柳田邦男の本「犠牲―サクリファイス―」の中に、こんな描写がある。
自死を図り脳死に陥った次男が、
もう脳波もフラットになりつつある状態にある。
それでも、筆者と交代で傍に添い続ける長男がこんなことを言った。
「不思議だね、身体で話しかけてくるんだよ」
とても的確に表現されているなぁ、と思った。
////////////
わたしは、ばあたんと一緒にいるとき
視覚の情報だけで…つまり彼女の言葉や表情のみで
ばあたんを感じるのではない。
むしろ、皮膚感覚に近いのだ。
たとえ言葉での意思疎通がむつかしくても
じかに手で触れ合うと
あるいは触れ合わなくても、
同じ場所で並んで座って、呼吸を合わせる
ただそれだけで
彼女の気持ちが流れ込んでくる気がする。
緊張しているか、心を閉じているか、
あるいは、リラックスしてくれているか、喜んでくれているか。
ただじっとして座っているだけで…
というと分かりづらいかもしれないので
割と気持ちがピンと来るときの様子を
ためしに書いてみると、たとえば
隣にすわったときや背中をさすったときに感じる
筋肉の微妙な緊張であったり、
(これは落ち着こうとしているサイン)
頬をくっつけてじっとしている時に伝わってくる
皮膚のわずかな緩みであったり
(これは、ほっとしているサイン)
手をつなぐ時の、一瞬のためらいであったり
(こういうときは私が誰だか分かっていない)
一緒に歩くとき
靴音にちらりと隠れた、朗らかさであったりする。
(楽しい気分でいてくれているのだ)
それらはほんの一瞬、現れて
すぐにまた通り過ぎてしまうのだけれど。
丘の上で走る列車を眺めていたら
車窓に、旧い友人の横顔を一瞬、見かけた気がする
そんな感じで。
ばあたんは、どんなになってもわたしのばあたん。
病が深くなり、見た目にはどんどん様子が変わっていくけれど
ほんとうは、何も変わってなどいないのだ。
証明できないじゃないかと言われるけど、嘘じゃない。
接し方がわからないなんて心配しなくていい。
彼女は、未知のものになってしまったんじゃない。
確かに確かに、「ばあたん」なのだ。
もちろん、言葉の掛け方やスキンシップの取入れなど
そういうことは確かに幾らかの工夫がいる。
(たとえば失明した友人がいたとすれば、手を貸すでしょう。
たとえば聴力を失った友人がいたとすれば、筆談をするでしょう。
そういう場合と同じように。)
けれど
こころは
(ここが難しいのだけど「こころ」は。
誰かのふりをしつづけることもあるから)
昔と変わらず
「夫と妻」「母と娘」
「母と息子」「祖母と孫」
二人の関係性のままに、
愛していると伝えればそれで充分なのだと感じる。
そこに言葉がなくても、
ただ彼女のとなりに腰掛けていれば、
ただ心をこめて心をさすることができれば、それで。
自死を図り脳死に陥った次男が、
もう脳波もフラットになりつつある状態にある。
それでも、筆者と交代で傍に添い続ける長男がこんなことを言った。
「不思議だね、身体で話しかけてくるんだよ」
とても的確に表現されているなぁ、と思った。
////////////
わたしは、ばあたんと一緒にいるとき
視覚の情報だけで…つまり彼女の言葉や表情のみで
ばあたんを感じるのではない。
むしろ、皮膚感覚に近いのだ。
たとえ言葉での意思疎通がむつかしくても
じかに手で触れ合うと
あるいは触れ合わなくても、
同じ場所で並んで座って、呼吸を合わせる
ただそれだけで
彼女の気持ちが流れ込んでくる気がする。
緊張しているか、心を閉じているか、
あるいは、リラックスしてくれているか、喜んでくれているか。
ただじっとして座っているだけで…
というと分かりづらいかもしれないので
割と気持ちがピンと来るときの様子を
ためしに書いてみると、たとえば
隣にすわったときや背中をさすったときに感じる
筋肉の微妙な緊張であったり、
(これは落ち着こうとしているサイン)
頬をくっつけてじっとしている時に伝わってくる
皮膚のわずかな緩みであったり
(これは、ほっとしているサイン)
手をつなぐ時の、一瞬のためらいであったり
(こういうときは私が誰だか分かっていない)
一緒に歩くとき
靴音にちらりと隠れた、朗らかさであったりする。
(楽しい気分でいてくれているのだ)
それらはほんの一瞬、現れて
すぐにまた通り過ぎてしまうのだけれど。
丘の上で走る列車を眺めていたら
車窓に、旧い友人の横顔を一瞬、見かけた気がする
そんな感じで。
ばあたんは、どんなになってもわたしのばあたん。
病が深くなり、見た目にはどんどん様子が変わっていくけれど
ほんとうは、何も変わってなどいないのだ。
証明できないじゃないかと言われるけど、嘘じゃない。
接し方がわからないなんて心配しなくていい。
彼女は、未知のものになってしまったんじゃない。
確かに確かに、「ばあたん」なのだ。
もちろん、言葉の掛け方やスキンシップの取入れなど
そういうことは確かに幾らかの工夫がいる。
(たとえば失明した友人がいたとすれば、手を貸すでしょう。
たとえば聴力を失った友人がいたとすれば、筆談をするでしょう。
そういう場合と同じように。)
けれど
こころは
(ここが難しいのだけど「こころ」は。
誰かのふりをしつづけることもあるから)
昔と変わらず
「夫と妻」「母と娘」
「母と息子」「祖母と孫」
二人の関係性のままに、
愛していると伝えればそれで充分なのだと感じる。
そこに言葉がなくても、
ただ彼女のとなりに腰掛けていれば、
ただ心をこめて心をさすることができれば、それで。
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