じいたんばあたん観察記

祖父母の介護を引き受けて気がつけば四年近くになる、30代女性の随筆。
「病も老いも介護も、幸福と両立する」

嵐の後に月を見る。

2005-09-11 18:54:36 | 友人
ばあたんが入院して、二人きりで過ごすことが多くなった、
ある日の夕方。

ベランダで、祖父と二人、月を見た。

「お前さん、ああいうのはな、
  研鎌(とがま)の月というんだよ」

なるほど、確かに、
研ぎ澄まされた鎌のように

鋭く美しい。


でも、この日は、その少し上に、
あかるいあかるい星がひとつ、光っていた。

寄り添う星の姿を祖父と二人、喜んだ。

あれは宵の明星かしら、
それとも
人が造った星かしら。


********************

祖父母宅を辞去した後、
ネットの上で、友人たちにこの話をした。


そしたら、

 こんなひとときのことを、心から喜んでくれたり、

 これは「金星」で間違いないよ、と教えてくれたり、

 三日月をつくる工場のお話を、読ませてくれたり、

 アストロアーツの情報を送ってくれたり、

 歌を、詠んでくれたり。


みんなの気持ちが嬉しくて、涙が出た。


お礼をこめて、歌を詠んでみた。
へたくそだけど、心だけはこめて、詠んでみた。


  月を見る 翁の傍に 猫一匹
     猫のこころに 住む友と共に

ゆるりと、復活できるか。

2005-09-11 18:14:06 | お知らせ
一週間ほど、ご無沙汰をしてしまいました。

ここのところ、諸事情により、コメント返信も含め、
ブログの記事を書くのを控えていました。

記事にしようにもいろんなことがありすぎて、
また、自分の体調が、思わしくなかったこともあり、

ちょっと、インターバルを取っていました。


(この「リセット期間」も、
 祖父と二人で過ごす夜は素晴らしく面白く、
 祖母を見舞ったときに彼女が見せた「顔」は
 メモするに値するものでした。)


それでも、やっと、ゆるりと復活、できそうです。

前へ漕ぎ出すこと、それだけが自分にできることだ
そういう風に、思えるようになりました。


心配してメールを下さった方々や、
コメントを残してくださった皆様に、
先にごあいさつをと思い、この記事を残します。

読者の皆様、いつもお付き合いくださいまして、本当にありがとうございます。

今から祖父のことをしようと思っていますので、
改めてまた、のちほどお目にかかりたいと思います。


取り急ぎ、ご心配をおかけしたお詫びと、
ごあいさつまで。



追伸:
色々なことを書き始める前に、
次の記事で、先に
祖父と過ごした素敵な「こころの休憩時間」を
書き残すことをお許しください。

父と交わした約束。

2005-09-06 02:29:40 | あの一言。
先ほどの記事を書いていて、思い出したことがある。
そう、先ほどまですっかり忘れていたけれど、
とても大切な、約束を。

今このタイミングに、思い出せたから、記事として書き留めておく。
みなさんへ、ありがとう、思い出させてくれて。


*******************


核融合理論の研究者だった、私の父は、

32歳で脳腫瘍を発病し、
その後、七回の手術に耐え
家族たちの、裏切りとも見える所業に耐え

研究も続けながら、
11年間の闘病生活を、
一言の愚痴をこぼすこともなく、

嗅覚を奪われ、
家族を奪われ、
やりたい事を諦めざるを得ない状況に追い込まれてゆき、
ついには
美味しいものを食べる機会も
声も奪われながら、

彼の中の尊厳を崩すことなく

43歳になりたてで、この世を去った。


彼の人生は、果たして
つまらないものだったのだろうか?


