命のカウントダウン(健康余命3605日)

トレッキング、カメラ、陶芸、スキー、釣り、カヌー、遊びなら何でも大好き。仕事も好き、時間がない!

高校の週休3日 後日談 決死の砂消し大作戦!!

2023-07-05 16:36:10 | 思い出
高校生の頃、自分勝手に週休3日制にしていたと言う話をしました。
後日談があります。

高校3年の最期になって重い風邪をひきました。多分インフルエンザだったのでしょう。
40度近い熱が出て、流石の頑丈な私も、身動きできなくなりました。
週休3日どころか週休7日すなわち一週間ベッタリ休んでしまいました。
それで・・・・・緻密に?計画していた週休3日計画が破綻!
すなわち出席日数が足りない事態に陥りました。
その頃の文部省の定めでは、出席するべき日数の2/3の出席が必要と定めてあり、私はその規定に抵触して卒業できない事態に陥ったと自己解釈しました。

それで、何とかせねばと職員室を訪問したのですが、普段ろくに学校にも来ないやつが職員室に入ってきたら、先生方は非常に警戒されて・・・鋭い目線の中でお願いすることも何もできずじまいでした。

それで、作戦変更。強攻策をとることにしたのです。
出席日数が足りなくなった先生の授業の時に席を代わってもらって、教壇に直面した席に陣取りました。
そして、先生が板書されている隙に作戦開始!!
画数の多い漢字を板書されている隙に教卓の上に置いてあった出席簿を素早く抜き取りました。

そして、机の下で砂消しゴムで欠席の斜線をせっせと消し去り・・・
再度黒板に向かわれた隙に出席簿を教卓に戻しました。
心拍数200を超えていたと思います。本当に心臓が飛び出して行きそうでした。

その後、何とか無事に卒業できたのですが、砂消し大作戦が功を奏したのか、先生方が大目に見てくださったのか、今となっては分かりません。50年以上前のこんなこと、白状しても今更時効ですよね。時効と言う概念がなくて高校卒業取り消されたら・・・・人生崩壊いたします!!!!ご勘弁を!!!!!


その頃の京都府立洛北高等学校の校舎です。


ターニングポイントの話だった

2023-03-22 01:47:57 | 思い出
自分の人生のターニングポイントが25歳の梅雨だったという話をするはずが、横道にそれてしまい、高校時代学校行くよりもパチンコ屋や雀荘にばかりたむろしていたという横道にそれた話になってしまっていたが、考えてみれば、私の人生、横道にそれてばかりなのだ。
一浪が決まった時「まじめに予備校に行くから」と、近畿予備校を受験したのだが不合格。父に、「お前は大学に行く準備をする資格すら無いと判定されたのではないか」と言われて、グーの根も出なかった。
 それでも研学キャンパスという近くで入学試験の無い予備校に通わせてもらう事にはなったのだが、数回授業に出てみたけれど、高校の授業にも出ていnなかったので、授業が全く理解できなかった。結局それからもパチンコとマージャンに明け暮れる日が夏まで続いた。
 私の父は、大正のおっさんで、怖そうな中小企業の社長だったけれど、時折面白いことも言う人だった。現役の時の受験、どうせ受かるわけなどないので、スキーがてら憧れの北海道大学を受験しようと思った。受験旅行の出発時、スキー道具一式も抱えて家を出ようとしているのを父に見とがめられて一言。
「お前は受かりに行くのか?滑りに行くのか??」
流石にスキー道具を持って行く事は出来ず、北海道大学のキャンパスの広さに驚いた記憶が残っているだけで、試験の記憶など微塵も残っていない。

一浪してラッキーが重なって補欠入学できた慶應工学部だったのだけれど、「大学に入ったら遊んでも良い」と小さなころから刷り込まれていた?からか、結局4年通っても3年生にも進級できず、放校処分となった。その後名古屋の経営後継者養成所に1年通って、此処は何とか卒業したのだけれど、卒業したら後継するはずの父の「会社」が倒産してしまった。

