じいたんばあたん観察記

祖父母の介護を引き受けて気がつけば四年近くになる、30代女性の随筆。
「病も老いも介護も、幸福と両立する」

個体としての生命の、攻防。

2005-09-03 03:23:42 | 介護の周辺
正直に告白する。

彼らの「いのちそのものの意思」に、
じかに触れる瞬間、

わたしは、時折、恐怖を感じることがある。

ときには、生物としての彼らの強さに圧倒され、
自分が、生物としての強さで劣っている錯覚に囚われる。


**************************


ばあたんは、ぎゅうっと私の手を捕まえて
離さない状態になることがある。

そんなときに例えば、
もう片方の手でそれを解こうとすると
彼女は、一本の手で私の手首をがっちりと捕まえる。

こうなってしまうと、
どれだけ懇願しても、彼女が私の手首を
自分から離すことはない。

かさかさと、私のほかのところも捕まえようとする
もう一本の腕、手のひら。

まるで、虫のような、無心の生命力をそこに感じたとき、
わたしは
「ああ、負けるかもしれない」という
一種の恐怖を覚えることがある。


******************************


じいたんは、最近特に、
私が帰ろうとすると、さりげなく引き止めることが多くなった。

私の体調不良を頭では理解していても
引き止めずにおれない、
じいたんの、切実な想いが、ダイレクトに私を襲う。


「お前さん、長生きするということは、辛いことだ。

 それでもおじいさんは、
 自分でいのちを断つなどということは
 考えられないんだよ。」

「お前さんに、最後まで、長生きさせて欲しいんだよ。

 おじいさんはもうすぐ、お陀仏になるはずなのに、
 まだまだ、あの世へは行けない身体である気もするんだ。

 だから、おばあさんのことも、どうか長生きさせてくれ。
 おじいさんとおばあさんは、一心同体なんだ

 …お前さん、頼む。」

わたしは、反射的に、うなずく。


************************


受け止めたいと思う。
精一杯、受け止めたいと。

それだって、私の本心だ。

そうでなければ、義務も何もないわたしが、
介護人を引き受けるはずもない。

けれど。
わたしよりもずっと、彼らの生命力の方が強い。
勝てない。
そう、直観して、
思わずひるむときがある。

そんな気持ちも抱えながら
介護人としてあり続けている。


どれだけ彼らを愛していても、
彼らとわたしは、生命としては別の個体であり、
生きるために時には、水面下で攻防を繰り広げざるを得ない
そんな部分があるのではないか、と
時々、思う。


*******************************


「たまさん、一個人として、伝えておくね。
 …下の世代は、上の世代を踏み越えて
 自分の人生を第一に選択しなければならないのよ。」

私たち三人の、面倒を見てくださっている、
かかりつけ医の先生に、こんな言葉を言われたことがある。

わたしは、彼女の瞳の中に、声音の中に、
まるで怒りのように、激しくも真摯な感情が宿っていた。

その時は、先生が言わんとしていたことが何なのか、
半分くらいしか理解できていなかっのだと思う。
ただ、先生が、本気でわたしのことを
心配してくださっているのが、まっすぐに伝わってきて、
感謝の念を禁じえなかったことを、覚えている。


*************************


濁流の中で三人、溺れかかっているような状況で
捕まれば助かる丸太が、目の前に流れてきた。
そんなとき、
自分がその丸太を捕まえる自信が、
わたしには、ない。

譲るとか、そういうレベルの話ではなく、
彼らよりも「生命力」が劣っているような、そんな気が
最近、時々、するのだ。


自分の「いのちの力」について、見つめ直すべき時が
きているのかもしれない。

そんなことを、最近、考えている。

最新の画像もっと見る

17 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
逆転する (The社会福祉マン!)
2005-09-03 06:54:16
今、下の世代と、上の世代が逆転してきています

長生きできるようになった変わりに

「生」へ当然のこととしてあった、価値というか考え方が変わっていっているように思います



それに苦しんでいます。人間の動物ということなのでしょう。種の起源というか、本能を揺さぶるような状態になってくると なんだか締め付けられるというか

そんな気がします



いのちの力 難しいです

返信する
命の力 (neko50)
2005-09-03 15:05:04
死なないのなら生きなければならない。その時の、老人の力はきっとすさまじいのだろうと思います。

誤解を恐れずに言うなら、自力で生きられないときは、それと気づかずに、周りの者を踏み台にしてしまう。

誰かの力を借りるということは、その人の人生の二度とない時間を自分のために使うということですよ。使い続ければ結果的にその人の命を削り取ることになる。

理性が残っているうちは、ゴメンネと涙を流せても、理性が失われたら生きるという本能だけになってしまうのですね。

このままでは共倒れになるとわかったとき、若い者はどうすればいいか。

きれいごとですまない決断を迫られたら、若い者には自分が生きて世の中に貢献する道を選んで欲しい。それが自然の摂理に従うことです。

なりふり構わず取りすがるのが老人の命の力なら、心を鬼して切り捨てることが若い者の命の力ではないかと思います。そのときが来たら、しっかり目を見開いて、両手両足で丸太につかまってください。

今は若い者だって遠からず同じ立場になるのです。

冷たいですが、切り捨てたという痛みと一緒に生きるしかないと思うのです。私はそうするだろうし、私が老人だったらそうして欲しいです。

返信する
いのちは (かささぎ)
2005-09-03 16:19:39
時に真摯に 時に残酷



たまさん。

私は,子を一生持たないつもりで20代を過ごそうと考えていました。でも,年号が平成に切り替わった瞬間,変わらねばならないもの,変えなければならないものがあるのだ,と覚悟をしたことを覚えています。 その結果が,只今修行中の身…なのですが…(笑)