わたしは、そうは思わない。


なぜなら、彼は、最後にまともな意識状態で私と会えた時、
私に向かって、心からの笑顔を投げかけてくれたからだ。
あの笑みの記憶が、
わたしに、そう、確信させるのだ。

死に近づいていった、ある日。

父の命の終わりを、肌で感じ取って
謝りながら泣き続けた私の頬を、
満面の笑みで、動かぬ腕で、
彼は何時までも撫で続けたのだ。


そして、死の当日。

医者にはもう、意識などないといわれていた状態。

わたしと二人きりの病室で父は
不意に目を開けた。

そして、傍にいるわたしを見つめ、
涙をひとすじ、流した。

そこには、
彼が精一杯、自分の生を生き抜いたからこその、
メッセージが溶け込んでいた。

「君よ、生き抜け」


あのとき約束したのだ。
何があっても私は生きるから、と。

どんな間違いを犯そうとも、
どんな生き恥をさらそうとも、
どんなに道に迷おうとも、
どれだけ泣き叫ぼうとも、

最後まで生き抜くから、と。

そうだった。
すっかり忘れていたけれど。


************************


父のいのちと引き換えの、約束を、思い出し、
濁流の中で
丸太につかまる力を
ふたたび取り戻す。


彼から渡された、見えないバトンを、
誰かに引き継ぐまで、

燃えろ、わたしのいのちよ。
いきろ、わたしのいのちよ。


誰かに、誰かに。
かけがえのない、存在に。

いとおしい、世界のいのちのみんなに、
バトンを捧げるために。

自分のために生きるということ。

2005-09-05 23:56:59 | 介護の土台
「介護に専従している」と人に話すとき、よく言われる言葉がある。


「あなた自身の人生はどうなるの」
「あなたの夢は?」
「まだ若いのに、先があるのに、どうして?」



心配してくれての言葉だということはわかっているから、
 (時には、まるで露骨に憐れむように、
   …という人も、ブログ以外の場所には多少、いる)

感謝の念をおぼえ、
素直にそれを、伝えることにしている。

そして時に、
ほんの少しだけ、さみしい気持ちになる。



わたしは、わたしのために充分、生きていると
自分では感じているのだけれど、
そんな風には、人の目には映らないのだろうか。

『こんな「30代の過ごし方」が出来るなんて、
  なんて贅沢なのだろう』
とさえ、自分では、思っているのに。

だって、わたしの命は、わたしだけのものではない。
たくさんのいのちの一部が、わたしなのだ。


*******************


もちろん、わたしにだって、
いくつかの、ごく個人的な「夢」は、ある。
そのうちの一つは、もう少し早く、叶うはずだった。


祖父母の介護の話が舞い込んできたとき、わたしは

学校になじめない子供たちのための家庭教師と、
知人から頼まれる、ごくささやかな「文章の書き直し」の仕事で
ぎりぎりの稼ぎをキープする生活の傍らで、

大学に再入学するための準備をしていた。


小学校の頃からおぼろげに、
そして高校に上がってからは具体的に、抱いてきた夢。

確実に死に向かうと決まっている人のための臨床医として
一生を捧げること。
それを、回り道の末、ようやく自力で実現しようとした矢先、


祖母の発病に気づいた。



それでも私は、はっきりと言い切る。

何の後悔も、ない。
祖父母をの介護を選んだことについて、
ひとかけらの後悔も。

むしろ、夢が叶うのが遅れたことを、幸いだったとさえ思っている。
だって、彼らを孤独なまま、置いておかずに済んだのだ。


それにもし、
わたしの個人的な「夢」が叶わなかったとしても、

世界の誰かがきっと、やってくれる。
引き継いでくれる。

私がやりたいことは、私ではなくても、

新しい命が、
あるいは今を共に生きる、見知らぬ誰かが。

わたしはわたしでありながら、
世界の一部だ。

そのことを、思うとき
わたしはとてもあたたかい気持ちになる。
妙な安心感を、覚える。

自然に、笑顔になる。



************************



そして、

…誤解を恐れず、敢えて書いてみるなら。


「自己実現」
「夢をかなえる」
「私が、私が」


現代においては、ごく当たり前ということになっている
一種の、呪縛のようなもの。

わたしはそこに、あまり意味を感じないのだ。

(具体的な夢に向け、頑張っている人たちを見るのは、
 むしろ大好きです。
 自分とは違う生き方だけれど、大好きだ。愛せる。)

