「介護に専従している」と人に話すとき、よく言われる言葉がある。
「あなた自身の人生はどうなるの」
「あなたの夢は?」
「まだ若いのに、先があるのに、どうして?」
心配してくれての言葉だということはわかっているから、
(時には、まるで露骨に憐れむように、
…という人も、ブログ以外の場所には多少、いる)
感謝の念をおぼえ、
素直にそれを、伝えることにしている。
そして時に、
ほんの少しだけ、さみしい気持ちになる。
わたしは、わたしのために充分、生きていると
自分では感じているのだけれど、
そんな風には、人の目には映らないのだろうか。
『こんな「30代の過ごし方」が出来るなんて、
なんて贅沢なのだろう』
とさえ、自分では、思っているのに。
だって、わたしの命は、わたしだけのものではない。
たくさんのいのちの一部が、わたしなのだ。
*******************
もちろん、わたしにだって、
いくつかの、ごく個人的な「夢」は、ある。
そのうちの一つは、もう少し早く、叶うはずだった。
祖父母の介護の話が舞い込んできたとき、わたしは
学校になじめない子供たちのための家庭教師と、
知人から頼まれる、ごくささやかな「文章の書き直し」の仕事で
ぎりぎりの稼ぎをキープする生活の傍らで、
大学に再入学するための準備をしていた。
小学校の頃からおぼろげに、
そして高校に上がってからは具体的に、抱いてきた夢。
確実に死に向かうと決まっている人のための臨床医として
一生を捧げること。
それを、回り道の末、ようやく自力で実現しようとした矢先、
祖母の発病に気づいた。
それでも私は、はっきりと言い切る。
何の後悔も、ない。
祖父母をの介護を選んだことについて、
ひとかけらの後悔も。
むしろ、夢が叶うのが遅れたことを、幸いだったとさえ思っている。
だって、彼らを孤独なまま、置いておかずに済んだのだ。
それにもし、
わたしの個人的な「夢」が叶わなかったとしても、
世界の誰かがきっと、やってくれる。
引き継いでくれる。
私がやりたいことは、私ではなくても、
新しい命が、
あるいは今を共に生きる、見知らぬ誰かが。
わたしはわたしでありながら、
世界の一部だ。
そのことを、思うとき
わたしはとてもあたたかい気持ちになる。
妙な安心感を、覚える。
自然に、笑顔になる。
************************
そして、
…誤解を恐れず、敢えて書いてみるなら。
「自己実現」
「夢をかなえる」
「私が、私が」
現代においては、ごく当たり前ということになっている
一種の、呪縛のようなもの。
わたしはそこに、あまり意味を感じないのだ。
(具体的な夢に向け、頑張っている人たちを見るのは、
むしろ大好きです。
自分とは違う生き方だけれど、大好きだ。愛せる。)
ただ、ごく個人的には、ぴんとこないのだ。
なぜなら、歴史を振り返ってみるに、
古来から今に至るまで
たいていのひとはきっと、
「夢」やら「願望」を懐に抱いて
心を温めながらも、
現実には、「楽しいこと」や「夢」やら
そんなこととは縁遠い中で
ごくシンプルに自分の人生を受け入れ、
日々の生活の中にささやかな喜びを見出し、
生き抜いて、そして召されていったと思うのだ。
そのほうがむしろ、自然であるように、私には感じられる。
ごく、ごく個人的にだけれど。
自分のために生きるということ
その意味を
わたしなりには、今は、こんな風に理解している。
「生きるとは、苦しくても楽しい作業だ」ということを
感じながら生きるということ。
そして同時に、
「よりよく生き抜くということは、Dutyだ」ということを
忘れずに生きるということ。
追伸:
こんな生き方を選択し続けるわたしを、
歯がゆい思いで、心配しながら見守っていてくれる、
母を、妹を、近しい人たちを、
明日心臓が止まってもおかしくない状態の、
最愛の「母方の祖母」を、
愛すべき友人たちの存在を、
彼らのこころを、
