藩と会津藩が尊王攘夷派を排除)
  長州藩兵に付き添われて洛東にある妙法院に集結した後、兵庫津を経て、海路で長州藩の
  三田尻港(現・山口県防府市)を目指した。途上悪天候のため、3隻のうち2隻が
  徳山藩の徳山港(現・山口県周南市)に上陸し、ここから陸路、三田尻に向かった。
  この時、神戸で手伝ったのが専崎弥五平。兵庫では北風正造が密かに協力した。 
 七卿たちに船を提供した二ツ茶屋村の「鐡屋」弥五郎は、幕末長州藩が摂海防備に
 当った時の御用達商人で、元治元年の長州藩兵上洛の際、自宅を宿舎に提供し、
 負傷者の看護に当ったため、兵庫の大坂町奉行兵庫勤番所の幕吏の追及を受け、
 投獄された。維新後、神戸で旅館、廻漕業を営み、陸海軍の用達を勤めた。
 明治には、専崎弥五平(1831-1901)と名のり、晩年は明治天皇御用邸番であった。


4.商社肝煎に任命
 慶応3年(1867)2月北風正造他兵庫津の商人への用役が多いと幕府に訴え、諸荷物
 江戸積仲間株を出願し許可を得る。同時に北風正造は商社肝煎に任命される。

   出典:再版神戸市史 別録1 近世人物列伝 Page55-58


5.鳥羽伏見の戦いの戦費援助
 明治元年/慶応4年1月3日 - 6日(1868年1月27日 - 30日)の鳥羽伏見の戦いにおいて
 東征大総督有栖川熾仁親王に駿馬(「トコトンヤレ節」で歌われる宮さんが乗っている
 馬は正造の愛馬と言われる。)と3000両を寄付  出典:Wikipedia

  トコトンヤレ節は作詞は品川弥二郎、作曲は大村益次郎とされているが確証はない。
  事実上、日本初の軍歌と言える。歌詞は下に添付。
  「宮さん宮さんお前の前に、ちらちらするのはソラ何や、あれは朝敵征伐せいとの
   錦(にしき)の御旗(みはた)を知らないか、とことんやれ」


 
上の写真は北風正造の愛馬に乗って行進する東征大総督有栖川熾仁親王
  出典:EOひかりのサイト「歴史ロマン紀行」:http://eonet.jp/eohikari-ch/rekishi/#list-container

 鳥羽伏見の戦いに勝ち、兵庫に進駐してきた「井戸小太郎」が率いる長州藩兵は
 「兵庫の商人の中に幕府の軍艦に石炭を売り込んだ者がある」との噂を耳にすると
 「幕府北海産物御用達の北風正造の仕業」と思い込み探索方の福井豊三郎に命じて
 北風家を襲わせ金銀を押収した。
 北風正造が西郷隆盛や伊藤俊輔と通じた勤王の志士であることは北風家の奉公人にも
 新政府軍の大部分の人達に秘密にされてきた。
 この頃北風正造は一人密かに京都の有栖川邸に身を寄せていて「どうせ勤皇の軍資金」
 と苦笑いのうちにこの知らせを聞いた。


上の写真は長州藩兵が北風家に押し入った時の様子(出典:EOひかりのHP 歴史ロマン紀行)

6.官軍の姫路藩への攻撃から赦免
  官軍が姫路藩を攻めようとしたとき有栖川宮に陳情仲裁に入り、十五万両を
  軍資金として官軍に寄付することで姫路を救ったという
  (姫路藩では高須隼人が北風正造に仲裁を依頼した)

7.運上所用達を命じられる
  明治元年(1868)1月兵庫鎮台に東久世通禧が任ぜられ、寺島宗則、伊藤俊輔が外務事務掛
  秦艦一郎が民政御用掛が任につき北風正造は運上所用達を命じられる

   出典:再版神戸市史 本編 総説 Page82


上の写真は東久世通禧の肖像(出典:EOひかりのHP 歴史ロマン紀行)

8.兵庫市兵隊司令となる
  明治元年(1868)3月北風正造は南條新九郎、北風才助とともに市兵隊を編成し
  海岸の防御と市内の保安の任にあたる。150名規模だったらしい。
  明治2年(1869)4月の全国兵制改正まで続く

   出典:再版神戸市史 本編 総説 Page114

9.明親小学校の創設

江戸時代末期に藩校明親館が柳原天神社付近を中心に発祥し神戸最古の小学校である
明親小学校につなっがていきます。

明親小学校は慶応3年(1867)6月13日に開校の兵庫学校*1が前身でのちに
明親館と伊藤博文により命名。明治5年(1872)の学制発布で、兵庫第6小学校
として明治5年10月13日にスタートを切りましたその後、明治6年(1873)8月
明親小学校と改称されました。
 注)*1 慶応3年(1867)6月13日、切戸町の函館物産会所の建物を校舎として、
    「兵庫学校」と言う名前で開校。明治6年(1873)には経営不振、
    新学制公布(1872年)があったことなどにより閉校。

