今日は、長崎原爆の日。
小さい頃、私は、母に手を引かれて
毎年、平和祈念公園にお参りに行っていた。
蝉しぐれ。
麦わら帽子越しに見上げる灼熱の陽。
母は、長崎の家で爆風を受け、ガラスが身体に刺さった。
その後、原爆中心地に近い城山小学校で
軍事奉仕していた姉を探しに、
焼けの原を歩いた。
髪は抜け落ち、赤く焼けただれた人、
「水、水」とうめく人。
足に纏わり付く人。
怖くて、怖くて、たまらなかった。
「姉さん、姉さん」
母の声にかすかに反応した、
眼鏡をかけた真っ黒焦げの人。
後から思えば、あの人が、
姉さんだったかもしれない。
「せめて、水をあげればよかった。怖くて、近づけなかった」
と、ずっと自分を責め、悔やんでいた。
夏になると、母はあの惨劇の夢を見て、
夜中にうなされていた。
私もそれを見て、正直、怖かった。
小さい頃、私は、母に手を引かれて
毎年、平和祈念公園にお参りに行っていた。
蝉しぐれ。
麦わら帽子越しに見上げる灼熱の陽。
母は、長崎の家で爆風を受け、ガラスが身体に刺さった。
その後、原爆中心地に近い城山小学校で
軍事奉仕していた姉を探しに、
焼けの原を歩いた。
髪は抜け落ち、赤く焼けただれた人、
「水、水」とうめく人。
足に纏わり付く人。
怖くて、怖くて、たまらなかった。
「姉さん、姉さん」
母の声にかすかに反応した、
眼鏡をかけた真っ黒焦げの人。
後から思えば、あの人が、
姉さんだったかもしれない。
「せめて、水をあげればよかった。怖くて、近づけなかった」
と、ずっと自分を責め、悔やんでいた。
夏になると、母はあの惨劇の夢を見て、
夜中にうなされていた。
私もそれを見て、正直、怖かった。
「無関心無関係をやめて、知ることから始めよう」と~
石井竜也さんが平和を願って始められた
『GROUND ANGEL』公式サイトもご覧くださいませ
その瞬間、原爆がもの凄く近いものに感じました。
毎年やって来る、広島と長崎の“原爆の日”。
世界中が平和で幸せになる日が、早く訪れるように…と祈りながら、知らず知らず、遠い記憶の中に置き去りにしてしまってるような気がしました。
テレビで被爆者の方が、モロに爆撃を受けた、わずか15歳の友人が『僕は、なんもしとらん』と繰り返しながら死んで行ったと…。
私も辛くなりました。
夜うなされていた母。
被爆者は迫害も受けたし、
あの惨劇を思い出すのが辛い。
だから、人に話したくない。
それでも、時が経つに連れ、苦しみを乗り越え、
ようやく母も晩年70代になってから
NHKのインタビューに答え
被爆体験を話したり
60年前の目に焼き付いた惨劇の油絵を描いたりしました。
苦しみは、過去のものとしてしか伝わりませんが
現在進行形のまま
なくなることは
ありませんでした。