『獄門島』に続いて『本陣殺人事件』を読みました。というか、横溝正史全集を読んでいるんですけれどね。
すっかり横溝さんの文体に慣れてきたのか『本陣殺人事件』はおもしろく読めました。
もともとネタはわかっていて読んでいるので、その分おもしろみは欠けているんでしょうけれど、そのかわりより深いところまで読むことができるのかもしれません。
さて、今回も出てくる人はびっくりするほど死んだ(殺された)人に冷淡なのがびっくりします。
金田一のパトロンの久保銀造なんて自分の姪が殺されたのに謎解きの方に夢中になっています。
今回おもしろく感じたのは、金田一がもっともわかりたかったことは犯罪のトリックではなく、なぜ犯人がそういう犯罪を犯したかということなのだということがわかったからです。
そして今となってはばかばかしいとしか言えない犯人の動機が、金田一の説明を聞くと思わず納得してしまうのです。
さらに潔癖症の犯人なんてまさに現代の病理を先取りしているように感じます。
そういう病をメインテーマにすれば『本陣殺人事件』を映像化しても現代に共感を呼ぶ作品になりそうです。
横溝正史の『獄門島』を読みました。
横溝作品を初めて読みましたが、予想に反して軽い文体なのでびっくりしました。
美人3姉妹の連続殺人事件なのにちっとも暗くないし、おどろおどろしいところがまったくないのです。
いったいテレビドラマで感じたあの怖さいっぱいの世界観はなんだったんでしょう。
それとも子どもの頃読んだらやっぱり怖かったのでしょうか。
今となってはわかりようがありません。
戦後すぐの時代背景なので、人が死ぬ、殺されるのはあたりまえだったのでしょうか。
もともとドラマを見て犯人がわかってて読んでいるのもよくないんでしょう。
犯人を知らずに読みたかったなー。
そして指紋などの科学捜査が何もなされていないのも、今から見ると違和感がありました。
つりがねだって本鬼頭の蔵から運びだしたら、誰かが気づくだろうし、金属と大道具の紙か布かの違いなんて見たらわかるでしょうにね。
それに子どもの頃は3つの俳句がよくできているなーと思っていましたが、今見るとなぜこの3つの俳句が選ばれたかわからない、せめて芭蕉なら芭蕉で統一したらよかったのに…と思いました。
最後に本鬼頭の後継者となり全財産を手にした早苗さん、彼女はきつい性格なのだとの記述もあり、真犯人は彼女なのではないかとの疑惑を読者に与えつつ、物語は終わりました。これこそ横溝ミステリーの醍醐味なのかも。
堀和久著 新人物往来社 1990。
仙厓という人物を知るために、てっとりばやく図書館にあった本を読みました。
小説なので、どこまで事実で、どこまで創作なのかわかりません。
ただ、おもしろくて2日で読んでしまいました。
そのあと高ぶったせいか、なかなか寝付けず、睡眠時間を減らしてカゼを悪化させたかもしれません。
仙厓さんは若いころ、放浪の旅に出て、何度も死にそうになったり、自ら死のうとしたりしてようやく若き日のぎらぎらを落ち着かせることができます。
そのあたりが、読んでいて共感するというか、身につまされるところです。
さて、仙厓さんって誰かに似ています。
それは「男はつらいよ」の寅さんです。
寅さんもいいおじさんになるまで故郷には帰りませんでしたが、仙厓さんもこだわりがあって故郷にも、元いたお寺にも帰れません。
しかし、あるとき悟るものがあり、ようやく元いた場所に素直に帰ることができたのです。寅さんもそうだったんでしょうね。
女性に強く惹かれてしまうところとか、仙厓さんの若いころと寅さんは似ています。
仙厓さんはついに福岡の偉いお坊さんになりますが、寅さんはフーテンのままなのが違うところと言いたいところですが、実は寅さんはテキヤ世界では仙厓さん並に偉い人になっているので実はやっぱり似ているのです。
この本が宮脇作品の中で異質なのは写真が数多く挿入されているということです。
もともとの原稿が山岡荘八全集のパンフレット用だったということもあり、各章があっさり書かれているという印象です。
後年、宮脇さんが頑なに自著に写真を載せるのを拒否したのはこの本の出来の悪さ(写真に依存し過ぎている文章?)によるのかもしれません。
宮脇さんは作家であり、編集者であり、書評家でもあったので、自著に対する評価も冷静にしたことでしょう。
後の「古代史紀行」「平安鎌倉史紀行」「室町戦国史紀行」のルーツ、ネタ元がこの本にあったことがわかりました。
そしてこの本があったから「室町戦国史紀行」で日本通史の旅は終わることができたのかもしれません。
日本文学史と絡ませた汽車旅の追想記です。
松本清張、太宰治、宮沢賢治、夏目漱石の汽車旅に触れています。
そして、宮脇俊三と内田百閒についても言及しています。
上記の4人についてはくわしくないので、そんなものかなとおもしろく読めました。
宮脇俊三については私がすでに知っていることがそのまま書かれているという感じ。
内田百閒についてはちょっと否定的に書かれていて、そうじゃないでしょう大切なことはーと思いながら読んでしまいました。
