母たちのことを書いた次の日、ちょっとした捜索事件が起こった。何はともあれ、無事に見つかって感謝した。今日は自分のことである。
「老いる」そんな言葉は50代の半ばまでは、私の中にはなかった。少々きざしはあったとしても。しかしそんな私も、60歳を目前にした数年前から、さすがに年を実感させられることが増えた。グレイな頭髪とか、顔にシワやシミが増えたとかの容貌ではない。そんなのは見なければよいのだ。しかし<動き>だけはどうしょうもない。
座っていて立ち上がろうとしても、これまでのように軽くヒョッと立てないのだ。まさに「ヨッコラショ」と注意深く立ち上がる。機敏に立てなくて、ちょっぴり情けない。そういえば道を歩いていて、よくつまづくようになった。靴を引きずる感じで歩いていると自覚する。とうとうバリアーフリー世代(段差をなくした住まい)に突入しようとしているのか?
心はそうでなくとも、体からイヤでも老いを知らされてしまう。老いは誰にでもやってくるものだが、なってみるまでは完全に他人ごとであった。ところが思う通りに動かない自分の体を持ってみると、かつて不思議だった、だんだん短気になるお年寄りの気持ちが少し実感できた。「そうか、これなんだあ」と。
以前、学校の総合的な学習の一環として、老人介護を教えたことがあった。お年寄りと接する心を育てるため、子ども達にビン底めがねをかけさせ、四肢の関節の動きを拘束する装具を着せて、老化を体験させた。自分もその時、「こんな体で、死が訪れるまでずっとやって行かなければならないとは、正直、たいへんだなあ」と思った。もし生きているだけが希望であったならば、である。
ところが、クリスチャンは自分の体が朽ち果てて滅ぶと、解放された霊が神の国へ行ける。だから天での神さまとの出会いを、「わくわく」しながら待ち望むのだ。それは「長生きしたい」「お迎えが来たら、まだ早いと言え」式のお年寄りたちとは、まるで違うのである。
ちょうど結婚式前の花嫁のように、私たちは胸を高鳴らせて、その時を待ち望んでいる。死は単なる喜びのための通過点でしかない。待ち望んだキリストとの交わり、永遠の住まいでの本番の生活がはじまる。体は朽ちていく、しかしそれはなんと希望に満ちた「老い」であることか! (ケパ)
Bible 私たちの住まいである地上の幕屋がこわれても、神の下さる建物があることを、私たちは知っています。それは、人の手によらない、天にある永遠の家です。(Ⅱコリント5:1)