ケパとドルカス

『肝心なことは目では見えない』これは星の王子さまの友達になったきつねの言葉。

どうして焼香できないか

2014年06月02日 | 信仰

Heaven_30  先週は葬儀で急遽(きゅうきょ)広島に帰ったが、今週はかねての計画通り、また帰広する。田舎の葬儀はいつもの浄土真宗で、出席者の多くが僧侶とともに読経し、焼香は二度する三、四十分の式だ。喪主になった従兄弟は、皆の前に出て何度か焼香をする。
 私の父はごく若い時に亡くなったので、喪主の私はクリスチャンにもかかわらず同じように焼香をした。しかし焼香が「私も一緒に仏になります」意味であることを後に知って、以後焼香はできなくなった。もし母の葬儀を仏式でしなければならなくなったとしたら、焼香のできない私は喪主を務められないかも知れないと姉に言った。これを聞いていた義兄が「誰もそがあなことは思やあせん(だれも私が焼香したらからと言って、クリスチャンをやめたなんて思わないので、ちゃんと焼香をして喪主としての長男の勤めを果たしなさい)」と言う。確かに常識で言えば、親をないがしろにする、ずいぶん頑なな態度に思われたことだろう。

 

 しかし今から数百年前、キリシタンの迫害では多くの信者「踏み絵」を踏むことが出来なかった。そして30万~100万(人口三千万時代)のカトリック信徒が殉教した。それは「自分の命よりも大切な神への愛」を告白し、永遠のいのちを獲得した死であったし、逆にそれが理解できない世の人々にとっては、つまり自分の命以上の生きる価値を見出してない(死んだら終わりの)人々には、愚かな死としか映らなかったことであろう。

 まったく同じことが「焼香できない」私と、義兄のススメに再現されたと言っていい。世間の人々が何と言おうと、私は仏にはなりたくはない上、永遠の命を何としてもゲットしたい。自分だけでなく、義兄など他の愛する人々にも、死んだら終わりの世界に行って欲しくない。何よりも神が、この真実を伝えるよう私を召してくださった。クリスチャンには、死がこわくないはず。逆に待ち遠しくてならないかも知れない。クリスチャンの死に顔は、みな笑顔だという。さもありなん、天国への凱旋だから。   ケパ

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