小野沢滋・みその生活支援クリニック院長 の書かれた毎日新聞の記事をそっくりそのままいただいてしまいました。素敵な記事だったので、駄目だったら教えてくださいませ。素敵なお考えを広めたいと思っているのみであります。
京都で非常に驚くような事件が起きました。筋萎縮性側索硬化症(ALS)にかかり安楽死を望んでいた女性に対して、ソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)で知り合った医師2人が致死的な薬剤を投与して死に至らしめたというものです。この原稿を書いている7月24日の時点での報道によれば、SNS上で安楽死を求める女性の書き込みに対して医師は、訴追されなければお手伝いします、と返信し、100万円を超える金銭授受もあったとのことです。また、医師の一人は宮城県で緩和ケア病床のあるクリニックを運営していたとのことです。今から15年ほど前、ALSの患者さんから「もし、意思疎通できなくなったら人工呼吸器を外してほしい」と要望書が出され、当時勤務していた病院の倫理委員会で討議した日々がこの前のことのように思い出されました。
延命は倫理に反する、との結論に達したが……
当時、倫理委員会は、残された機能を使い前向きに活動してきた本人の強い意思があるのに、本人以外の考えで人工呼吸器を外さないのは、むしろその方が倫理に反するという結論に達しました。しかし、院長と私とで、法曹界や検察OBの方たちと面談した結果、主治医の私が刑事告発を受ける可能性を否定できませんでした。院長としては容認できないということになり、人工呼吸器はつけたまま、社会の議論の成熟を待つ必要があるとの判断に至りました。報告書には、本人の意向や、機器の発達を含め、周囲の状況は変化する可能性がある、と盛り込みました。
倫理委員会の議論の結果について患者さんに報告したところ、ご本人の意思は変わりませんでしたが、「一緒に考えてくださる方がいてありがたい」と言われたことを覚えています。
その後も病院側は患者さんの意思を確認し、時期が来たら改めて再度倫理委員会に諮ることにしていましたが、その患者さんはその後10年以上の天寿を全うされ、今年亡くなられました。
この方は何事にも前向きに、ALSという病とともに生きた方でしたが、中にはそういった生き方を望まず、人工呼吸器をつけずに亡くなる方が数多くいるのも知っています。現実に今も、人工呼吸器をつけない選択をした方たちを数多く、在宅の現場で診療させていただいています。彼らも彼らの家族も苦悩し、最期を迎える方が少なくありません。今回の京都の女性患者さんの心情もわからないではないのです。
命を自分一人でどうこうできるのか?
私が、先の患者さんから人工呼吸器を外してほしいと頼まれ、倫理委員会で問題ないと結論が出た頃、NHKのテレビ番組でも、この倫理委員会の議論が取り上げられました。そのときにさまざまな先生からいろいろな意見を伺うことができました。特に仙台市で人工呼吸器をつけた患者さんを数多く診ていらっしゃる先生の言葉は強く記憶に残っています。
「人は一人で生きているわけではない。みんなつながって生きている。だから、命は自分一人でどうこうできるものではないのだ。なぜなら命はそれだけで大切なものなのだから。そして、私たち医師は、患者さんに“あなたに生きてほしい”と強く伝えるべきなのだ」。この言葉は本当に心に響き、今も私の胸の中で教訓として生きています。「患者さんたちが負い目なく生きられるような社会を作ることが私たち医師の務めだ」とも言われました。私もその点は大いに同意します(それでも私は、一定の条件を満たすのならば、患者さんの「治療をやめたい」という希望に従うべきなのではないかと考えることもあります。ALSという難病とともに生きるという人生を、私たち人類を代表して背負っている方たちには、それぐらいの特権が許されるべきではないかと思うからです)。
障害者殺傷事件に通じる背景
今回の事件の問題点はいくつもあります。実際、司法関係者が指摘するように安楽死の要件を満たしているとはいえず、嘱託殺人です。
参院文教科学委員会にパソコンを用いて臨む「れいわ新選組」の舩後靖彦参院議員。筋萎縮性側索硬化症(ALS)の当事者として、京都のALS患者が殺害された事件で「死ぬ権利より生きる権利を守る社会に」とのメッセージを公表した=国会内で2019年10月29日、川田雅浩撮影
まず、治療の差し控えや中断ではなく、薬剤投与による致死であった点です。これは、積極的安楽死に当たり、少なくとも今の日本では認められていません。安楽死を認めている国でも、その対象となる状態や手続きには厳しい制限が課されており、行う医師は資格が必要とされています。
もう一点は、今のところ、京都で亡くなった女性の主治医と、薬剤を投与した医師2人との間に接点が見られない点です。宮城県の医師が女性に、自分のクリニックへの転院を勧めていた点にも非常に怖さを感じます。