明親小学校の設立に尽力した人物として神田兵右衛門と北風正造らがいる

10.北風家用場を銭札引き換え場所とする
  明治元年(1868)12月兵庫県内通用の銭札4種を発行して金券と引き換えと
  公示して、翌年(1869)正月に引き換え場所を兵庫では北風荘右衛門用場、
  神戸では畠山助右衛門用場を設けた。

11.湊川神社の造営
  北風正造等は楠社造営御用掛に任じられ奔走する。明治4年(1871)5月1日には
  楠社を湊川と宇治川間の全町村の産土神と定められ明治5年(1872)正月より
  着工、同年5月25日の祭典の祭典までに落成させようとしたが延期となり
  上棟式のみ行われた。北風荘右衛門は100両を寄付

12.官職の辞職
  明治6年(1873)、藩閥政治に反発、伊藤博文の忠告を聞かず、官職を辞任
  官職としては兵庫県会計官、商法司判事、通商司、為替会社社長、兵庫県権大属
   などを歴任

13.兵庫新川運河の建設

  通常、船が兵庫の港に入るためには和田岬をまわらなければならなかった。
  兵庫の和田岬付近では高い波が発生し、強い南風が吹く為、海難事故が多かった。
 東西に大きな運河を掘れば、和田岬を回ることなく安全に兵庫津に入港することができる。
 この運河計画は明治7年-8年の兵庫新川運河(出在家町から島上町の半円形の運河)建設
 の時からあったが、実行できなかった。
 新川運河の建設に功があったのが神田兵右衛門と島田重五郎である。
 北風正造は資金面で協力した。

 上記の構想を実現させたのが魚問屋や内国貿易で成功した八尾善四郎である。
 東尻池町から岬町を経て兵庫新川までを結ぶ大運河が完工したのが
 明治31年(1898)4月のことである。

14.兵庫新川 米商会所の設立
  兵庫米商会所は明治10年(1877)に兵庫津の北風正造(北風荘右衛門貞忠)
  が元締めとなって設立されました。
   詳細は下記ブログに記載
    http://blog.goo.ne.jp/chiku39/e/82e1ea4e67207e46db73613d28b126b4


15.商法会議所の設立に尽力
 兵庫津は神戸港の発展に較べて商業不振となっており、この状況を挽回するため
 商法会議所を設立することが急務であった
北風正造は藤田積中とともに兵庫商法会議所の設立に尽力した。
 北風正造の本拠地である鍛治屋町の北浜総会所の会場で県の許可を得た(1878-10-14)
 明治11年(1878)10月14日神田兵右衛門38歳が 兵庫商法会議所会頭就任
 兵庫の問屋、仲買などの商業組織の矯正に取り組んだ
 明治12年(1879)の区制に伴い神戸区商法会議所と改称し明治13年(1880)には
 東川崎町移転し商況新誌も発行された。

  出典:再版神戸市史 本編 総説 Page155

16.第七十三国立銀行を設立
 明治5年(1872)の国立銀行条例制定、明治9年(1876)の同条例改正により
 全国各地に国立銀行が設置された。
 神戸においては北風正造、太田資政、神田兵右衛門、岩田正吉、長谷川保兵衛
 の5名で資本金5万円、後に8万円に増資で兵庫津の出在家町に設立を出願
 明治11年(1878)4月に第七十三国銀行として認可を得た。

  出典:再版神戸市史 本編 各説 Page31

17.神戸駅周辺の土地の提供
  明治7年(1874)の5月11日には 大阪駅 - 神戸駅間(20M27C56L≒32.74km)
  が旅客線として開業(三ノ宮駅 - 神戸駅間複線)。
    大阪駅・西ノ宮駅(現在の西宮駅)・三ノ宮駅・神戸駅が開業。
  北風正造は神戸駅周辺の土地24万平方メートルを無償で提供した。

18.湊川の付け替え

  明治17年(1884)9月に北風正造は神田兵右衛門、藤田積中、長谷川彦一、
  光村弥兵衛、小野正直、松原良太らと共に湊川付け替えの見積もり概算書を提出
  起工に向けて寄付などで支援した。

    出典:再版神戸市史 本編 総説 Page186

19神戸病院建設資金提供で銀杯
  明治元年(1868)神戸病院建設のため町衆より2,800両余の寄付があった。
  この功績により北風荘右衛門(正造)は神田兵右衛門、藍屋安兵衛、生島四郎、
  鳥居由兵衛らと共に銀杯が贈呈された。
  
   出典:再版神戸市史 本編各説 Page934

20.西南戦争で政府軍に武器供与で銀杯
  明治10年(1877)6月 西南戦争で軍用銃21丁、弾薬4,100余発を
  提供した北風荘右衛門(正造)に政府は銀杯を贈呈

