じいたんばあたん観察記

祖父母の介護を引き受けて気がつけば四年近くになる、30代女性の随筆。
「病も老いも介護も、幸福と両立する」

月のひかりの、ゆりかごのなかで。

2006-02-13 02:19:13 | 介護の周辺
土曜、身内にちょっとした心配な出来事が起こった旨、報せが入った。
それで、この週末は、
あちこちに連絡や問い合わせをするなど、多少ばたばたしていた。

こういうときは、92歳の祖父の名代としても動くので
心身ともに引き締まる。

目上の親族と話をするときはもちろん、外と交渉するときも、
祖父の代わりとなると色々。
親の代理をする倍、細やかになる。
やはり祖父や他の家族に恥をかかせないようにと思うので…

でも、こういう機会をたくさん与えられて、
どんどん社交的なことで鍛えられていく
というのも、

今のポジション(祖父母の主たる介護者、あるいは代理人)をつとめる醍醐味。


仕事のなかで覚える、さまざまな対応のコツとは、ちょっと質が違うのだ。

貴重な経験をさせてもらっている、とありがたく思う。


***************


最初に書いたこととは別に、
昨夜から、ちょっとした面倒ごとがあった。

そんなわけで、あれやこれや…が一段落して、
ひとりぼっちになったら、
ふと、とてつもなく寂しくなった。

寒い部屋で、日曜の深夜に、ひとりきりで。


月一のお客さんでお腹は痛いし、

手足を暖めても暖めても、
冷え切ったまま全然温かくならなくて。
気がついたら冷蔵庫にも、からっぽに近いし。


この疲労感は、
他人様に振り回されすぎたせいもあるんだろう。
これはあかんわ、とおもったら、何があってもスルーが賢いのだ。
ばあたんが遠い昔、わたしに教えてくれた言葉を思う。


午前零時を過ぎたらお酒は飲まないと決めているのだけど、
軽く飲んで寝よう。今夜だけは。


****************


こんな、どこか情けなくて頼りない気分の夜には、
カカオ風味の温かいお酒がいい。
アイリッシュコーヒーとか、カルーアミルク風の飲み物とか。

何か、一杯作ろうと台所に立ったら、
あいにく、コーヒーやミルクまで切らしている。

それで、コートを引っ掛け、家のすぐ近くの自動販売機まで、
缶コーヒーを買いに飛び出した。


外へ出ると、それほど寒くはなくて、
天の高いところに、満月が燦然と輝いていた。

しばらく、見とれていた。




わたしの大切な人たちの上に、
この満月の光が、わけへだてなく降り注いでいる


そう思うと、じわりと、無条件のうれしさが
静かに、こみ上げてきた。


みんな、あたたかくして眠ってくれていたらいいな。
月のひかりの、ゆりかごの中で。


心がすうっと慰められた。
ちゃんと寝て、明日も元気なわたしでいないと。


ありがとう。ありがとう。

みんな、ありがとう。


ユーモアを思う。

2006-02-08 02:52:23 | ブラックたまの毒吐き
どんなにつらいことがあっても、
ばあたんの介護を続けることができたのは、

そこにユーモアがあったからだ。


どんなに深い病の淵にいても

わたしが笑えないときはばあたんが、
ばあたんが笑えないときはわたしが、

互いに、補い合ってふたり、笑顔を取り戻せていたからだ。


ばあたんが入院し、離れて暮らすようになってから、

わたしは、ひとりでは
ユーモアあふれた生活をつくれないほど
未熟なのだ、

とつくづく思い知らされる毎日を過ごしている。


人のまく噂話や、ゴシップや、
…わたしの神経にさわるような聞き苦しい話も、

彼女の手にかかれば、やさしいユーモアに変わっていたのだ。
そこには悪意や欲はなく、人への信頼と愛情があった。

まるで魔法をかけるように。



ばあたんに、会いたい。
ほんの少しの時間でいいから、
昔のように、
ふたりきりで、笑って過ごしたい。

斉藤茂太の本を読んでいて
ユーモアについて書かれている項目を目にして
ふと気づいた。

前の記事で書いたようなことでいらいらするのも、
ユーモアのこころが不足しているから、なのだろうと思う。



去年の今頃、

発熱してせん妄を起こし、徘徊を繰り返す彼女と
ふたりで過ごした真夜中のことを思い出す。
懐かしくて、涙が出る。

線引きしないと無理だよ。

2006-02-08 02:45:16 | ブラックたまの毒吐き
じいたんが さみしがりやなのを 私は 知っている。
彼は 私が部屋にいるだけで満足する ということも。