自分が知らないことについては従順に受け入れてしまいましたが、松本清張ファンや太宰ファンが読んだら、私と逆の感想を持つのかもしれません。
私の抱える内田百閒の謎は、どうやって最後の妻こひさんと知り合い、一緒になったのかということ。
このことについて、書かれた文章を見たことがありません。
「内田百閒は汽車好きというより戦前好きである。」253pにはまったく同意できません。
「内田百閒は汽車好きで最上(一番)が好きである。」と書くべきです。
内田百閒は縛られることが嫌いで自由でありたい人なのです。
原則主義者で一度決めたことは変えない人なのです。
そして、生き方がものすごく下手で、文章がものすごく上手な人なのです。
ソナホークほしい病が終わり、古いラジカセほしい病も落ち着き、トキマもそこそこ集まり、今これがぜったいほしいというものがありません。
そうなると、落ち着くかというとそうでなく、さびしくなります。
韓国ドラマも見たいものがなく、こちらも停滞しています。
で、何か足りないものはないかなーと考えたらありました。
かつて古本屋でいくらでも並んでいた宮脇さんの本は最近ほとんど見かけません。
宮脇さんの文庫本はかなり集めたのですが、まだ手にしていないものがありました。
それが「徳川家康歴史紀行5000キロ」(講談社文庫)です。
本自体はかつて図書館で借りて読んでいます(単行本の書名は「徳川家康タイムトラベル」)ので、必至に探すほどではありませんでした。
最近ヤフオクで見かけ、誰も入札していないので落札しました。
本体180円送料164円計344円でした。
今日届いたので、読みはじめます。
内容はほとんど忘れているので楽しみです。
結局、初版を買いました。
増補改訂版と比べてみました。
初版は16.5×16.5cm、増補改訂版は21×15cmです。思っていたより初版は小さかったです。
掲載しているラジカセの数は初版が128点、増補改訂版が148点です。
初版にはAIWA TRP-101、SONY FX-300が載っていません。
増補改訂版にはラジカセのカタログ集が付録についていました。
また、本の形のため、初版では横置きのラジカセが増補改訂版では縦置きになっていることがあります。
DVDと初版本はデザインが共通なのでコレクションとしては初版も買いだったと結論しておきましょう。
松崎順一著.立東舎.2016
おもしろかったです。
モノのカタログ+ちょっとした通コメントだけの本なのに、今では松崎さん以外誰も書きようがない内容なのです。
で、メタルスイッチのラジカセがものすごくほしくなりました。
そして、次は「ラジカセのデザイン」の初版本でも買おうかと思いましたが、内容はあまり変わらないでしょう。
そこで本ではなく同じタイトルのDVDを発注することにしました。
アマゾン、ヤフオク、楽天で最安値を探したところ、楽天で発注しました。
最新版を読んだあと、比較するために旧版を読んでみました。
ほとんど変わらないみたいと思ったら違いがありました。
テロダクティル号の持ち主について「鳥きちがいのひとりだよ」という表現が出てきてちょっとびっくり、最新版ではどうなっていたか見てみると「鳥マニアの一人さ」となっていました。
当時は「マニア」なんて都合のいい言葉は巷に浸透していなかったんでしょうね。
なぞの鳥の名前も旧版は「大オオハム」、最新版は「ハシグロアビ」になっています。
どちらにしてもなじみのない名前ですけれど「大オオハム」の方がなぞの鳥っぽく感じます。
そして、もちろん旧版は「土人」、最新版は「原住民」です。
二回も読めば、しばらく記憶に残るかな。
そして、また忘れたころに読み返すことにしましょう。
ランサムサーガもこの本でおしまいです。
しかし、以前読んだはずなのに内容がまったく記憶に残っていなかったのがびっくりです。
鳥のことにあまり興味がなかったからか、この本ではあまり航海していなかったからなのか、とにかく印象が薄いんでしょう。
それに食べ物ネタも少ないし、子どもたちが食べ物に夢中になるほど子どもでなくなり、大人になりかかってしまったということなのでしょうか。
解説で佐々木さんという方が、子どもたちの中の最年長者であるナンシイの置かれた立場について言及しています。
彼女は子どもから大人になる境目にあり、二度と戻れない子ども時代を惜しんで、シロクマ号の航海をした休暇を終わらせたくないのだそうです。
まさに女性の視点から見たランサムサーガ評論です。
私はそこまで感じることはありませんでした。
たぶん、ランサムの筆力の衰えがナンシイの気持ちに反映しているのかもしれません。
お話も唐突に終わっています。
登場人物が成長する物語において、子どもが大人になるとき物語は終わります。
そして、ランサムが愛しすぎたキャラクター「ナンシイ」や「ジョン」を外して、新たな登場人部や物語を創造するエネルギーはもうランサムには残っていなかったのでしょう。