   出典:再版神戸市史 本編 各説 Page935

21.破産
  大番頭の別家 喜多文七郎死後、使用人の不祥事、物品思惑購入の失敗が相次ぎ、
  明治26年(1893)、終に倒産
 
  出典:再版神戸市史 本編総説 Page166





北風正造年譜(Wikipedia)

天保5年(1834)2月11日 山城国紀伊郡竹田村(現在京都市伏見区竹田内畑町)の郷士、
      長谷川織部景則の次男として生まれる。景則は後に鳥羽天皇の山陵長となり、
      母・三宅登士子は有栖川宮家の老女・祐筆を勤めた。初名は尚之輔憲成。
      第64代北風荘右衛門貞常は大叔父。
1842年~1848年 関白九条尚忠・道隆(最後の藤氏長者)父子に近仕。
1849年 鳥取藩士・河田左久馬(景興)に武芸を習う。正造はこの頃から中谷謙助の偽名を用い
    勤皇の志士として活動する。
1850年 先に北風嫡家第65代当主荘右衛門貞和の養子に入っていた実兄・北風荘次郎貞寿が病没。
1851年 勤皇僧・月照から勤皇活動を資金面から支えて欲しいと勧められ、不本意ながら
    兄の後釜として婿養子となり、北風荘一郎貞知
    (後に第66代荘右衛門 正造 貞忠)と名乗る。
1859年 長谷川右門貞則(第64代荘右衛門貞常の嫡男北風荘三郎)の女・宇多との間に
     長男・彦一(後に貞雄)誕生。
1863年 兵庫来訪中の一橋慶喜から直々に鷲(竜?)頭巻金側時計を賜る(紀州藩の借金申出を
    「北風は、廻船業で、金貸屋ではない」と断った事で、正造をなだめに来た)。
1868年 東征大総督有栖川熾仁親王に駿馬(「トコトンヤレ節」で歌われる宮さんが乗っている
    馬らしい。正造の愛馬。)と3000両を寄付。一触即発状態の姫路藩と官軍との仲介
   (15万両と引換で姫路城を守る)。神戸事件。自衛・治安維持の必要から約150名から
    成る兵庫隊を結成、英国式操練を行う。湊川神社創立建議。学事振興の為、明親館を設立。
    商法司判事(兵庫在勤)、兵庫県会計官として出仕。
1869年 通商司、為替会社頭取に任命。10月、兵庫県権大属に任命。
1870年 廻漕会社頭取に任命。
1872年 兵庫米会社頭取に任命。
1873年 教部省検訓導に任命。藩閥政治に反発、伊藤博文の忠告を聞かず、官職を辞任。
1874年 兵庫新川開鑿事業担任に任命。
1877年 米商会所設立、元締就任。第73国立銀行創立、初代頭取就任。
1880年 交詢社発足時社員。
1882年 神戸船橋会社、輸出製茶改良会社設立。
1883年 維新の功により正七位(死後 従五位)に叙任。
1884年 脳症にて病臥。湊川付替(神戸港の良港化)建議。
1885年 東山避病院用地3畝歩を兵庫県に寄付。12月第一回目の倒産。
    伊藤博文、旧姫路藩主酒井家より援助、持直す。
1889年 日本汽船会社設立(3年後瓦解)。
1893年 12月北風商店 倒産。収拾不能に陥る。
1894年 神戸病院へ入院。入院中に家、倉庫、家財一切が債権者により差押えとなる。
1895年 12月5日東京にて客死(享年62)。兵庫 能福寺に葬られる。


北風正造についての文献資料

 上述した文献資料以外の文献を列記しておきます。

 1) 神戸史談 284号 1999.7 安田泰子(編) Page22-
     北風正造貞忠翁のこと-遺稿-(神戸開港百年を記念して)

 2) 神戸史談 214号(復興16号)1959.3 石坂幸二郎 Page17-23
     北風正造貞忠手簡断片

 3) 神戸史談 303号 2009.1 須田京介 Page5-11
     風果てぬ・北風正造外伝:出版記念八月特別講演会より(大意)

 4) 歴史と神戸 39号 1969.12 喜多善平 Page2-39
     兵庫の北風家(1):その嫡家の系統

 5) 歴史と神戸 45号 1970.12 喜多善平 Page3-39
     兵庫の北風家(2):その嫡家の系統

 6) 海鳴りやまず 神戸新聞社(編) 1977
      神戸近代史の主役たち

 7) 喜多文七郎日誌 喜多文七郎,石阪孝二郎(編) 1959
       兵庫津北風家惣支配役

おわりに

北風正造に関する概説まとめを試みたが上手く纏められませんでした。
今後、未読の上記文献他の資料を読み込み補正、内容充実を図りたいと思っています。

 
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