でも、どうしても じいたんのところへ行く気になれない
それで今日は 行かなかった。


  違う。正確には昨日も一昨日も行っていないんだ。
  自転車で10分足らずの距離なのに。

  最近ずっとこの調子。



猫のようにしよう、と、決めている。

―まごころで出来ないときは やらない―

それが私の最低限の「介護との線引き」だ。

でなきゃ、心のバランスが取れない。



まあ、こんなことを言っていられるのも

じいたんが今は 一応 自立出来ている状態だということ
(介護士さん&デイケア利用でも)
それから、マンションの囲碁大会で優勝したりして
精神的に元気がある

だからこそ、なんだけど。


そう、正直「今のうちだけ」。
いつでも待っている「どんでん返し」

祖父宅を訪ねないなら訪ねないで、
事務処理やら、ばあたんの施設さがしやらは
こなしているわけだし

いずれにせよ、じいたんが熱でも出したら、
こんな呑気なことは、いっていられなくなる。

だから、今の状況に感謝しなければ、とは思うのだけれども。



***************


 営業の仕事と塾のお仕事、オファーがあった。
  でも断った。残念だけど、微妙に「時期」が合わない。

 来年の受験さえ、ままならないかもしれない。
  年齢的なリミットを思うと、時々あせる気持ちにはなる。

―この程度のことなら
我慢もできるし、工夫もして何とか道をみつけられる。



けれど、じいたんの口から、事あるごとに聞かされる
「あること」だけは、
いまのわたしの神経には、ひどく、さわる。
気持ちがつい、昏いほうへと引きずり込まれるのだ。


 わたしは今、ばあたんの介護にかかる経費を
 なんとか削減して(今、入院しているところは高すぎるのだ)
 二人にとっていい老後になるように
 あちこち施設を調べたり、足を運んだりする毎日を送っている。


 けど、じいたんが、言う。たびたび言う。

 他の、めったにこちらには関わらない、親戚たちの話。
 それは自慢話であったり、わたしが聞くべきではない話であったりする。
 (たとえば、経費削減を真剣に考えている折に、
  そんな努力をするのがばかばかしくなってしまう、そんな類の)

 孫という立場にあって、ひとり介護と向き合っていて
 本来いっしょに頑張ってくれるべき(この考えがいけないのかもしれないが)
 そんな人たちについて、
 まるで、他人に自慢するように、わたしに話すじいたん。

 でも、わたしは、彼らについて
 (彼らを憎んでいるとか嫌いだということではないけれども)
 …結局は、じいたんが辛いときには、寄り添ってくれない人たち
 という気持ちになってしまうときも正直あるのだ。
 
 それでも
 その手の話を聴く時の、わたしの顔は、
 いつだって、笑っている、と思う。

 じいたんは、ただ、わたしに聞いて欲しいだけなのだ。
 「あの人」に、これだけのことを、してやれたんだよ、と。
 親の「情」として嬉しかったことを、報告したいだけなのだ。
 深い考えなどそこにはないし、もうそんなことを要求するのも酷だろう。

 だからわたしはいつでも

 「良かったね、じいたん。
  してあげられることがあるって、とてもいいことだよ。」
 
 と、本音の半分だけを、じいたんに返すのだ。
 残りの半分は、とりあえず飲み込んで。

 いままで、ずっと、そうしてきた。


 けれど、先日のその話のあと、
 自宅へ向かう道中で、突然、歩くのが嫌になった。

 コップに一滴ずつ垂れていた水が、
 満杯になって溢れ出してしまったかのように、

 当分、この道を歩くのは無理だ、と、思った。



こんなことで、
悶々とした気持ちを抱えてしまっているとき、

じいたんと顔を合わせることは、とてつもなくつらい。

つらいなら、ためらうなら、行かない。
会わないほうが、安全だもの。


これだけのキャパしかないんだ。という現状。

自分がきちんとこころの品位を保ってさえいれば
どうってことがないはずのことが、
少し、こころが弱っていると、
必要以上にいらいらしたものに感じられてしまう。

でも、湧いてくる昏い気持ちに振り回されてしまっては
まごころが、くもってしまう。腐ってしまう。

こういうときはたぶん
先に、溢れてしまったコップの中の水をどうにかしないと。



ああ、忘れるところだった。
明日は、ばあたんの見舞いの日だから・・・


(また、書き直すかもしれません。
 奥歯にモノが詰まったような書き方でどうにもすっきりしない)