個人的に,私はneko50さんの仰有ることと同じことを言いたいです。「下の世代の者は上の世代を踏み越える」べきで,更に「上の世代はそれをきちんと下の世代に言葉や態度で伝えて行かねばならないのだ」と考えます。

それが「いのちの連鎖」だと思うので……。



たまさん。どうか,何よりもご自身を第一になさってくださいますように。
返信する
こんにちは (キャロライン)
2005-09-03 17:18:14
「彼らよりも「生命力」が劣っているような、そんな気が最近、時々、するのだ。」を読んで

我が家の年な両親のことを思いました。

私はアレルギーにかなりやられてますし、

娘も喘息の持病を持って若いにもかかわらず

体力も弱いし、今まで現代医療があってこと今がある存在。

それに対して、両親は年にしたら、かなり高齢なのに、持病一つなく、普通はどこか痛かったりする年齢なのに、ちょっとの痛みさえ無い超健康体。

私よりのさっさか早く歩けますし、長く歩けます。

つまり体力があるんです。

もちろん、元気なことはとても有難く、嬉しいことなんですけどね。

父の妹は、体はものすごく元気、でも痴呆が出てしまっていて、今結構大変です。

今後を思うと、どうなるのかなあと、ひとごとではない思いにかられます。

返信する
生きること (iso)
2005-09-03 23:26:39
 デイで介助を行っていて、利用者さんに目をじっと見られた時や、しっかりと腕をつかまれた時に、自分にはないものを感じます。これも生命力なのでしょうか…。そのように思いました。



 残りの時間が短いほど、やり残したことへの思いがあるほど、生命力が強くなるのかもしれないとも思います。難しいですね。
返信する
コメントありがとうございます>皆様へ (介護人たま)
2005-09-06 01:54:52
すべてのコメントを、たいせつに拝見いたしました。

おこころを、嬉しく感謝のうちに、受け取らせていただきました。



少し、お返事を保留にさせてくださいませ。

色々と、思うところが、ございまして…(決して、否定的な意味ではなく、です)



申し訳ございません、しばし、お待ちくださいませ。

返信する
命の重さ。 (ひめ)
2005-09-06 12:42:39
命の重さを知っているから怖いのかもね…。

命の尊さを識っているから恐いのかもね…。

だから、触れていけるんだと思う

返信する
こんばんは。 (ミンミン)
2005-09-14 00:04:00
たまさん、こんばんは。

ちょっとだけお久しぶりです。

何度もコメントを書いては消し、書いては消しで

時間が経ってしまって…。



私は怖さよりも、愛おしいって思ってしまいます。

ばーちゃんも、じーちゃんも

それぞれ病気の告知を受けた後で

「死ぬのは怖くないよ」と口では言いつつも

懸命に生にしがみつこうとする姿。

死に対する恐怖も、いろいろな葛藤もあるけれども

それでもやっぱり人間はどんな時でも

生きていたいんだな…って。

そんな姿を見せられたら、命そのものが

愛おしくて愛おしくてたまりませんでした。
返信する
いのちの力 (介護人たま)
2005-09-17 00:18:12
>The社会福祉マン!さん

「長生きをする」ということは、それだけで大変なことで、

「長生きをした人」というのは、それだけで大切な智慧の資源で。



…この記事を書いて、皆さんから頂いたコメントを読んでから、しばらくの間考えてみたのですが、

ある意味「生命力」が彼らより劣っているのは、誤解を恐れずに言えば、当然かもしれないな、という考えに至りました。

なぜなら彼らは、思えば私の3倍近くの時間を、実践で生き抜いてきている、いわば「手練れ」だからです。

わたしみたいな若造、かなうわけない^^;



長生きした命である、彼らの中にある

「個の尊厳」を、大切にしつづけること、そして同様に、自分自身の「個の尊厳」を大切にすること、

このバランスを何とか取っていくことで、丸太につかまれるのかも…と最近、思うようになりました。



>いのちの力 難しいです



そうですね。本当に。

生まれて来るのだって、そう簡単ではないのですもの、思えば。
返信する
はじめまして (しらかば)
2005-09-17 01:46:30
 家族が末期の脳ガンになり、手術後に最後の半年を自宅で一緒に過ごした経験があります。たまさんの文章を拝見して、いろんなことを思い出しました。少しだけ、感じたことを書かせてください。

 当時私は中学生でした。彼が怒鳴り散らす(病気による脳機能障害です)声を聞くのが嫌で、必要な時以外は自分の部屋に篭ってラジカセのボリュームを上げて過ごしていました。娘として何かしてあげようなどという気持ちよりも、1日1日をやり過ごすことで精一杯でした。発病から亡くなるまで約1年でした。

 その後、高校大学と過ごしながら「彼にとってあの半年は何だったのか、自分は何で受け入れられなかったのか」について考え続けました。答えはまだ見つかっていません。当時を振り返ってああすればよかった、こうすべきだったと悔やむ部分はたくさんあります。

 ただ今思うのは、父は衰えていく意識を抱えながらも、精一杯生きようとしていただろうということ。そして同じように、苦しみながら接していた母も、何も助けられなかった当時の私も、あの状況の中で精一杯生きていたんじゃないかということです。

 お年寄りのありのままの生に価値があるのと同じように、必死に介護する家族の生も、時々疲れたり迷ったりしてしまう過程も含めて、わたしはとても重みのあるものだと思います。

 直接のコメントにはなっていないかもしれないですが・・・。まだまだ人生経験も浅いのに、えらそうなことを書いてすみません。

 季節の変わり目ですので、お体大事になさって下さい。
返信する