《心の貧しい者は幸いです》とマタイ5章3節で、イエスは公生涯の第一声を上げられた。心の貧しい者とはどういうことだろうか? 

私は田舎の高校生一年生の時、どうしてもキリスト教に触れたくてこっそり通った伝道所、そこでこの御言葉を聞いた。その瞬間、雷に打たれたような気がした。「よくは分からないけど、(仏教と少しの神道しか知らなかったが)ぜんぜん違う宗教で、これこそ真の神だ」とわかった。「神でなければ、こんな言葉は出てこない」とも。
その時から半世紀あまり経った。「心の貧しさ」とは、自分というものがどんなものか、それを(神によって)知らされ、わかっている人の言葉だということ。ある方は、「潰されて内臓がはみ出たゴキブリ」とか、またこの私が「肥だめである野壺の中のウジ虫」と自称するのは、決して見え透いた謙遜からではない。本当にそう思っている。
ありのままの自分を肯定することが流行っている。けれどもそれでは100%地獄行きである。ただただ、十字架の神の哀れみによって救われただけの私である。
そこから見えてくるのは、心の貧しさの自覚は、献身の動機と同義語であることだ。 つまり自分に希望がないならば、神に救いを求める。神に自分を捧げることが可能だ。絶望が、献身の土台なのだ。
イエスは皆に言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。(ルカの福音書9章23節 ©2017)