じいたんばあたんにとって、いちばんいい老後を、と思う。
それだけを考えていられたらいいのに。


わたしは、すべきことを、自分に恥ずかしくないよう
やっていけばいいのだ。

人なんてどうでもいいじゃない。



未明の鎮魂歌。

2006-02-06 03:31:08 | 介護の周辺
 昼は比較的穏やかだった空が、日が沈むとともに雲と風を孕んだ。夜が更けていくにつれ、風は嵐へと姿を変えた。
 熱っぽい頬を、髪を打ちつけるその力に何故かあかるい開放感を感じて、わたしは、分子が集まり怒涛のように駆け抜けていく先を…夜空を見上げた。

 部屋に帰り着き、食事をとり、相方が寝息を立て始めてから、今日ブックオフで入手した柳田邦男の「犠牲―サクリファイス―わが息子・脳死の11日間」を開き、ルービンシュタインのショパンを聴きながらこの夜を過ごす。
 今夜、ぴったり17回忌を迎えた父とわたしのために。父は大の音楽好きだった。とりわけショパンをこよなく愛していた。

 心停止の直後、医師からオファーを受けた死後脳の提供。半狂乱の母を説得し、承諾書にサインをしたのはわたしだった。
 拒否もできたオファーを敢えて承諾したその「本音」を、わたしは誰にも話したことはない。けれど、ひとかけらの誤魔化しもなく憶えている。忘れられるはずもない。これは十字架だ。
 一生背負っていこうと決めたのだ。なにかひどく眩しい光がわたしを照らした、あの怖ろしい未明に。

 あれから16年が経ち、わたしは生きている。そのことに、ようやく、かすかな喜びを感じるようになった。あの凍えるような夜の嵐に打たれることさえ、幸福の証だと感じる自分を、見つけつつある。
 未明に漏らしてしまった嗚咽で、相方を起こしてしまった。
 でも、生きている。


 止まってたまるか。止まってたまるか。
 わたしは今、生きている。
 こころがそう、感じて震えている。
 わたしは、自由だ―

 17回忌を営めなかった父へ、手作りのmourning work.
 そして。

 夜が明けたら
 また、
 わたしは、
 前へと進みつづける。

17回目の。

2006-02-05 23:55:34 | じいたんばあたん
じいたんは、その日を、すっかり忘れていたようだった。

忘れているのなら、
そのままにしておいてやりたい、という気もした。
思い出させるのは酷かもしれない、とも。

だけど去年も同じようにしたから、今年もやっぱりしよう
それから、こうやって忘れず手を合わせ続ける姿を
じいたんに見てもらうことで

じいたんばあたんとお別れした後も、
こんな風にずっと、ずっと、大事に思っているからね
と、
言外に伝えておきたい
そう思って

ささやかながら、お花とお供えを提げて祖父宅を訪れた。


その日は、彼の次男―わたしの父―の命日だった。


じいたんは、花を見ても、
仏壇をあけても気がつかない様子だったので
その旨を伝えると

「お前さん、今日だったかね。
 おじいさんも、呑気になったものだねぇ」

と笑いながら、それでもうれしそうに
わたしが仏壇へ花を生ける様子を眺めていた。

そして、
その日たまたま来宅していた、従妹の、
お土産を

「ひよちゃん(父のあだ名)に先に食べさせてやってくれ」

と、そっと供えた。



夜には、わたしの相方=ばうが訪ねてきてくれた。
いつもは残業するのだが、切り上げて。

亡くなったのは夜だったので、その時間に
じいたんとわたしをふたりきりにしないように、と
配慮してくれたのだろうと思う。

三人で、ごく質素な夕食をとり、
その後はずっと「史記」の話で盛り上がった。
じいたんは、歴史が大好きで
もし物理学者にならなかったら、歴史をやりたかったのだそうだ。

16年前、あれだけ悲しかったこの時間を、
今は、こんな風に過ごせている、その不思議を感じながら
わたしはそこに座っていた。
父の命日だということが消えてしまいそうなくらい、
とても穏やかで、楽しくて、…三人きりでも暖かい時間。


だけど


ばうが、お手洗いに席を立った時
じいたんが、そっとわたしの手を取り、つぶやいた。

「お前さん、こんな穏やかにこの日を迎えるのは
 おじいさん、初めてだよ。
 すまなかったね、ありがとう」

少しだけ、目が赤かったような気がした。


「いやぁね、じいたん、当たり前でしょ。
 わたし一人じゃさみしかったもん。付き合ってくれてありがとうね」

じいたんの涙に気づかぬふりをしながら、

  このひとは、息子に先立たれて後、
   どれほど悲しい思いを胸に秘めたまま、
     ここまで長生きしてくれたんだろう。

そう思うと、のどがぎゅっと詰まった。



マンションからの帰り、外へ出ると冷たい嵐が吹き荒れていた。
空いっぱいの悲しみをかき消すように、激しく。

父が、前へ進め、と
背中を押してくれているような気がした。