ケパとドルカス

『肝心なことは目では見えない』
これは星の王子さまの友達になったきつねの言葉。

答えられる祈り

2012年03月23日 | 祈り

Worship_48  クリスチャンは神に「祈って何ぼ・・・」の人々だと私は思っています。
※「祈って何ぼ」とは、「祈らないのでは、せっかくの特権も宝の持ち腐れ・・・・クリスチャンの価値って、祈りあってのもの」という、西国の出身、ケパの造語です。

 ですが多くのクリスチャンは、祈って神が答えてくださることを知りません。そしていくら祈ってもその状態(無応答)なので、「そういうものだ・・・・」とあきらめちゃっています。かく言うわたしも信じて30年以上、そうでした。ですから「答えられる!」なんて信じられない。いや、「神が祈りに答える」って怪しい。自分でそう思い込んでいる一人芝居とちゃう?・・・・・と、まあ、そう思うクリスチャンがいるはずです。そしてそれが真実であるのを見たら、平静ではいられません。「クヤシイ!」と嫉妬、シット。逆に、どうして自分には答えられないの!と頭に来ます。そして悲しさが自分を打ちのめす・・・・とまあ、これは自分自身だったらの勝手な想像で、もうちょっと冷静なのが普通でしょう。と言うのも、祈りの答えを熱心に求め続けていた自分だったからなのです。


 でも、なかなか言えないのですが、そのコツがあります。その一例を申し上げます。

 昨日いつものように早朝テニスをしていました。シングルスの勝負です。相手は最近力を伸ばしてきており、時間切れでゲーム決着までには至らなかったものの、最近はわたしの負け続け状態の強敵です。そして昨日、自分の調子は悪くなく、ポイント的には優勢でありながら、なぜか最後のポイントが相手に行ってゲームを取られてしまうといった、これまでの悪い展開でした。追い込まれた私はコートチェンジの間に少し祈りました。すると、わたしはそれまでの自分の祈りが間違っていたことに気づきました。
 それは「いつも自分が勝つ」ことだけを祈っていたことです。何と言うことでしょう。いつも人には「神に委ね、御心の祈りをしなさい」と言っておりながら、自分はハナからただ勝つこと
だけを願って祈っていたのです。これは祈りというものではなく、神への要求であり、強訴です。「ハッ」と思い、それからこう祈りました。「ああ、ごめんなさい。勝ち負けはもういいです。あなたの思われる通りに、好きなようにしてください。わたしは負けても喜んで従い、感謝します。あなたが大切で、最善だからです」と。

 すると何が起こったことでしょう。まず「あなたは勝ちます」ということばの思いが来ました。これまでの経験から、これは神からであると感じました。そして実際に不思議な展開になったのです。わたしは何も変わWorship_58ったことはしていないのに、これまでの展開が入れ替わり、相手の方が大事なポイントでミスるようになりました。勝負の最後のポイントでは、本当に珍しくわたしのサービスがいい所に決まったのでした。これはあり得ることです。しかしこの時のわたしは、ただ単に「あり得る」ものでなく、「ことば」やタイミング的に見て、これは偶然とかあり得るだけのものではないことを感じました。答えられる祈りというものを、あらためて神が教えてくださったと思いました。


 神は私たちの心を、サタンのように、奴隷のようには従属させられません。ある意味では背くという自由意思というものを残しておいでです。そうでなければ「従う」という意味がありません。キリストですら、ゲッセマネでは父なる神に「できるものならばこの苦杯をとりのぞいてください」と祈られました。しかし神はなおかつ、私たちが自由意思で心から神に自分を捧げ、委ね、従う行いを喜んでくださるのです。私たちも、結果をもすべて主に委ねる祈りをする時、御心の祈りですから、神は受け入れてくださり、すでに叶えられ答えてくださることを知るのです。 (ケパ)

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