ケパとドルカス

『肝心なことは目では見えない』これは星の王子さまの友達になったきつねの言葉。

アルツハイマーになった母との思い出

2017年12月09日 | 随想
NHKでドラマ「たからのとき」を再放送していた。そのロケ地の村である福岡県東峰村は、この番組の放送1年後、この七月の集中豪雨で大被害を受け、美しかった山あいの村が見るも無残な姿になってしまった。しかし被災者たちは、泥の中から立ち上がって再建を始めた。その様子を演じた俳優たちが村人と共に語りながら「もう一つのたからのとき」と題して続いて放送していた。失われる時は、一瞬にして失われる、語りかけがあった。

ドラマの話に戻る。女優、寺島しのぶが主人公の物語で、『とうほう村テレビ』で住民ディレクターとして活動する室井たから(寺島しのぶ)には、秘密があった。制作する番組は村の思い出深い名所の紹介をするのだが、それは自分自身が若年性アルツハイマー症になり、家族と思い出を大切にするためであった。

アルツハイマーと聞くと、私は母とのことを思い出す。母が八十歳の頃に診断が出て、私は家族と離れ3年間、母と二人だけで暮らした。それはアルツハイマーという病気を、つぶさに知らされた3年間だった。その間は食事や家の整理など日々、「戦いすんで、日が暮れて」だった。

最初はさんざんカモにされていた訪問販売業者との熾烈な戦い。診断のきっかけになった近所とのトラブルは、私が謝って歩くと、泣いてくやしがられたものの、みなさん快く許してくれた。それが一段落つく頃、外出時には、何処の家の庭であろうとも母は雑草を抜いていた。つまり自宅との区別がなくなっていた。
困ったのは、ヘルパーさんが家に来ることを嫌がり始めたことだ。次第に泥棒扱いにしたり、恐れだした。次第に私が息子であることも忘れ、私が帰ってくると「どこの誰かさんでしたかいのォ」と、聞かれ始めたときは、正直参った。残酷な病だぁ、と悲しくなった。「アルツハイマー症だけには、決してなりたくない」という思いを当初は、強く持った。

しかし、記憶が無くなっていった母は、私が全く知らない子ども時代の娘に戻っていた。こんな子ども時代を過ごしていたのか、と母の発見もあった。私は記憶を失っていく母を見るのがつらかったものの、怒りや不安の状態から母は次第に落ち着き、私に依存するようになった。

施設に母が行くまでは、息子の私が保護者で、車に乗るのが好きな母は、どこにでもついてきてくれた。坊ちゃんの松山にも行ったりした。息子だとわからなくなっても、母は私を嫌がることはなかった。母がアルツハイマーになって一番癒やされたのは、母との関わりを再発見できたこの私だったかも知れない、とも思うようになった。
この番組を見て、当時のことをありありと思い出した。





ケパ




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逆境こそが人をつくる

2017年08月23日 | 随想
最近子育てに関して興味あることがわかった。
それは片親が相当問題ある場合でも、もう一方の親が、相手に咎を負わせず堪え忍んだならば、それを見て育つ子には最高の教育をしたことになるというものだ。
どういうことかと言えば、酒乱とか暴力に耐え、「自分に死んで」生きる母の生き様に、解決のできない悪に対し、強靱な愛の強さを学ぶからに他ならない。

逆に両親共が善い人であった場合、特別良い子できるかも知れない。が私は、教師というかつての職業上の経験から、かなりの心配をしてしまう。その子が悪を理解することができず、耐性も育ってはいないからだ。だから行き詰まった時に、適切な支援とか、特に子どもとはいえ信仰があれば、これは素晴らしい。人間的な成長というものは、意図的に教えられるものではない。経験し苦しんでこそあるものだから。

