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ケパとドルカス

『肝心なことは目では見えない』
これは星の王子さまの友達になったきつねの言葉。

主の大いなる輝かしい日に

2015年10月03日 | 感謝
人間には肉体と霊とかたましいとか呼ばれる、端的に言えば、滅びるものと滅ばないもののハイブリッドである。一方は見ることができ、もう一方は見ることができない。そこに感情とか人格という、両方から影響を受けるものがあって、このハイブリッドの理解を難しくさせている。
年齢を重ねて行くと、徐々にこの見えない方に関心が移って行く。第一肉体が衰えて、そっちの方はあまり希望を持てなくなるし、否応でも知見を重ねれば、自分の霊、たましいの実態に希望が無いことがわかってくるからだ。

若い頃、年長者になれば、この社会で尊敬を払われているように、自分も老成できると思っていた。しかし本当にそうなってきて感じるのは、とんでもない誤解だという事である。まず、短気になってきているし、Native(生まれたまま)の性質は良いものに進化していない。一言で言えば、人は原罪を持っており、それを節度とか、良心とか良いものに変えて行く力は、全くないという事である。

人にはただ神のみにしか希望がない。神を信じない人には希望がないので、滅びが来る事を忘れ、思い出さないように心がけており、突然その日が来る事を期待しているのである。「ぼっくり寺」があったりするのはこの理由からである。しかし永遠の滅ばない霊の行き先が、どれほど悲惨なものであるか、とくと行ってから知る事になる。手遅れとはこの事である。もしそのような世界がないのであれば、二千年にわたり世界をリードし、宗教別では常に世界一の人口を擁してきた百億の単位のクリスチャンほど滑稽な存在はないであろう。

わたしはこの意味で老化は神の知恵であり、肉体は滅びるもので、人がどうにか滅ばない霊に気づき、心を向けてくれと教えようとする神の愛だと思う。
だから老いることは残酷ではない。目を背けてもいけない。細かなシワがより始め、やわらかさ、輝きを失っていく己の体を見ながら、再び神が与えてくださる御霊の体の事を思う。次にいただく体は食べる事も触ることもできる体だが、二度と滅びることのない体であり、そのために子孫を残す性も不要で(つまり男も女もなく)、食欲などの生理的な欲求にも支配されない。老年は若くされ、子どもは大人の姿になる。この体をもって、神ご自身が光となられる聖所で、愛する神を礼拝できるのだ。わたしはこのことを思い描き、期待に心が膨らむのを隠すことができない。まさに「主の大いなる輝かしい日を待ち望み、老人?は夢を見る」のだ。 ケパ






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