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そして、事件の背景として、支援を受けながら生きる人たちを社会にとって無用なコストがかかるだけの存在だと考えている人たちが少なからずいることも関係するのではないでしょうか。2016年に神奈川県相模原市の障害者施設「津久井やまゆり園」で入所者らが殺傷された事件にも通じる考えです。
私自身は、障害があったり病気だったりして人の支援を常時受けなければならない人たちも、社会でそれぞれの役割を果たしていると思います。そうした人たちの存在によって、この社会が成熟していることを思うと、つらい役割を引き受けてくれている、私たちの代表だと考えられます。患者さんたちは、介護されることを全く卑下することはないし、むしろ胸を張って生きてほしい、社会で最もつらい役割を担っていることに誇りを持って生きてほしい、と思っています。
生きることに負い目を感じさせる社会
医療・介護にかかる社会保障費の増大は高齢社会の課題として度々取り上げられるので、甚だ不謹慎な例えではありますが、お金の流れを例に考えてみましょう。
ALSの患者さんが1人暮らしをするため24時間体制で介護者を手配しようとすると、年間で2000万円近い医療費と介護費がかかることもまれではありません。その結果、何が起きるかといえば、その地域の医療・福祉サービスの供給体制は確実に成熟するのです。
医療や介護を常に必要とする人の尊厳をいかにして守るのか、という経験は、他のもっと多くの弱者の権利を保護するための知見になります。そのための費用が年2000万円であれば非常に安いと考えています。
最近、サービス業としての介護と観光の違いを考えることがよくあります。観光は直接商品を生み出すわけではありません。魚をとるわけでもなく、工業製品を生産するわけでもなく、そこから生まれるのは、お金の流れと旅行客の心に残る記憶に過ぎません。観光では多くの人がお金を使い、電気やガソリンなどが消費され、輸入品が6割を占める食料も消費されます。外貨という点では、国内旅行の推進は対外収支で見れば負になるかもしれません。
介護もほぼ同様ではないかと思うのです。介護が観光と違うのは、お金の流れの間に行政機関と税金が挟まるところだけではないかと。ALSの人が家族の無償労働に頼らず1人暮らしをすると、社会に年間2000万円分の介護サービスの需要が生まれます。需要が生まれるということは、誰かが2000万円分の介護サービスを供給して収入を得るということで、全く悪いことであるはずがありません。大いばりで介護を受けるべきなのです。
もちろん経済的な面だけではありません。今回の事件で多くのALS患者さんが意見を述べているように、人間の命や、医療のあり方について、当事者だからこそ得られた知見を私たちに示してくれています。政府は「Go Toトラベル」キャンペーンを打ち出し、景気を刺激するため観光に出かけるようにと旗振りをしていますが、高齢者介護や障害者への支援となると、社会的にコストがかかるという負の側面で語られることが多いのが不思議でなりません。
そして、残念ながら、その負の側面だけに注目する人たちが医師の中にも存在することは確かです。誰もが大いばりで介護を受けられる社会になればいいなと思いますし、何より患者さんたちが負い目を感じないように何とかできないだろうかといつも考えています。
普通の市井の医者は、負の側面だけに注目したりはしておりません。でも、ご家族の負担などを考えると、どうしても負の側面にも目が行きます。そこに目がいかないようにするためには目が飛び出るほどの費用が必要になるでしょう。
誰もが大威張りで介護を受けられる社会・・・・働き手の大多数がロボットにならない限り、実現しそうにないです。
私たちは時代の流れの中で生きています。流れは少しづつ変化していきますが・・・残念ながら急激には流れは変わらない
社会が歓迎していないから、死を選ばざるを得ないのだという意見にも十分汲むべきところは大きいとは思うのですが・・・・私は、基本的には、ご本人の意思を尊重すべきだと思っております。
その時に死にたいと思ったかもしれないけれど、3年後、5年後には生きたいと思っているかもしれない。 そうかもしれませんね。でも、その時の思想が、その方の個人の在り方存在じゃないですか。
生き続けたいものの身勝手で、死にたい方の意思を「その時の思い込み」だとか、ねじ曲がって捉えないほうが良いと私は思います。
一時の思い込みではないという事を確認出来たら十分じゃないですか?
自死をあくまで認めないと言う人は・・・認めたくないのですよ。多分、自分が将来死ぬことを実感できていないのでしょうね。 私には、そう思えます
Elton John - Your Song (Top Of The Pops 1971)