一例として私のことを書く。私はどちらかと言えば母がダメ母で、その母が一途に慕うのが父だった。ダメ母であっても、母が慕う父の生き様とその愛に、私は何とか道を反れずに育った?のだと思う。
成人してから、どうして自分の母があれほどわが子に対し無理解、無関心であったのか、ある程度分かるようになったものの、もし父が居なかったら、果たして私はどうなっていたのだろうかと思う。
この私の父親観、日々の祈りの「愛する天のお父様」と何の抵抗もなく、心から祈れている土台なのだと気づく。しかしダメ父に母の愛で育った方がいるとして、果たして「天のお父様」が抵抗なく祈れるのか、人間的には少し気になるところである。案外カトリックでマリア崇拝があるのは、ここら辺が原因かもと、思ってしまう。

ところがそんな理想的なように見える私の父は、決して幸せな育ちではなく、むしろ不幸だった。不幸があのような父にしたという、最初に挙げたパターンなのである。
父の父は郡役所の土木監督、建設行政の仕切り役だったから、連日芸者をあげての宴席接待三昧だったらしい。父の母はそんな夫から、梅毒をうつされて脳に達し、父の若い頃に死んでしまった。恥なので治療を拒否したと聞いた。父はこの悲惨さを肝に銘じていたようで、後年かなり高位の役職に就いてはいたが、ありがちな浮いた噂は何一つ生じさせなかった。

別な話もある。父が復員して帰った時、兄嫁は肺結核の末期であったが、夫を始め周囲の誰からも感染を恐れられ、誰も居ない家に一人うち捨てられた状態であった、しかし父はこの兄嫁を捨てては置けず、感染を恐れず献身的に看病して最後まで看取った。結局恐れていたとおり、看病した父までその結核に感染し、ペニシリンとかマイシンで一命を取り留めたが、後の生涯、肺結核の後遺症で苦しむことになった。この罹患のいきさつは、父の存命中に私は知ることが無かった話である。

こんな父だったから、町中の人々に慕われていたようだ。61歳余りで在職中に死んだ父の葬儀に、喪主として最後の挨拶に立った時のことである。広い境内をすべて埋め尽くした人、人の多さに驚いた。五百名以上、それ以上はもう数えられないという、小さな町が空っぽになるほどの参列者を私は前にしたのだった。

たとえ壊れそうな家庭であっても、理想的な家庭でなくとも、つらいだろうけども将来を悲観する必要はさらさらない。もし己を無にし捧げ、愛ゆえに踏みとどまって堪えるなら、その時には見えなかった報いは実に巨大なものである。
光がなければ闇がわからないのと同様、善だけでは何が善であるのかがわからないのである。神がサタンの存在を許容するのは、そんな理由かも知れない。げに、神の知恵は恐るべきことである。



ケパ






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都会か田舎か?

2017年07月05日 | 随想
イソップ童話の「田舎のネズミと町のネズミ」は、みなさんご存知だろうか? 童話では街暮らしを戒める内容だった。私自身は田舎育ちで、学生時代以降はほとんど街暮らしをしている。しかし教員時代には田舎暮らしもあったので、両方がわかる立場でもある。

都会人は、自然が好きである。こせこせしない広大な自然や別荘に憧れ、キャンピングカーとかでそれを実践する。確かに都内などの住宅環境を見るにつけ、それが分からないわけではないし、チョイ自然を堪能することは、都会人にはオアシスだ。しかしまた、まったくの都会人から田舎暮らしをうらやまれると、それは幻想を抱き過ぎていると感じることがある。

第一、広い土地があればどれほどその維持管理が大変か、まるで分かってないと思う。庭師を何人も雇える大金持ちならそれも良いが、例えば330㎡(百坪)ぐらいの敷地の家に住んで見るとよくわかる。少し広めだが、田舎ではよく見かける築山がある生垣の家である。

この程度の家でも、どんなに慣れても困るのは、雑草との終わりなき戦いである。ドルカスにはもっと広い庭があり、私にはかなりの耕作放棄地が周囲にあったので、草の伸びるこの時期はゾッとする。広い土地はこりごりである。加えて田舎はまさに自然が豊かなので蚊やゴキブリ、ムカデや毛虫などにも悩まされる。それに今晩のように大雨が降れば、都会ほど潤沢に金をかけて整備されない田舎は、その被害が大きいのである。都会人が自然を美しく思い、憧憬と癒しを感じるのは自由だが、田舎人は生活の場である身近な自然に対し、そんな感覚はない。