必ず覚えておかなければと、強く思う。
「あなた自身の人生はどうなるの」
「あなたの夢は?」
「まだ若いのに、先があるのに、どうして?」
心配してくれての言葉だということはわかっているから、
(時には、まるで露骨に憐れむように、
…という人も、ブログ以外の場所には多少、いる)
感謝の念をおぼえ、
素直にそれを、伝えることにしている。
そして時に、
ほんの少しだけ、さみしい気持ちになる。
わたしは、わたしのために充分、生きていると
自分では感じているのだけれど、
そんな風には、人の目には映らないのだろうか。
『こんな「30代の過ごし方」が出来るなんて、
なんて贅沢なのだろう』
とさえ、自分では、思っているのに。
だって、わたしの命は、わたしだけのものではない。
たくさんのいのちの一部が、わたしなのだ。
*******************
もちろん、わたしにだって、
いくつかの、ごく個人的な「夢」は、ある。
そのうちの一つは、もう少し早く、叶うはずだった。
祖父母の介護の話が舞い込んできたとき、わたしは
学校になじめない子供たちのための家庭教師と、
知人から頼まれる、ごくささやかな「文章の書き直し」の仕事で
ぎりぎりの稼ぎをキープする生活の傍らで、
大学に再入学するための準備をしていた。
小学校の頃からおぼろげに、
そして高校に上がってからは具体的に、抱いてきた夢。
確実に死に向かうと決まっている人のための臨床医として
一生を捧げること。
それを、回り道の末、ようやく自力で実現しようとした矢先、
祖母の発病に気づいた。
それでも私は、はっきりと言い切る。
何の後悔も、ない。
祖父母をの介護を選んだことについて、
ひとかけらの後悔も。
むしろ、夢が叶うのが遅れたことを、幸いだったとさえ思っている。
だって、彼らを孤独なまま、置いておかずに済んだのだ。
それにもし、
わたしの個人的な「夢」が叶わなかったとしても、
世界の誰かがきっと、やってくれる。
引き継いでくれる。
私がやりたいことは、私ではなくても、
新しい命が、
あるいは今を共に生きる、見知らぬ誰かが。
わたしはわたしでありながら、
世界の一部だ。
そのことを、思うとき
わたしはとてもあたたかい気持ちになる。
妙な安心感を、覚える。
自然に、笑顔になる。
************************
そして、
…誤解を恐れず、敢えて書いてみるなら。
「自己実現」
「夢をかなえる」
「私が、私が」
現代においては、ごく当たり前ということになっている
一種の、呪縛のようなもの。
わたしはそこに、あまり意味を感じないのだ。
(具体的な夢に向け、頑張っている人たちを見るのは、
むしろ大好きです。
自分とは違う生き方だけれど、大好きだ。愛せる。)
ただ、ごく個人的には、ぴんとこないのだ。
なぜなら、歴史を振り返ってみるに、
古来から今に至るまで
たいていのひとはきっと、
「夢」やら「願望」を懐に抱いて
心を温めながらも、
現実には、「楽しいこと」や「夢」やら
そんなこととは縁遠い中で
ごくシンプルに自分の人生を受け入れ、
日々の生活の中にささやかな喜びを見出し、
生き抜いて、そして召されていったと思うのだ。
そのほうがむしろ、自然であるように、私には感じられる。
ごく、ごく個人的にだけれど。
自分のために生きるということ
その意味を
わたしなりには、今は、こんな風に理解している。
「生きるとは、苦しくても楽しい作業だ」ということを
感じながら生きるということ。
そして同時に、
「よりよく生き抜くということは、Dutyだ」ということを
忘れずに生きるということ。
追伸:
こんな生き方を選択し続けるわたしを、
歯がゆい思いで、心配しながら見守っていてくれる、
母を、妹を、近しい人たちを、
明日心臓が止まってもおかしくない状態の、
最愛の「母方の祖母」を、
愛すべき友人たちの存在を、
彼らのこころを、
必ず覚えておかなければと、強く思う。