ただ、ごく個人的には、ぴんとこないのだ。



なぜなら、歴史を振り返ってみるに、

古来から今に至るまで
たいていのひとはきっと、

「夢」やら「願望」を懐に抱いて
心を温めながらも、

現実には、「楽しいこと」や「夢」やら
そんなこととは縁遠い中で
ごくシンプルに自分の人生を受け入れ、
日々の生活の中にささやかな喜びを見出し、

生き抜いて、そして召されていったと思うのだ。


そのほうがむしろ、自然であるように、私には感じられる。
ごく、ごく個人的にだけれど。


自分のために生きるということ
その意味を
わたしなりには、今は、こんな風に理解している。


「生きるとは、苦しくても楽しい作業だ」ということを
感じながら生きるということ。

そして同時に、

「よりよく生き抜くということは、Dutyだ」ということを
忘れずに生きるということ。



追伸:

こんな生き方を選択し続けるわたしを、
歯がゆい思いで、心配しながら見守っていてくれる、

母を、妹を、近しい人たちを、

明日心臓が止まってもおかしくない状態の、
最愛の「母方の祖母」を、

愛すべき友人たちの存在を、

彼らのこころを、

必ず覚えておかなければと、強く思う。

個体としての生命の、攻防。

2005-09-03 03:23:42 | 介護の周辺
正直に告白する。

彼らの「いのちそのものの意思」に、
じかに触れる瞬間、

わたしは、時折、恐怖を感じることがある。

ときには、生物としての彼らの強さに圧倒され、
自分が、生物としての強さで劣っている錯覚に囚われる。


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ばあたんは、ぎゅうっと私の手を捕まえて
離さない状態になることがある。

そんなときに例えば、
もう片方の手でそれを解こうとすると
彼女は、一本の手で私の手首をがっちりと捕まえる。

こうなってしまうと、
どれだけ懇願しても、彼女が私の手首を
自分から離すことはない。

かさかさと、私のほかのところも捕まえようとする
もう一本の腕、手のひら。

まるで、虫のような、無心の生命力をそこに感じたとき、
わたしは
「ああ、負けるかもしれない」という
一種の恐怖を覚えることがある。


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じいたんは、最近特に、
私が帰ろうとすると、さりげなく引き止めることが多くなった。

私の体調不良を頭では理解していても
引き止めずにおれない、
じいたんの、切実な想いが、ダイレクトに私を襲う。


「お前さん、長生きするということは、辛いことだ。

 それでもおじいさんは、
 自分でいのちを断つなどということは
 考えられないんだよ。」

「お前さんに、最後まで、長生きさせて欲しいんだよ。

 おじいさんはもうすぐ、お陀仏になるはずなのに、
 まだまだ、あの世へは行けない身体である気もするんだ。

 だから、おばあさんのことも、どうか長生きさせてくれ。
 おじいさんとおばあさんは、一心同体なんだ

 …お前さん、頼む。」

わたしは、反射的に、うなずく。


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受け止めたいと思う。
精一杯、受け止めたいと。

それだって、私の本心だ。

そうでなければ、義務も何もないわたしが、
介護人を引き受けるはずもない。

けれど。
わたしよりもずっと、彼らの生命力の方が強い。
勝てない。
そう、直観して、
思わずひるむときがある。

そんな気持ちも抱えながら
介護人としてあり続けている。


どれだけ彼らを愛していても、
彼らとわたしは、生命としては別の個体であり、
生きるために時には、水面下で攻防を繰り広げざるを得ない
そんな部分があるのではないか、と
時々、思う。