私のような田舎人が違和感を感じる典型的な例は降雪だろう。雪を美しく思うのは都会人で、降雪地方で暮らす人にとっては、『克雪』の季節の到来である。朝早くから家の前や道の辛い除雪作業が待っている。仕事に車で出かけなければならないが、雪や氷の路は職場に着くとそれだけで神経がすり減っていて、グッタリである。
いや、大人と違って子どもは雪合戦などできて楽しいだろうと思われがちだ。だが実際には子どもにとって、サッカーや野球ができなくなるのだ。


今都会に住んでみて、本当に都会のありがたみがよくわかる。特に船橋は関東でも雨や雪が特に少ない湾岸地域で、寒暖差の少ない暮らし易い地域だ。病院やお店は目の前で、車がなくても基本、自転車と電車でどこへでも行ける。
確かに住居は狭いが、家族構成が最小なので、狭さはむしろ掃除が楽、光熱費が安いと問題にならない。今はマンション住まいだが、近年では集合住宅にも法が整備され、トラブルはほとんど聞かない。マンションにはエレベーターがあって荷物運びに助かるし、建物内に駐車場まであるので、まったく雨に濡れないで行き来ができる。ただ一つ、空中住居のため植物好きな方にはベランダという制限がつくのが不満かもしれない。

けれども田舎暮らしには良くも悪くも、近所で共に暮らし助け合ってきたご近所さんという濃密な人間関係がある。これは実際に助け合いのメリットがあって、地域で支え合い生きる素晴らしさがある。ただ車の運転が出来なくなったら、田舎で自立して生きていくのは大変になる。
私が自分の田舎に行っていつも気になるのは、田舎に行けば行くほど、また年ごとに耕作放棄地が増え、元の山に戻って行くことである。道路だけは立派になっても、過疎化、高齢化で田舎が次第に山谷と化し、鹿や猿が跋扈して行くのを見るのは辛い。

さてさて、どちらが良いか、一概には言えない。結局、自分が良いと思うところが一番良いのだが。



ケパ




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反日と親日の間

2017年05月31日 | 随想
何日か前、テニスで知り合ったA氏と対戦後、珍しく語り合う機会があった。A氏は数年前まで、十七年間も中国で暮らして来たという。日本企業から中国に派遣され、長年現地責任者を勤めていた。

そこで彼に昨今のわが国との関係を聞いてみた。「国是のような反日前提はどういう訳が?」には、「彼らは本当に日本が悪いと思ってるわけではありませんよ。建前なんです。現に一般国民は親日です。けれども国内に多くの異民族を抱えているため、国としては国外に常に敵がいて、それをバネに国内の求心力を高める必要があるのです」と。
「隣国の日本をそのサンドバッグ代わりに使うって、問題の目を国民からそらし、隣国とも正常な関係を築けないわけで、立ち位置としては正しくありませんね。」「いやあ、その通りですよ。だから国全体に、一党独裁の階級社会、知る権利の無さなど正しくないことがはびこっています。汚職は当たり前です。不満を抑えるため、政府は常に国民に成長という分け前を配り続けなければ、実は危ういんです。」

中国の伝統的な外交政策は「遠交近攻」だそうだ。これは近くの隣国を攻めるために、その圧力として対象国のさらに外側、周囲の遠国とは仲良くすることだ。また隣国を常に敵にして、国内の問題から目をそらさせる効果もある。大陸的なこの発想に比べ、隣近所仲良くを願う日本はなんとお人好しなのだろうかと思う。もう一つの隣国も、落ち目の政権末期や選挙用に反日が目立つのも、同じような理由なのかも知れない。

