じいたんばあたん観察記

祖父母の介護を引き受けて気がつけば四年近くになる、30代女性の随筆。
「病も老いも介護も、幸福と両立する」

小部屋から光を投げる。

2005-12-24 01:52:41 | 介護の土台
クリスマス、一番幸せなのは、きっとサンタさんだ。


学生時代、土日は結婚式場でお運びさんのアルバイトをしていた。

12時間連続勤務、休みなし。
途中で会社は変えたけど、
四年間続けていたので、 最終的には時給1350円。

メインは配膳だが、そのの合い間に、
ドライアイスの準備や、
進行の伝達、後輩の指導、

そして、スポットライトで新郎新婦やご両親様を照らす、
といったお役目をこなしていた。


わたしは、この「スポットライト」の仕事が大好きだった。


スカートのままはしごを上って、こぎたない一畳ほどの部屋へ。

そこには大きなスポットライトがあって、
スイッチを入れるとわたしは、あっという間に汗だくになる。

汗だくになりながら、指示通りに光を当てていく。


その部屋からは、会場の全体が見える。
いろんな人の、いろんなすがた。

あたたかい、…新郎新婦にとっては一生に一度の光景。

一日三回転、披露宴をこなしていたけれども、いつ見ても感動する。


あたしがここにいることは、誰も、知らない。
みすぼらしい、勤労学生だったあたし。

だけど、光を当てている。大切なお式を、支えている。

いつも胸がいっぱいになった。
幸せな仕事だった。

クリスマスが近づくと、あの幸福感を、いつも思い出す。


他の人の分は用意したのだけれど、
祖父へのプレゼントが決められないまま、
イブが来てしまった。

明日の午前中、もう一度見に行くことにする。

自分のために生きるということ。

2005-09-05 23:56:59 | 介護の土台
「介護に専従している」と人に話すとき、よく言われる言葉がある。


「あなた自身の人生はどうなるの」
「あなたの夢は?」
「まだ若いのに、先があるのに、どうして?」



心配してくれての言葉だということはわかっているから、
 (時には、まるで露骨に憐れむように、
   …という人も、ブログ以外の場所には多少、いる)

感謝の念をおぼえ、
素直にそれを、伝えることにしている。

そして時に、
ほんの少しだけ、さみしい気持ちになる。



わたしは、わたしのために充分、生きていると
自分では感じているのだけれど、
そんな風には、人の目には映らないのだろうか。

『こんな「30代の過ごし方」が出来るなんて、
  なんて贅沢なのだろう』
とさえ、自分では、思っているのに。

だって、わたしの命は、わたしだけのものではない。
たくさんのいのちの一部が、わたしなのだ。


*******************


もちろん、わたしにだって、
いくつかの、ごく個人的な「夢」は、ある。
そのうちの一つは、もう少し早く、叶うはずだった。


祖父母の介護の話が舞い込んできたとき、わたしは

学校になじめない子供たちのための家庭教師と、
知人から頼まれる、ごくささやかな「文章の書き直し」の仕事で
ぎりぎりの稼ぎをキープする生活の傍らで、

大学に再入学するための準備をしていた。


小学校の頃からおぼろげに、
そして高校に上がってからは具体的に、抱いてきた夢。

確実に死に向かうと決まっている人のための臨床医として
一生を捧げること。
それを、回り道の末、ようやく自力で実現しようとした矢先、


祖母の発病に気づいた。



それでも私は、はっきりと言い切る。

何の後悔も、ない。
祖父母をの介護を選んだことについて、
ひとかけらの後悔も。

むしろ、夢が叶うのが遅れたことを、幸いだったとさえ思っている。
だって、彼らを孤独なまま、置いておかずに済んだのだ。


それにもし、
わたしの個人的な「夢」が叶わなかったとしても、

世界の誰かがきっと、やってくれる。
引き継いでくれる。

私がやりたいことは、私ではなくても、

新しい命が、
あるいは今を共に生きる、見知らぬ誰かが。

わたしはわたしでありながら、
世界の一部だ。

そのことを、思うとき
わたしはとてもあたたかい気持ちになる。
妙な安心感を、覚える。

自然に、笑顔になる。



************************



そして、

…誤解を恐れず、敢えて書いてみるなら。


「自己実現」
「夢をかなえる」
「私が、私が」


現代においては、ごく当たり前ということになっている
一種の、呪縛のようなもの。

わたしはそこに、あまり意味を感じないのだ。

(具体的な夢に向け、頑張っている人たちを見るのは、
 むしろ大好きです。
 自分とは違う生き方だけれど、大好きだ。愛せる。)