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「たまさん、一個人として、伝えておくね。
 …下の世代は、上の世代を踏み越えて
 自分の人生を第一に選択しなければならないのよ。」

私たち三人の、面倒を見てくださっている、
かかりつけ医の先生に、こんな言葉を言われたことがある。

わたしは、彼女の瞳の中に、声音の中に、
まるで怒りのように、激しくも真摯な感情が宿っていた。

その時は、先生が言わんとしていたことが何なのか、
半分くらいしか理解できていなかっのだと思う。
ただ、先生が、本気でわたしのことを
心配してくださっているのが、まっすぐに伝わってきて、
感謝の念を禁じえなかったことを、覚えている。


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濁流の中で三人、溺れかかっているような状況で
捕まれば助かる丸太が、目の前に流れてきた。
そんなとき、
自分がその丸太を捕まえる自信が、
わたしには、ない。

譲るとか、そういうレベルの話ではなく、
彼らよりも「生命力」が劣っているような、そんな気が
最近、時々、するのだ。


自分の「いのちの力」について、見つめ直すべき時が
きているのかもしれない。

そんなことを、最近、考えている。

人生のテーマソング。

2005-09-02 01:47:02 | 音楽
最近、良く思うのだ。

人には、それぞれ、その人の人生を象徴するような
「テーマソング」があるのかもしれない、と。

本人は気づかないのだけど、周りの人が見ていて
「ああ、この人は、この歌にそっくりの人生を歩んでいる」
そう思うような、歌がひとつくらいは、ある。

その、良い例を。


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「Mr.サマータイム」という歌が昔、あった。


ある家の台所でよく、若い女がその歌を歌っていた。

無邪気に歌う姿とは裏腹に、歌詞は哀しみに満ちている。
歌う姿には陶酔が、そして歌詞には毒が。


わたしはまだ、ほんの子供だった。


彼女が、かげりのない手さばきで、料理を作りながら
その歌を歌うさまを眺めながら、
不思議に思ったものだった。

なぜこの女はかくも無邪気にこの歌を歌うのか。
人生をなめているんじゃないかしら、って。



そして、数年後。
その歌は
そのまま彼女の、

『人生を映す、テーマソング』になった。


今思えば、あの台所…
なかなかドラマチックな場面に立ち会っていた気がする。




最近は機会がないけれど、
大勢でカラオケに行ったりしたときには、
この歌を、披露することがある。
(私よりも年長のかたには結構受けるのだ)


こういう悔いを残すことがあるのも、また人間だよね。
そう、思いながら。

でもあたしはこういう悔いは残さないで生きたい。
そう、思いながら。


私自身のテーマソングは、何だろう。


追伸:
ばあたんのテーマソングは、タイトル不明なのです。
何度かコメント欄に書いてきた、
『こころの花の匂いは 咲ける花に勝れり』
というフレーズが入った歌が、彼女らしいと思うのだけど。