逆に考えれば、国同士はたとえ敵対していようとも、民同士がそれに踊らされなければいいわけで、互いにリスペクトを持って親しく関わり合っていくことが大切だと思わさせられる。特にクリスチャンが天国で再会するならば、国籍も民族も全く関係ないのである。
そう言うわけで、国は国、人は人。隣人、隣国の個人的な方々との付き合いは、これまで以上に親しくして行きたいと思った。



ケパ





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過去と現在は別のもの

2017年05月22日 | 随想
英語の学びと、忘れかけている映画の記憶を取り戻すために、ベン・ハーを四十年ぶりかで観はじめた。映画では、忘れていたが、冒頭のシーンは幼なじみのユダヤの元王家のベンと、新たなローマ軍司令官となって赴任したメッサラとが感動的な再会を果たすシーンからはじまっていた。

この後、両者がどうなったか、不倶戴天の敵と化し、紆余曲折の末、最後の大スペクタルの戦車シーンに至る。それはキリストの生涯と重なり、また過酷な迫害に耐え、三百年後ついにキリスト教がローマの国教となったユダとローマの歴史とも重なる。私はこの冒頭のシーンを観ながら、自分のかつてのつらかった経験、今は感謝している経験を思い出していた。

二十五歳の時、三年勤めた会社を辞め、臨時採用の教師として、はじめて田舎のO小学校に赴任した。教育実習も何も経験していなかった私は、即刻教室に連れて行かれて指導書を渡され、「ではお願いします」と置いて行かれた。28人の子どもたちの前で、分厚い指導書はしゃべってはくれないし、大人の私は本当に何を言って何をして良いのか、呆然として立っていた。
助けてくれたのは子どもたちで、困っている私に、これまでどうやっていたのか教えてくれた。まるで立場が逆であった。
こうして誰が生徒か先生か、メダカの学校の先生となった若い私は、閑さえあれば、子どもたちと一緒になって運動場や裏山を駈け巡った。本気で子どもたちを追いかけて怒ったし、泣き笑いにつき合った。指導能力の無い教師への不満は、地域全体で教師を育てようとばかり、表向きになることはなかった。
1年後に学校を去る時には、こんな半人前のために学校と地域はわざわざ送別式をしてくれて、涙、涙で学校を後にしたことは忘れられない。

しかしこの思い出が素晴らしかったために、私は大失敗を犯した。
家庭事情のために出世を諦め、また母の介護に都合が良かったため、懐かしいO小学校を新しい転勤先に選んだのである。思い出にすがっていたのかも知れない。しかしそれは選択の間違いであった。
当時私は家族を失って心がボロボロであっただけではない、赴任してみてわかったのだが、このO小学校では不倫や誹謗中傷、保護者同士の対立がかつて経験したことのないほど深刻であった。もはや地域のまとまりは失われており、昔とは全く違っていた。

「石をもって追われた」とまではいかないが、結局失意の内に、わずか三年で転勤希望を出した。まだ霊的なことがよくわかっていなかった私は、みこころに聞き従って歩むことができていなかった。教師人生最初の思い出の地は、全くひどい結果を迎えたのだが、逆にこのことがその後の学びと経験に大いに役立った。成功ではなく失敗から、何がこの世で一番大切か、そのことが骨身にわかるものである。
クリスチャンは神にヨ拠り頼み、聞き従い、みこころの道を歩まなければ、この世の人間と何ら変わることはないのだ。

それと同時に過去は過去。決して現在までそれが変わらずに続いていると思ってはならない。現在は生きており、絶えず変動している。過去は自分のノスタルジー(郷愁)の中に存在していただけのものなのだ。ベン・ハーを観ながら、記憶をよみがえせながら、それを強く思わさせられた。過去は過去、しがみついてはいけない。

過去にしがみつく、と言う点では会社で管理職を務めて定年退職した方の中で、普通の人としてへりくだって生きることが難しい人がいる。いつの間にか組織の中で与えられた権威が、自分のものだと勘違いするようになっていたのだ。
私たちは皆、最後には神の前に出なければならない。その時、自分が行ってきたすべてが明らかにされ、罪、その中でも特に高慢さが裁かれる。十字架無しに、その裁きを突破することはほとんど不可能だと聖書は教えている。

