2023年10月4日(水)、城下町「丹波篠山」を散策してきました。
今回はその第4回で平尾竹霞 誕生之地碑をテーマに書いていきます。
丹波篠山へは2011年10月30日に「丹波の王墓、雲部車塚古墳の謎にせまる」という
シンポジウムがあり訪問しており、今回が2回目の訪問です。
城下町「丹波篠山」散策記のIndex
平尾竹霞(南画家) 誕生之地碑
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/38/1f/a82bbc1b01b03fb3a9a8d2f71e868f58.jpg)
上の写真は南画家 平尾竹霞の誕生之地碑です。
設置場所は多谷畳・敷物店(丹波篠山市河原町130)の隣地
現地説明板
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0c/7c/aae1ae87774f7fcd74ce051eb1ecf6b4.jpg)
説明版の要旨(一部加筆)を転記しておきます。
平尾竹霞(ひらおちくか)は安政3年(1856)3月28日、丹波篠山城下河原町の
王地山焼の陶画士平尾惣左衛門( そうざえもん)(画号竹郭)の長男として生まれ、
本名を織之助(おりのすけ)といい、竹霞はその雅号である。
幼少の頃から篠山藩学者渡辺弗措に漢書を学び、明治4年(1871)16歳で画家を志し
京都に出て日本画家(円山四条派)塩川文麟に、次いで南画家の田能村直入
(たのむらちょくにゅう)に師事し画業の研鑽に努めました。
次第に自らの画風を培い作品を発表 斯界に注目されるようになった
特に「嵐峡(らんきょう)12景」は皇室献納の栄誉に浴している
一方では、直入とともに京都府画学校(現京都市立芸術大学)開校
日本南画協会設立等に尽力、南画の新興と発展に寄与し京都画壇の重鎮と称せられたが
昭和14年(1939)7月27日 84歳を一期に京都で病没した。
今年 生誕150年に当たり顕彰のため ここ生家跡に記念碑を建立する
平成18年(2006)3月26日
平尾竹霞顕彰会
協賛 篠山文華学会
代表作「嵐峡十二景」について
保津峡の移りゆく風景を描いた作品です。
京都保津川の保津峡に3年間分け入り、四季に変わりゆく姿を画帳に収めた労作でした。
京都保津川の保津峡に3年間分け入り、四季に変わりゆく姿を画帳に収めた労作でした。
高風閣について
京都三条に高風閣(こうふうかく)という茶屋を建て、文人墨客と広く交わりました。
王地山焼について
王地山焼は、江戸時代中ごろの文化文政期(1804~1830)、当時の篠山藩主であった
青山忠裕(あおやまただやす)が王地山の地に築いた藩窯です。
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