ただ、ごく個人的には、ぴんとこないのだ。



なぜなら、歴史を振り返ってみるに、

古来から今に至るまで
たいていのひとはきっと、

「夢」やら「願望」を懐に抱いて
心を温めながらも、

現実には、「楽しいこと」や「夢」やら
そんなこととは縁遠い中で
ごくシンプルに自分の人生を受け入れ、
日々の生活の中にささやかな喜びを見出し、

生き抜いて、そして召されていったと思うのだ。


そのほうがむしろ、自然であるように、私には感じられる。
ごく、ごく個人的にだけれど。


自分のために生きるということ
その意味を
わたしなりには、今は、こんな風に理解している。


「生きるとは、苦しくても楽しい作業だ」ということを
感じながら生きるということ。

そして同時に、

「よりよく生き抜くということは、Dutyだ」ということを
忘れずに生きるということ。



追伸:

こんな生き方を選択し続けるわたしを、
歯がゆい思いで、心配しながら見守っていてくれる、

母を、妹を、近しい人たちを、

明日心臓が止まってもおかしくない状態の、
最愛の「母方の祖母」を、

愛すべき友人たちの存在を、

彼らのこころを、

必ず覚えておかなければと、強く思う。

想定外、そしてまた想定外。

2005-07-08 02:06:01 | 介護の土台
※また書き直すかもだけどUPします。ヘビーな話です。ご注意を※



想定外のことだらけの人生を、歩いてきたつもりだった。
自分を鍛えて、鍛えて、
たいていのことは、耐えていけるように。

だが今、その自信がゆらいでいる。
今、自らの置かれた立場に恐れおののく自分を発見して、
たじろいている。


人生に再び、巡ってくるなんて。
死神の鎌をふるう役割が。
そう。

介護者という役割を皆が嫌がるのは、実はここに理由があるのかもしれない。



明日、ばあたんだけを、ショートステイに行かせる。
二泊三日、金曜から日曜まで。
その間、祖父と二人で、昼夜過ごす。

とにかく前へ進まなければ。
共倒れにならず、介護を続けていけるために
希望を、選択肢を、増やしておかなければ
そう考えての、今回の決断だった。

じいたんは、最近わたしに対して、本当に優しくなった。
介護に介入した当初からは想像もできないほどに。

それは、多分
普通の「祖父母と孫の関係」を捨て去ることと引き換えに、
私が、祖父が、祖母が、失ったものについて、
ある日ふと思い至ったから、なのだろう。


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高3の冬。
父が亡くなったその夜、
まだ彼の身体があたたかいうちに
死後脳の提供をオファーされた。

「先生は学者だったのだから、後の研究に役立つ寄付を喜ばれると思います」
父の後輩だというその医師は、抑揚のない声で言い放った。
「もう、東大の解剖医をこちらに向かわせています」
母は半狂乱で医師に掴みかかった。