時は移り変わるが、絶対に変わらないもの、それは神の私たちへの愛だ。悔い改めて十字架を信じ、神により頼む者は幸いを得る。移り変わりゆくものを土台としてはならない。


ケパ



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跡継ぎ息子と休耕田と国の無策

2017年05月17日 | 随想
私と同じように田舎から首都圏に住んでいる従兄弟が、田舎の田の草刈り作業をしに帰っている様子をFacebookにアップしていた。ちゃんと貸借契約しているのだが、都会に居る地主である従兄弟が草刈りをしに、ウン万円の交通費をかけた上、慣れない作業にいそしんでいる。
貸す方が草を刈り、整えて耕作者に提供する。何やら都会の賃貸マンションオーナーそっくりである。これまでの常識で考えれば実に奇妙な話であるが、しかしこれが今の田舎の休耕田の実態なのだ。(写真は本文と全く無関係だが、休耕田をシルバー人材でやるとこうなる。これを一人ですると大変。)

従兄弟だけではない、実は私もまったく同様に休耕田を持て余していた。休耕田は当たり前だが、湿った地、肥えた土であって、放っとけばものすごく雑草が生える。雑草にはたくさんの虫が繁殖し、隣の田や住居に迷惑がかかる。そこで最低でも年に春秋の二回以上は草刈りをしなければならない。この草刈りが大変な重労働で、草刈機でどう頑張っても一日半畝(約500㎡)ぐらいが限界で、草の状態によってはもっと少なくなる。
休日を利用してようやく刈り終えそうになれば、先に刈った所が生えて伸びており、また刈らなければならないという、本当にエンドレスの作業でもある。草刈りはかなりの人が腰を痛め、怪我をする危険な作業でもある。(下はグリーンの私の愛機)

こうなると土地の広いことは、ほとんど呪縛である。税金をたくさん払わなければならないだけではない、人生を果てしない草との戦いに浪費させられてしまうような気がするのである。春が来ると「ゾッとする」と言う感覚は、雪国の人の雪に対する感覚と同じなのではないだろうか。春や雪は、それを楽しみにしている都会の人にとって、これはまったく理解できない感覚だろう。(草刈りルック・・・・だいたいこんな格好で作業する。帽子に刃や跳ねた石が飛んでくるので目にゴーグルは必須、汚れてもよい服装で、滑らない靴をはく)

先ほどの従兄弟のように、今は高齢化社会であって、土地があってもそれを活用しようとする力、若さはない。今問題となっている高齢者のライフライン、車の運転さえ危ういのに、ましてきつく危ない草刈り作業はさらに無理である。だから従兄弟のような話になる。

都会の異常な地代に比べ、田舎の町は休耕田というよりこうした耕作放棄地であふれ、さらに少しでも奥に入ると、辺りはすでに山野に戻りつつある棚田ばかりだ。先祖が営々と築いた美田を守ろうと、タダどころか、多少なりともお金を積んででも(つまり自分がすれば、管理の草刈り費用などがかかるため)引き受け手を探すのだが、実際に借りてくれる人、耕作してくれる若い人はほとんどいない。都会に住んでいるので耕作に帰れない、頼めない、高齢で草刈り機も使えない・・・すると数年でかつての美田は山野に戻ることになる。 (下図。貿易の不均衡を責められると、日本はやむなく農業を犠牲にしてきた)

これは日本全国に見られることである。工業製品の身代わりに食料の輸入を増大させ、比例して効率が悪い日本の農業は衰退するしかない。水田は確実に減少し、自給率はぶっちぎり世界最低(日本27%)で、こんな国は人類の歴史上存在したことが無い。下でも触れるが、食という生存の土台をこんなにおろそかにしている国は、世界中でたった一つ、日本だけである。