火曜の見舞い、そしてその後。

2005-09-01 16:07:14 | じいたんばあたん
じいたんと二人、昨夜は、ベランダで
夜空を行き交う飛行機を眺めて過ごした。

「ねえじいたん、一機に500人くらい乗っているとして、
 じいたんと私の上を
 何人くらいの人が毎日、通り過ぎてゆくんだろうね」

とか

「雲の下に飛行機が走っているよ、お前さん。
 秋が来て、空が高くなった証拠だ」

とか

「お前さん、老若男女が通り過ぎていくよ。
 この道路の光の渦のなかに、たくさんのひとがいるんだ」

二人で、そんなことを話しながら、長いことベランダで涼んだ。


***********************


火曜日、わたしたちは、ばあたんの見舞いに行った。

けれど、 あまりの、ばあたんの状態の悪さに
じいたんは一時間半かかる帰り道、終始無言だった。



昼食の介助をしたときも、
ばあたんがあまりに嫌がるので、
じいたんは、手を出せずにいた。普段ならやりたがるのに。

食事はとてもおいしそう(そしておいしい。味見をした)
なのだが、ばあたんは、食べようとしない。

食べやすく手を加えて介助する。

スプーンからでは食べてくれないのだが、
私の指をきれいに洗って、直接食べ物を指で運ぶと、
なんとか食べてくれる。
それでも、全体の3分の1程度でギブアップ。

仕方がないので、
持ってきたゼリーと果物、アイスクリームなどをようやく、食べてもらう。


認知の低下が進んでいるのがわかる。
食べ物の名前が通じない。
指から食べ物をあげると食べてくれるのは、
安心感があるからなのだろうという気がする。


頑張って食事を終えたばあたんは、ほとんど泣き顔。

「ほら、おばあさんの大好きな童謡だよ」
じいたんが、私を促し、CDを掛けさせる。

だけどばあたん、
「歌が思い出せないの」
と嘆く。すすり泣く。

前だったら「思い出せないわ」といいつつ
ほがらかに過ごしていたのに。


車椅子で屋上に連れて行くが、怯える。泣く。
じいたんが頑張っても頑張っても、空回りしてしまう。


病院は、簡単に

「いつでも見舞いに来ていただいてかまいません。
 帰られたあと動揺なさってもスタッフで何とかしますし、
 食欲がないので、是非はげましてあげてください」

と言った。


だが、うちは、じいたんとばあたん両方が、大事なのだ。
こんな状態なら、じいたんをつれてこなかったのに。
看護師長、無責任すぎ。

他にも、介助のしかたなどで気になったことがあったので、
じいたんに、ばあたんを頼んで、
ナースステーションにあれこれ注文をつけに行った。
主治医とも、治療方針について改めて話をし、


戻ってくると、

病室の手前で、二人の会話が耳に入ってきた。



「殺して…」とすすり泣く、ばあたん。

「何を言っているの、おばあさん。
 僕たちは、二人三脚でいままでやってきたじゃないか。」

と励ますじいたんに、

「"二人三脚"という言葉の意味が、わからないの。
 全部、わからないの。怖いのよ。」

「わたしが犠牲になれば、いいのね」

などと言葉をぶつける、ばあたん。


それでも懸命に慰めるじいたんの姿が痛々しくて、
わたしは、病室に入れず、回れ右して外へ出た。



喫煙所で、他の患者さんのご主人と話をした。
彼の妻は末期がんだが、時々まだ意識が戻るそうだ。

でも医師たちに、
「胃ろうを入れる処置も患者さんにとってはもう、酷なのでは」
と言われ、辛い決断に迫られているとのこと。

そんな話を黙って聞きながら、
深々と礼をして、病室に戻り、

おやつの時間をうまく利用して、ばあたんを
介護士の女性にお任せして
じいたんと二人、病院を後にした。


自宅に帰ってからも、無言でありながら、
時々ふと我に返って、私に言葉をかけてくれる祖父。

そんな気遣いを、させたくなくて、
火曜日は、早めに祖父母宅を辞去した。


*********************



昨夜は、ベランダから戻って、二人で葡萄と梨を食べた。

食べながら、新しい住まいについて、話をした。

「おばあさんが怖がらない、住まいを、用意したいんだよ。
 お前さん、調べてくれているんだろう?」

そういってじいたんは、あれほど嫌がっていた
介護つき有料老人ホームやら何やらについて、
積極的に話を聞こうとする。

心とは裏腹に、淡々と、じいたんの質問に答える。



帰る時間になって、

「今日は、うちに泊まっていくかい?」

じいたんは言った。
たぶん、さみしかったのだと思う。


でも、私の体調があまりにも悪い(病気じゃないんだけど)ので、
その旨を説明して辞去した。


これ以上、「元気のない誰かの姿」を
じいたんに、見せるよりはましだという気がして。


自転車を漕いで祖父母宅を見上げると、
じいたんの気配がした。