そして、いくつかの意見を聞いたうえで、決断したのは、私だった。
親族一同集まっている中で、長女の私が。

はっきり明言する。
決断したのは、わたしだ。
わたししか、決断することを背負おうとする人間が、いなかったからだ。

そのことで誰を責める気持ちはない。
むしろ母に対しては、あんなに過酷な選択をさせなくて済んで、
良かったとさえ思っている。

そして何より、
父を、完全に、生から開放してやりたいと願ったのは、
生き返るかもなんて希望をこっぱみじんにしてあげたいと願ったのは、
他でもないこの私だからだ。


霊安室の横の解剖室で、がりがりと骨をけずる音が響く。
そんな中で、茶を飲みながら、どこか和やかに
葬儀の相談などをしている大人たちを
冷めた眼で眺めながら

「自分が決断したことの結果を、最後まで見極めてやる」
表むき、適当に嵐を装いながら、
心の深い海の中ではただ、そればかりを、考えていた。


その夜。確か午前三時。

脳を摘出された後の彼を、見舞った。
霊安室の冷蔵庫に忍び込んで。

穏やかな、父の顔。
やっと、ふたりきりになれた、父。
息をしていない父の耳元で、ささやいてみる。

「パパ…」

そっと頬に触れると、想像もつかない冷たさが、指先を刺した。
そして

…清拭したときに剃ったはずのひげが、生えてきていた。
彼の皮膚の細胞は、脳を奪われて、なお、生きようとしていた。



父から、完全に、生き返る可能性を、奪い取ったのは
他でもない私であるということを、改めて悟った。

涙も出ないまま彼に頬ずりをした。
ずっと、空っぽになった彼の頭蓋を眺めていた。



「生き返るかもしれない」という、ごく僅かな可能性を
容赦なく摘み取った結果。
生殺与奪の権を握り、かつそれを使役した、
尊属殺しが、私の最後の親孝行。


(以下2006/02/03 父の命日に追記)

 こんな考えは傲慢だ、とあなたは言うかもしれない。

 また、蘇生はありえないという前提で、
 心停止を確認した上で
 この処置は行われたのだということ
 臨床的には不可逆的に確実に
 死を迎えたと専門家が判断したからこそ
 可能だったことだということ
 そんなことは、充分に承知していた。


 それでも

 もう、逃れられない、と思った。

 これを背負って生きていかなければ


 そしてこの思いこそが
 多分、祖母の病に気づいたとき
 わたしを、職を棄てて祖父母の土地まで転居するという行動に駆り立てたということは事実だ。

 (追記終わり)

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あのときと、今、同じ立場に立っている自分に、ふと気づく。

自分の決断は、果たして正しいのか。

他の親族全部を差し置いて、
主介護者としての道を選んだ私の決断は、果たして正しかったのか。

でしゃばって介護人を買って出たことさえもが、
じいたんばあたんを不幸のどん底に突き落とす結果を招きつつあるのではないか。
その恐れと不安と、常に戦うことであるということに、
何故わたしは今更、気づいたのか。


だが
彼らが心からそれを望む場合をのぞいて、
施設に入れるなんて選択肢は、私のなかにはない。
周りは皆、施設に入れろという。けど。


だって、どうしてそんなことができるの。

「ごめんね。ばあたんにショート使ってもらわないと、
 私が、息の長い介護を続けていけないの。
 だから、ばあたん、頑張って、耐えて」

明日にショートステイを控えて、たまらず、土下座した私に

「ありがとう。おばあちゃんは、大丈夫。
 たまちゃんのためだったら、おばあちゃん、がんばる」

即座に答えて、ぎゅうっと、私を胸に抱きしめた彼女を、
そんな、無償の愛を胸に宿している、誰より人間らしいあの老女を、

どうして見殺しになんかできるものか。

いいさ、もう一度、改めて引き受けよう。
愛の鎌を背負う役割。

何としてでも、共生していける道を、探し出してみせる。
それが出来なければ、私は私じゃない。


※最後まで読んでくださった方、
 お見苦しいものを、耐えてくださったおこころに
 深謝いたします。

病気の症状としての「妄想」について、覚書。(症例)

2005-06-22 21:36:00 | 介護の土台
※一部、改稿いたしました(6/23 01:25)

前回、妄想に関する対処のしかたについて、自分なりの考えを書いてみました。
今回はそれを踏まえたうえで、
私の体験の一部を、参考までに書いてみたいと思います。

じいたんばあたんのケースではありませんが、
この症例が、私にとってのイニシアルケースであると言い切れる
そんな症例を紹介したいと思います。

その後の人生で、別の家族を看病した場面や、
また、現在、じいたんばあたんとの生活の中で、
時に現れる妄想のようなものに対処するとき、

この時の体験が、私を助けてきたと思っています。

そういう訳ですので、どうかご容赦ください。


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症例)私の父の場合(当時、父41歳、私は高1)