実際に起こる可能性が高いのだが、もし世界的な地球環境悪化と天候不順による大飢饉が起こったりすると、自国民を飢えさせてまで食料を輸出する国はないだろうから、日本はたちまち世界一飢える国になるのは間違いない。おそらくそうなると、現在が自給率27%では国民の三分の一、数年続くと半分ぐらいしか生き残れないのではないか。

そうならないように国は、今でもかなり手遅れな休耕田活用の補助金を出すべきなのだが、未だ全くもってそんな声を聞かない。確かに今でも生活維持が困難な年金しか出せない国である。水田が減れば、米の価格維持のための補助金が減るからと傍観しているのだろうか。しかしこれは異常である。どんな先進国でも、自国の農業はきちんと守っている(フランス191%、アメリカ133%、ドイツ126%、イギリス122%)というのに、、、、。
ひょっとしたらこの国が、聖書が黙示録で預言している終末時代に来る、未曾有の大飢饉で苦しむ事にならなければよいのだが。まさかこの背景で、リバイバルが日本に来るのかも知れないのだが、凄惨なそれだけは避けてくださるよう、心から神に祈りたい。


ケパ



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大河ドラマの歴史性

2017年04月25日 | 随想
毎週日曜夜のNHKの時代劇を例年、観ている。そこで思うことは、この大河ドラマシリーズ、歴史上の人物を描くのが定番になっている訳だが、朝ドラだけでなく、近年女性を主人公に設定されることが多い。
その是非はともかく、一つの大きな問題は女性は資料に乏しいことがある。と言うことは必然的に、かなり創作作り話になる。

女性と言えば私は持統天皇や北条政子などがすぐ思い浮かぶのだが、いかんせん、それ以外は資料が乏しい。今年度の直虎に至っては、ほとんど名が知られていない一地方でのことであるし、しかも地元の調査会が昨年末に「やっぱり直虎は男であった」と結果発表をするなど、最低限の史実性すら根本から崩されているのだ。

一昨年度の「花燃ゆ」でも、長州藩の大奥に主人公である松陰の妹が入るなどと、あり得ない八面六臂の大活躍、荒唐無稽な設定がなされていた。
今年の直虎も、泥まみれになったり、「民を潤すことが第一」などと、現代の選挙で立候補借者が言うようなことを、あの時代いくら何でも言うはずの無いことを言わせている。封建時代とその支配の厳しさについて、あんまりにも脳天気過ぎるではないのか。
現今の民主主義について、人権について、我々がどれだ多くの犠牲を払いながら現在の形に到達して来たのか。正しい学びが必要であると思わさせられた。

確かに資料がなければ創作するしかない。けれども、だからと言って歴史性を無視し、単なる面白さだけを追求しては、それでは大河ドラマとは言えないはずだ。むしろ、創作ドラマだと割り切った方か、よろしいのではないかと思う。

ケパ

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桜とモクレン、散った花びら

2017年04月21日 | 随想
桜の季節が終わった。(上田市玄蕃山公園)桜は散る時すら賞賛される。チェーホフは狂気と表現したが、見る間にはらはらと散る様は、「花吹雪」と称されて実に美しい。その花びらで埋め尽くされた水面や地面を見る時、惜しむ気持ちが高まるのはどうしょうもない。
(上田城址公園の堀を見下ろして)

下写真は上信越道の横川SAで)

しかしほぼ同時期にモクレン、その散り様は桜と違って、潔(いさぎよ)くなく
「花は見るからに堂々として美しいのに、散る時はだらしない様に見えて。」とドルカスは感じるようだ。

潔いとはこの場合、桜の散り様のことで「執着しないので、すがすがしい」と感じることのようだ。しかしモクレンは桜のように一時に散らず、花吹雪どころではない、「落ちたくない」とばかりタラタラと落下するので、どうにも「だらしない」と映るのだろう。

確かに潔いとは日本人の美学のようである。武士道ではもちろん、太平洋戦争末期、島々で日本軍が絶望的なバンザイ攻撃を繰り返したのも、散り際の見事さと通じる所があるのではないか。

