


最近、NHKの朝ドラ「まんぷく」効果で、ドラッグストアやコンビニでも日清食品のカップヌードルが、ここぞとばかりセールされている。日清はテニスをとことんサポートしてくれているメーカーなので、私も「何買おーかなぁ」と同調している単純さ。
この折りも折り、昨日、スーパーでこんな物を見つけてびっくりした。ズバリ!現在、世界テニス界ナンバー1の大坂なおみをカップにモロ印刷している。(普段のカップヌードル容器と比べて)
このV2とは、四つあるグランドスラムの内全米、全豪を立て続けに連破していることを示している。スポンサーとして報われた日清の喜びが伝わってくる図柄だ。
早速喜んで買ったのでした、ハイ。
ケパ
昨今はトレーニングセンターとかジム、フィットネスクラブばやりである。皆さん、健康に気をつけられ、一生懸命に頑張っておられる。そんな中、ジムで知り合った一人の80歳代の方、その方は非常に熱心にジムに通い取り組んでおられた方だったが、この方に関しての話を聞いた。
その方は常に自信に満ちて前向きな姿勢であって、知人は感心しながら見守っていたようだ。ところが突然、自分に次のようなことを話し出した、と。
「自分はもうダメだ。メガネをどこに置いたかすら思い出せなくなった。そんな生活に必要なことすら忘れてしまい、思い出せなくなった」と。そして急速にあらゆる事に対しやる気を失い、ボーっとした虚脱状態に落ちいっておられるようだ、と。その激変ぶりに周囲の声では「もう寝たきりになるかも」と心配の声が上がっているようだ。
私も半世紀近く、ずっとテニスを愛好しており、ゲームを始める前には、先ず自分自身を信じなければ勝利はおぼつかない事や、次にどんな不利なゲーム展開になっても、最後の1ポイントまで諦めないで全力を尽くすことを心得ている。その諦めない事で、実際、幾度も大逆転を経験して来ている。そんな時ほど格別な喜びが湧いて来るものだ。
話に伺った80歳前半の方は、このセオリーを忠実に生きて来られた方だと私は思う。聖書のあのパウロだって、実は若い頃には競技をしていたスポーツマンだったと思っている。再々そんな言葉が聖書に出て来るからだ。
【競技をする人は、あらゆることについて節制します。彼らは朽ちる冠を受けるためにそうするのです】と。これはやったことのある人の経験談だ。パウロは続いてこれを援用し【が、私たちは朽ちない冠を受けるためにそうするのです】と巧みに信仰に繋いでいる(1コリ9:25)。
話が脱線したが、どんなに自分を信じたくても、加齢による衰えは容赦なく襲って来る。トレーニングは維持することで精一杯、長期的にはそれも限界がある。そこで分かってくるのは「肉は遅かれ早かれ必ず滅ぶ定め」という肉に頼るものの絶望である。世の人々はこの世のいのちしか希望がなく、鍛錬していた肉体からではなく、意外や脳の方から希望が絶たれると、こんなにももろく、その自信も希望も打ち砕かれて崩れていく。
それに比し、私たちクリスチャンは体が古びて衰えれば衰えるほど、新しくされる御霊の体の希望が溢れて来る。今度は本物で、永遠の素晴らしい体なのだ。
もちろんそうは言っても、今預けられている体も、しっかりカーブスとかに行って、体の良き管理者として、持てる限りその体を健康に維持して行くことが御心であるのは当然だ。この世で受けた使命を果たすために!