 一応就職活動はしたのだが、一流企業は勿論、二流企業も見向きもしてくれず、性格の悪い親子が営んでいた「落ちこぼれ向けの塾」に就職するも一ヵ月しか耐えられず、無職かつ失業保険も貰えないという最低の時に高校の級友に誘われて入ったチリ紙交換業界が体質に合った。誘ってくれた旧友とは、お互いの人生のターニングポイントにしっかりと絡みあっている。不思議な縁と言っていいだろう。
彼に誘われて、チリ紙交換を始め、そして一時は天職と思ったチリ紙交換だけど結局は梅雨の雨が続いて転職を考えざるを得なくなった。そんな時に受験参考書とティッシュを交換、その受験参考書を読んで医学部受験に舵を切ったというわけなのだ。

一方、チリ紙交換に誘ってくれた旧友は、高校卒業までスキーには縁が無かった。私は、一度目の大学生の時にスキーバスを企画し、その人数合わせに彼を強引に誘ったのだ。それが、彼の人生のターニングポイントになったという。私は、チリ紙交換を辞めた後医学生となり医者となったが、彼はそのあとスキー場でアルバイトをし、バイト仲間と結婚し、二人ともにスキー教師になり信州に移り住んだ。

彼に50数年前スキーを教えたのは私なのだが、彼はずいぶん前から指導員で、私は未だに1級の試験に落ちて2級どまりの万年下手糞スキーヤー。
ここ10年以上、毎年彼に年3,4日教えてもらってはいるのだが、全くに上達しない。所属のスキー学校で私があまりにも上達しない事が話題になっているらしい。そう言われたって、彼や配偶者と一緒に笑いながら滑っているだけで満足しているのだから、エッジングだのカービングだの細かいことを言われて今更多少上達してもしなくても、そんなことはどうでも良いのだ。それよりも、歩けなくなる日の方が近い方がよほど問題なのだ!!

モノには、得手不得手がある様で、私は運動神経に関してはどう考えても「中程度の認知症」レベルなのだが、一方、学力テストに関しては、何故だか努力の割には結果を出す方なのだろう。不思議だけれど、その能力には感謝している。とびぬけた才能ではなくとも、兎に角医師免許を取得出来、何とか医師という職業を現在まで営み続けて来れた。

医者になってからは、面白いので努力はしてきたつもりだけれど、学生の時には面白いと思わなかった勉強には全く目を向けなかった、進級試験に受かる最低限の努力だけをしてきた。同程度の努力をしても報われなかった人も複数存じ上げているから、私は要領は悪くないのだと思う。でも、そのような才能に対して、「やれば必ず出来る」などときれいごとを言うのは無責任だと私は思う。
私の様に半世紀以上努力を続けても、スキーの一級にすら受からない人もいるのだ。

小学校の時の教頭先生の口癖が「やれば必ず出来る」だった。私は遠足の時のバスで臨席になった教頭先生に質問した。
「先生、やれば必ずできるんですよね。僕も頑張ったらノーベル賞取れるでしょうか?」
「頑張れ、頑張れ、そうそう、君、頑張れば必ず出来るよ!!」
「へえ、だれでも、頑張ったら可能ですか。」
「大丈夫だ、可能だよ。」
「へえ、それなら、先生は何故頑張らなかったの?」
それから、教頭先生は、私に口をきいてくれなくなりました。

今回もひとまず終了





昼休みに室生寺へ(五重塔と思い出)

2022-04-26 22:42:31 | 思い出
今日は火曜日。第1,3,5週の火曜日は定休日にしている関係で、第4火曜日の今日は休みではなく診療していましたが、暇でした。昼休みに訪問診療の予定も無かったので、配偶者に誘われて室生寺に向かいました。
石楠花が見頃だろうという事でした。