ところで私は桜の潔さはもちろんわかるのだが、モクレンのしがみつきに、「だらしない」とまでは感じない人間だ。モクレンには次の様な思い出がある。

まだ家族でいたふた昔前の教員時代、春と言えば送別会、転任者歓迎会が続く懇親会のシーズンであった。(※その頃はクリスチャンであっても、まだ酒を飲んでいた)
そんな宴会が済んで、酔ってのしんどい帰り道、なぜかいつも一本のハクモクレンの木の下で一息つくことが多かった。白い花びらの下でしばらく休んで一息つき、やおら酔眼で見上げると、夜目にも鮮やかな白いモクレンの花を、私は忘れることができない。
美しさも親しさも感じないモクレンではあったが、まるで燈火の明かりのような白い花の下で「自分はいったい何をしているんだろう?」と空しく喜びの無い人生であることを痛感させられた。自宅に帰ることが、むしろ苦痛であったからだ。だからモクレンの木の下から再び歩き出す時には、さらに重い鉛入りの靴に履き替えた様な足どりであった。

今は酒は飲まないし、そのような空しさや孤独を感じることはない。心から幸せだと思う。ただ、真の神と出会うまでの私を、モクレンが思い出させてくれるのだった。



ケパ




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自分が一番わからない

2017年03月31日 | 随想
むかし昔、今ではお手軽な写真も、カメラとフィルム、撮った後も現像とか焼き付けという手間がかかっていた時代。その時代、録音の方も今よりもっと手間だった。動画に至ってはもう、別世界であった。(写真は当時の録音機)

そんな昔の話で恐縮だが、確か私の中一時代、初めて録音機なる物が我が家にやって来た時の事である。現代ではiPhoneなどでいとも簡単に録るが、その前のカセット、さらにその前のオープンリール式の時代である。テープをセットする操作は難しく、機械は超どでかい物だった。操作していると時々テープが斜めになったり、引っ張りにぶつ切れたり伸びたり、モーター回転数の変化で再生音がふにゃふにゃになったりと、とにかくいつもハラハラドキドキだった(笑)。
(その難物、当時の磁気テープ)

しかしこの録音機なる物が忘れもしない、私の自己嫌悪というか、コンプレックスの始まりだった。つまりトラウマものである。なぜか? 自分の声を知ったからだった。初めて再生音を聴いた時、「これっ、誰〜?」と感じた。言葉は先ほどの自分の言葉を確かに言ってるのだが、声がいつも聴いている自分の声と全然違う!
はっきりしない発音に、語尾がフニャフニャとする癖。「なにニヤけてしゃべってる声なんだ、イヤーだ」と。断固拒否! これは僕の声ではない!と。

とまぁ・・・しかしこれは、どう否定しようにも、次第に受け入れる事しか無い厳然たる事実だった。最近詳しい友に聞くと、私たちは自分の声を耳で聞いているが、骨伝導でも聞いているらしい。だから自分の声が違って聞こえているらしい。

客観的な声でこれだから、実は自分の人格とか特徴などは結構自分が一番分かってないことがある。むしろ自分以外の人の方が良く分かってることが、なんと多いことだろうか。「自分のこと、人が分かってくれない」のではなく、謙虚に人の忠言に耳を傾けること、それが成長する元だ。

また、ありのままの自分を受け入れる受け皿がないとやはり、人の声も耳に入らないし、受け入れることは困難だ。最悪、自分は価値がないと、自殺にまで思い詰める可能性がある。その点、クリスチャンは神に自分を捧げ、明け渡しているはずなので、きちんとそれができていれば、信仰がさらに深められて行くはずである。十字架のキリストの愛によって、取るに足りない我でも、徹頭徹尾、愛され受け入れられているからだ。ここに真の救いがあり信仰の恵みが現される。
(海老川河畔の桜も、少しずつ咲き始めました)