病名:脳腫瘍(悪性)再発何回目か。

状況:(うろ覚えですが確かこんな感じ)
   5回目か六回目の手術の後。
   腫瘍摘出のほか、
   正常圧水頭症によるシャント手術も施行後であったため、
   痴呆症状を呈しているのだろうということで、経過観察。
   幻覚・幻視を緩和する薬物治療は適応ではない。


脳圧があがってしまっているせいで、
「水頭症痴呆」が出ていた時期がありました。

父は、様々な妄想(幻覚や幻視)に苦しめられていました。
そのとき症状に応じて対処してきたわけですが、
一番、分かりやすく、また印象に残った事例を一つ、書きたいと思います。

例えば、
「足元に、黒猫が座って、どかないんだ。不吉だからどこかへ連れて行ってくれ」
と切羽詰ってわたしたちに、訴えるのです。

母はそんな父の変わりように、
「そんなものいないわよ、あなた。どうしたの、あなた」
と悲しみ、途方に暮れ、病室の外で泣き崩れていました。

でも、いっこうに症状はおさまらず、
他の妄想(向かいの部屋が霊安室だからいやだ、とか)も
強くなってきました。
父の手にはナースコールが握られたまま。

その時ふと思いついて、やってみたことを書いてみます。


たま「パパ、パパの足元には黒い猫がいるのね。」

父「そうなんだ。気味が悪いんだよ。たまこは分かってくれる?
  ママに言っても、信じてくれないんだ」

たま「うんとね、パパ。
   あたしには、黒猫がよく見えないんだ。
   でも、パパに黒猫は見えてて、すごく嫌なんだよね?
   たまも、同じようなことあったら、嫌な気分になっちゃうよ。
   
   だからさ、どの辺りにいるのか、教えてくれないかな。
   たま、がんばって捕まえるから、
   ちゃんと捕まえられたかどうか、教えてちょうだい。この辺?」

   (としばらく、ベッドの足元あたりを、探ってみる)

父「ああ、そこだ、そこだ。(笑顔になる)」

たま(抱き上げるしぐさをして)「ねえパパ、まだ、足元にいる?」

父「いや、たまが抱っこしているやつだけだ」

たま「そうなんだ~。じゃあこのまま、連れてって、外でえさでもあげてくるよ」

戻ってきたとき、父は落ち着きを取り戻し、ナースコールから手を離していました。

それからも時々、誰もいないときを見計らって、
父に、直接

「猫はいない?怖くない?たまには、見えないんだけど」
と問いかけるようにして、

「実はいるような気がするんだよ」
と打ち明けてくれたときには、上と似たような対処を繰り返しました。

そのうち、
父は「もう、猫はこなくなったよ。ありがとう。」と
笑顔で答えてくれました。

これが、脳圧が下がったせいなのか
対処が適切だったからなのかは、わかりません。
ただ、彼の気持ちが和らいだ結果、
症状を緩和することに多少は役立ったのではないかと思います。


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こういった対処をたまたま出来たのは、

母が、悲しみをぶちまけてくれたおかげで、逆に私が冷静になれたこと
つまりたまたま、「家族」という枠組みのなかで、
こういった対処の仕方が発生し、機能したのだということ
(母がいなければ、私はこういった対処ができなかったと思います。
 母と私が逆であっても、同じ結果が出たかもしれません)

一見、キチガイじみたように見える私の対処と努力について、
妹”にゃお”が理解を示してくれ、協力してくれたこと
(妹がいなければ、この孤独な作業を続けることはできなかったと思います)

他の患者さんのご家族や、看護師さんたちが、
黙ってあたたかく見守ってくださったこと

この三点があったことを付け加えておきます。


家族や周囲の協力があってこそ、こういった対処が可能になったということを、
どうかご理解いただき、
苦しい闘病生活をなさっている方やそのご家族に、
何らかの希望を感じていただければ、さいわいでございます。

つたない文章を、
最後までお読みいただき、ありがとうございました。


追記1:
父は、核融合理論の研究者でした。
11年の闘病生活の間、ぎりぎりまで研究職を続けました。
そして、43年の短い生涯を終えました。
最後まで、泣き言ひとつ言わず堂々と、生き抜きました。
彼の名誉のために、付記しておきます。