室生寺と言えば、40数年前、奈良県立医大に入学して間もないころ、大学が周辺の古寺名刹を周遊する無料バスツァーを開催してくれ、それで行って以来です。ですから40数年ぶりの五重塔でした。

室生寺の五重塔は、1998年(平成10年)の台風7号で大被害を被っています。周囲に生えていた杉の巨木(直径2m、高さ60m)が倒れ、塔を直撃したのです。
私が坂根医院を始めたのが1998年の2月でしたから、開業して半年後の事でした。台風が直撃した9月22日も休診にしませんでした。当時の天気予報は今ほど正確では無かったですし、大きくもない台風7号で、そんなに被害は出ないだろうという雰囲気でした。それが和歌山御坊市あたりに上陸してから、あまり勢力を落とさず、奈良県中部を直撃し、近畿地方を縦断し、大きな被害を出しました。

暴風雨ではありましたが、雨よりも風の被害が大きくて、田原本の医院周辺でも最大瞬間風速は50mを超えていただろうと想像され、そこらじゅうの信号がアッチコッチ出鱈目な方向に向いており、看板の多くが飛ばされたり折れ曲がっていました。新庄市では屋根が飛ばされた家も多くあったそうです。坂根医院に近い阪急住宅でも、屋根瓦が飛んできて窓ガラスが割れた、この瓦はあんたの家の瓦だろ とかいう紛糾がしばらく続いたとの事でした。あちこちの屋根がブルーシートで覆われ、瓦屋さんが「忙しすぎる!!」と、ぼやいておられたのを思い出します。

医院は、昼休みの時間(午後3時前後だったと思います)に強烈な風の中に居ました。坂根医院は周囲に殆ど建物がありません。特に西側には周囲数キロに建物は皆無です。広々とした農地が広がっています。その風を遮るものが何もない西に向いて、スタッフルームの大きな掃き出し窓があるのです。その窓ガラスが強風で明らかに内側にたわんできました。当時事務職員は2人しかいなかったのですが、そのうちの一人が明らかにたわんでいる窓ガラスを反対に押し返そうとしました。私は、大慌てで、「ダメ!!」そんなことをしちゃだめだと止めました。職員は驚いた様子で、「でも、そうしないと窓ガラスが割れちゃいます。」と言いました。「割れるかもしれないけれど、押し返す方がもっと割れやすいし、それに窓ガラスに近づくこと自体危険だから、押し返すなんてもってのほか。」と、私は説明しました。その時は納得いかない様子でしたが、翌日の新聞を見て、大いに納得してくれました。
奈良県で2名の死亡者がでたのですが・・・

新庄市で、73歳の女性が玄関のガラス戸を押さえていたところ、ガラスが割れ、その破片で太ももを切り死亡、
新庄市で、63歳女性が雨戸を閉めようとしたところ窓ガラスが割れ、破片が首に刺さって頸動脈を切って死亡
という記事が出ていました


まあ、そんなことを思い出した室生寺の五重塔でした。

五重塔は、どこを修理したのか全く分かりませんでした。

物体は直すことが出来るのですねぇ。生命体は大破すると滅亡してしまいます。知床の船舶事故を考えても、一寸先は闇ですねぇ。色々と考えながら帰って・・・・結局・・・いつかは来る最期の時に後悔しないように・・・美味しいものを遠慮なく食べていこうと思った深謀遠慮の無い私でありました。


私はチャーリーだった?