クリスチャンは自殺しない。確かに肉の心死ぬが、代わりに神の霊に満たされ、天への希望に溢れて生きるからだ。hallelujah❗



ケパ








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アルツハイマーの母との思い出

2017年03月21日 | 随想
数日前の夜、ドルカスと話していて、急に母のことを思い出した。
母はちょうど二年前のこの時期に亡くなった。母は長く一人住まいで、亡くなる十五年ぐらい前からアルツハイマーを発症していた。 その診断があって後、しばらくすると近所や介護支援専門員からの相談やら苦情、協力の要請が子である私の耳にも届くようになった。
ちょうどその頃、私は妻の病のために家族と別居することになり、それを機に私は母の介護を兼ねて実家に戻った。望んでではなかったが、こういう成り行きで母との同居生活が始まった。

同居してすぐ分かったのは、母が高額な訪問販売の餌食になっていた事だ。それもアルバム制作販売、全く必要の無い大量の座布団や布団販売などなどであった。はじめ、彼らは私の顔を見るなり母との契約をたてにして、けんか腰というか、いい加減な書類を見せ、脅してきた。応じないと私の職場まで押しかけるとも言ってきた。

大学を出て、社会人として会社勤め始めた三年目、私は営業に回され、そこで得難い経験をした。ある時、上得意様優先のしわ寄せで、少しだけ納期遅れとなった製品を零細な得意先に届けた。ままある程度の遅れであっても、店主が木刀を持って出てきたことがある。

だから私は、この程度で怯むことはない。かえってファイトを燃やし、あらゆる対抗をした。先ず診断書を見せ、アルツハイマー症ゆえの責任能力欠如により契約無効と、親権者代行としての破棄を通告した。応じなければ警察や消費者センターへ、老人を狙う悪辣な業者として訴えるぞ、出る所へ出て行こうじゃないか、と逆襲した。何人かとこうしてやりあったが、結果として一円の金も払うことがなかった。するとまるで潮が引くように、鴨リストから外されたのであろう、彼らは全く来なくなった。

数年後、葬儀の席で久しぶりに会った従兄弟も、私の経験と同じようなことを言っていたので、独居老人を食い物にする悪徳業者について、どうにかならないものだろうか、と思った。田舎に親を一人置いている方、注意して下さい。

ところで本題は、母のアルツハイマー症のことである。
またしても私の慣れない家事が始まった。妻の入院中にも短期間、家事をしたが、今度は遅く帰るとお腹を空かせた母が待っていた。火事を恐れてガスの元栓を締めるなどをしたためである。
1年経つと病が進行し、母は息子の私を「秀樹やぁ」と名を呼ぶことが少なくなって、私の名をすぐ下の弟の名(私にとっては叔父)で呼んだり、最終的は実父の名で呼んだりする記憶の混濁が進行した。
夕食は茶碗をはしで「チンチン」と叩いて催促する。外を歩くときには私のズボンのベルトに手をかけ、それで付いて行けるという感じだった。私は母の保護者になっていた。

そうしたアルツハイマー症の進行の速さに、私の情緒の方がついて行けない感じだった。子なのに、親のようになってしまった立場に戸惑った。「母の、こんな姿を見たくなかった」とか、「人間の尊厳を奪う、何て恐ろしい病なんだろうか!」とどうしようもない怒りとかが、話す相手もいない中、一人頭の中をぐるぐる行き来した。

結局母との同居生活は二年と少しだけで、突然のように病院へ、ホームへと母が落ち着くことで終わりを告げた。見るに見かねた?ケアマネたちの配慮であった。「解放された!」と思ったのもつかの間、私は家族を失った喪失感に今回もとらわれた。子どものようになった母でも、いつの間にか居ることが私の生き甲斐にもなっていたのだ。
(施設暮らしにも慣れた晩年の母)

この後、田舎の実家でのひとり暮らしで、私は本当におかしくなって行くことになった。そのどん底で悔い改め、神を知り体験することになったのだが、それはまたの機会に譲りたい。


ケパ







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