病気の症状としての「妄想」について、覚書。

2005-06-21 08:25:50 | 介護の土台
痴呆(という表現を敢えて使います)の症状としての
「妄想」について、
その理解のしかた、及び対処のしかたのコツを、
自らの体験から思うところを、少し書いてみたいと思います。

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「お財布を誰かに取られた。嫁の仕業にちがいない」
「○○が、俺を拉致しようとしている」
「妻が、浮気をしている」

妄想に伴う病者の行動や言動に、
介護者や家族は初め、どうしても戸惑いを感じると思います。

なぜなら
「妄想を持った病者の”行動・言動”」にばかり目がいってしまい、
彼らが今どういう気持ちで「妄想」の中に埋まっているのかを
考える距離感を、しばしば持ちにくいからです。

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  あ、そうだ、本論に入る前に、大前提をひとつ…。  まずは「痴呆に似た症状を呈する身体疾患がないか、専門医に必ず調べてもらうこと」 ご承知おきくださいませ。
   
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では、どうやったら距離感をある程度保てるのでしょうか。
そのコツを
(あらかじめ予備知識として頭に入れておいていただければ、
きっと楽になるであろうということ)
少し書いておきたいと思います。


病者が「妄想」を訴えた(あるいは行動化した)時、
まず介護者が即座に認識すべきことは、

①「妄想」という症状が、本人にとっては非常に苦しく、
怖ろしいものとして体験されているということ

②彼らにとって、「妄想」は現実として「体感」されているということ

この二点だと思います。
頭でだけでもいいので、了解しておくことだと思います。


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でも、こんな風に書いてみたところで、読者のみなさんは、あまり、
ぴんとこないですよね。


というわけで、たとえ話をひとつ。
何処で見かけたのか忘れてしまったのですけど、
「これは上手い言い方だなぁ」と思ったので…


「妄想」を、「耳鳴り」だと考えてみてください。

「耳鳴り」は、自分自身には聞こえます。
それはそれは、うっとうしく嫌なものです。
でも、他人に「自分の耳鳴り」を
一緒に聞いてもらうのは不可能です。

逆もまた真なりで、
他人様が耳鳴りで苦しんでいるということを、
本人から教えてもらえば理解できるのだけれど、
それが実際どのようなうっとうしいものか、推察はできても
他人様の耳鳴りそのものを体験する=聞くのは不可能です。


妄想(幻覚・幻視・幻聴)も、これと似たようなものです。


病者にとっては、
「自分にとっては絶対に「真実」としか思えないけれど、
 他人には取り合ってもらえない。どうしたらいいんだ…」

病者以外の人にとっては、
「病者の妄想は、「現実ではない」とはっきり否定できるけれど、
 目の前で、病者は、妄想に苦しめられている。どうしたらいいのか…」


これが「妄想」が発生したとき、
病者と、介護者(及び家族)との間に生ずる
ギャップなのではないかと思います。


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では、どのように接すれば、患者の気持ちが楽になるのか。
ポイントを書いてみます。


①彼らの妄想の「内容」を、決して、否定しないこと。

②ただし、彼らの妄想の「内容」を、肯定もしないこと。←これすごく大事。

②’適切な時期を見計らって、
 「自分には、病者の見聞きしているものが、見聞きできない」という事実を、
  穏やかに正直に伝える。
      ↑これが、非常に重要だと思います。

③ ①②②’を踏まえたうえで(←これらは病者に伝えるかどうか、ケース・バイ・ケースです)
 彼らが、今「とても辛い状態におかれているのだ」という、
 その「辛さ」の感情に対して、十分な共感を示すこと。

③その上で、「じゃあどうやって解決しましょうか」という働きかけをする。
 患者自身に要望がある場合もあるし、
 こちらから色々アプローチする必要がある場合もある。
 (解決方法を考える力がその時点で、衰えている場合も多々ありますので)

