普通の人は自分の栄光をなかなか忘れられないものだ。職場を退職しても、まだ上司だった気分がなかなか抜けなかったりする。武士の娘だった人は、身分という誇りをいつまでも支えにし、私だってテニスで不利に追い込まれたりすると、得意の強烈サービス(それは過去のものになったはずなのに)をふるって巻き返そうとする。
こんな私なのにもし、神さまが私を通して大いなる奇跡や癒やしを現されたらどうだろうか? 感激し、まるで自分がワザを起こしたような、そんな有頂天な喜びにしたらないであろうか? もしそうなってしまったら、神の栄光を奪う大罪を犯し、サタンの後を追うことになる。恐ろしいことであるが、人とは弱いものである。賜物を熱心に祈り求めている人の中に、そんな恐れが自分には全く無い、と断定出来る人が、果たして何人いるであろうか?
しかし聖書は興味深いことを書いているし、私は心からアーメンと言う。下記の聖書である。これはパウロに何か重大なとげ(おそらくてんかんとか眼病など、人をつまずかせるような疾病)があって、これを癒やしてくださるよう神に三度祈り求めた時の神の答えである。(パウロ自身は数えきれない人々を癒やし、奇跡を起こして来たにもかかわらず)
しかし主は、「わたしの恵みはあなたこれに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである」と言われました。ですから私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。(コリント人への手紙 第二12章9節 ©2017)
私はこの偉大な器が、こと本人に限っては癒やされないこと、その弱さを負わされ続けることに、人間の弱さを知り抜いた神の「守り」を見て取る。パウロと言えども人間であって、高慢にならぬよう、一本の杭を、この場合はトゲと表現されているが、与えられている。実は私もトゲが与えられている。これは私を高慢にさせないための、神のムチだと聞かされている。
パウロはこの答えに非常に納得している。完全無欠になるなら、高慢という大きな落とし穴にハマりかねない。これはそれを心配しての神の愛だったのだ。私も神に祈っている。存分にトゲで私を打ち叩いてください、ダビデのように悔い改めさせてください、と。神の栄光を、0.001パーセントでも奪いませんように!
ケパ