 ただ「一緒に、解決している」という気持ちに病者がなれるように、
 周囲は動く必要があると思います。


(注)
 統合失調症の病者へは、安易に応用しないでください
 (精神科医の意見をまず重視してください)
 統合失調症に関しては薬物療法がまず第一選択で、
 とにかく、激しい症状を一旦抑えて、「患者を楽にする」ことが先決です。
 また「妄想・幻聴」などが起こるメカニズムも、痴呆によるそれとは異なります。

 逆を言えば、痴呆症の場合、簡単に薬物を使えない場合が多々あるので、
 周囲の理解がとても大切になってくるのだと思います。


専門家の方から、そうでない方からのご意見、お待ちしております。
私は、まだまだ学びたいです。ご協力をいただければ幸いに存じます。

なお、次回、
こういった認識を持つに至った経過をご理解いただくために、
ひとつ、私が体験した事例をご紹介したいと思います。
よろしければそちらも、お読みいただければと思います。

どんな飲み物でもいい。ただ、

2005-05-30 22:19:59 | 介護の土台
人さまが、淹れてくださった飲み物。
いただくと、ほっとします。
普段は自分が淹れるばかりなので…


ばあたんもじいたんも、もう飲み物を注ぐ動作は難しい。
出来ないわけじゃないんだけれど、
温かい飲み物は特に、危険を伴うので心配なのだ。

じいたんは、片目が見えにくくて、遠近感がない。
ばあたんは、危険を察知するのが難しくなってきている。

それに何より、
二人とももう長いこと
自分でお茶を淹れてきたのだから、
せめて残りの人生は、
孫に淹れてもらう温かい飲み物を楽しんで欲しい。

だから、介護の合間に
行きつけ(というほどは行けないけど)の
喫茶店で、コーヒーや紅茶をいただくと、
なんともいえない幸せな気持ちになる。

人に淹れてもらう飲み物って、本当に心があたたまります。
あたしにとっては、ほっと一息いれられる、そんな飲み物です。



追伸:
はれうさん

ホットココア、おいしかった。とても。
ありがとう。

毎日、腹の底から笑うこと。

2005-05-14 20:08:15 | 介護の土台
健康法は?という今週のお題。
生活のなかで色々工夫はしているのですが、
それはまた別の機会にUPするとして…。

これが私と祖父母の健康を支えているな
と最近思うものがひとつ。
それは、腹の底から笑うこと。

介護しながら一日、何回笑うかなぁ。
うーん…
笑いっぱなしだなぁ(笑)
箸が転げても可笑しい、みたいな感じで
ばあたんと私は、ふざけあっては笑う。

じいたんは、気が向けば
すんごい洒落た冗談を言って
二人で目を見合わせて「にやり」と笑う。
やっぱり一日数回は笑っている。

一応、誤解のないように書いておきたいのですが、
うちは
ばあたんが『要介護3(老人性アルツハイマー)』
じいたんが『要介護2(身体疾患色々+認知症疑い)』
です。

二人から笑いを引き出す工夫は惜しみません。
二人の笑う顔をみると自然に自分も頬がゆるむ。
幸せに感謝できる。
だから、元気でいられる。
病とも付き合える。介護も続けられる。

笑いって本当に、効き目があります
お試しあれ

とにかく学ぶこと。

2005-05-08 06:52:43 | 介護の土台
特に認知症の患者を介護する場合、
とにかく毎日学ぶ時間を確保することが
大事である。
身体も頭も両方使って学ぶことが。

病気の性質について。
患者自身とのコミュニケーションの深め方について。
患者の持つこころの歴史について。
彼らに対して素直な気持ちを保つ技術について。
周囲からの援助を引き出す方法について。

書けばきりがないのだが…
学ぶことは、患者本人のためだけでなく
介護する側の精神的・肉体的なコンディションを整える一助になる。

なぜなら
「知らない」ということは
それ自体が大変なストレスを介護者にもたらすからである。

また、介護者のストレスは、患者にダイレクトに影響を及ぼす。
それは、とても悲しいことである。

学ぼう。知ろう。実践しよう。
成功と失敗を繰り返しながらでも、怖れないで。
患者さんはそんな、介護者のこころを、
どんなときでもしっかりと感じ取っている。

そしてそれは彼らにとって、お薬よりもずっと効果のある支えとなる。