2022-04-19 22:04:56 | 思い出
梅雨前線が停滞して、一週間以上続いた雨に、転職を考えざるを得なくなった私でした。最初のうちは「チリコ殺すにゃナイフは要らぬ、雨の三日も降ればよい♪」なんて都都逸風に鼻歌うたっていた私ですが、その年はなんと10日ほども雨が続きました。こりゃ駄目だわ!、本当にもう少し安定した、季節変動の少ない仕事を見つけなければ!!と、思わざるを得ませんでした。

 それで、蛍雪時代を熟読して医学部受験と言う方向に舵を切った次第です。先にも言いましたが、共通一次試験の過去問を解いてみたら、琉球大学医学部の共通一次試験の合格可能ラインにほぼ届いていたことで「おれは受験に向いている」と、思い込んだというわけです。
 今にして思うと、その合格ラインは、沖縄県民のために地元受験生を優遇をした点数であって、それが故に本州の国公立大学医学部の合格ラインよりも低い点数であったのですが・・・そしてそれも合格が可能な点数であって、2次試験で出来が良ければという前提があっての点数だったのですが、当時の私はそんな事情は全く知りませんし、想像もしていませんでした。(2次試験があることも予想していなかった)

 一旦、思い込むと深く集中しちゃうのであります。勉強を始めました。
 気を散らされたくないので、外部と隔絶する様、部屋の中にテントを張って、その中で、食う寝る以外の時間はほぼ全部勉強。1日12時間から14時間くらい勉強していた様に思います。前回の大学受験以来7年間ほど勉強なんてしたことが無かったので(大学生の時は、パチンコ、、麻雀、恋愛以外何もしてませんでした。)絞ったスポンジに液体が浸み込むように参考書が頭の中に入っていくのが実感できました。後日、「アルジャーノンに花束を」を読んだ時、俺ってあの頃チャーリーだったよな!と確信したくらい、日々学力がニョキニョキ伸びていくのを感じました。チャーリーの学力向上は特殊な治療が原因ですが、私の学力向上は集中的な勉強と、遊んでいた間の経験と読書による国語力の向上にあると感じました。本は結構読んでいました。

受け付けない科目は社会科でした。日本史、世界史、地理 倫理社会 何の意味があるのか分かりませんでした。特に日本史。
日本史って、日本国内の当時の有力者達が、ケンカをしたり殺し合いをしたのを、イエスキリストが生まれてから何年後だったかを覚える学科だという理解なのです。その中の流れを理解し始めるとまだ面白味もあるのでしょうが、所詮は帰納演繹不能の「過去の出来事」でしかありません。
歴史は繰り返すから、過去に学ぶことで将来の役に立つと言われますが・・・私には詭弁だとしか思えないのです。日本史に意味があると言われる方は、世界の全ての独立国の歴史も同じように学ぶ意味があると思っていただきたい。世界史の一部としての日本史なら、まだ意味はあると思ってはいます。地理や倫理・政治には学習する意味はあると思いますが、記憶力の限られている私には避けたい学問です。数学、物理、化学は覚える事は少なくて、応用範囲が広いです。そこが大きな魅力です。社会科は覚える事が膨大で応用範囲が少ない。それで、共通一次試験で必要最小限の倫理・社会を勉強することにして、他は捨てました。

社会科以外では、2度目の受験まで、一番苦手だったのが国語でした。それまでの受験では、「文系の苦手な文系希望者」でした。国語が不要で、社会の代わりに数学Ⅰで受験できる経済学部、法学部を受験しました。私の第一希望文学部哲学科でしたが、文学部で社会(世界史や日本史)、国語抜きに受験できるところはありませんでした。
 英語も苦手でしたが、全国の大学で、英語抜きで受験できる大学は当時なくて、それはあきらめざるを得ませんでした。(今もあるとは思えませんが)

以前の私は文科系科目の超苦手なな文科系志望でした。理数系に行きたくないのに、理数系でしか点数が取れない人でした。哲学って論理だから、数学で受験出来るべきだと思うのですがねぇ?

26歳になっての受験は、社会経験もある程度積んで、本もある程度読んでいましたので、国語能力が向上していました。国語能力が上がると、英語の理解力、特に長文読解能力が向上していました。年月を重ねる事は、決して無駄ではないと実感しました。



 秋になって、なんと共通一次では、ほぼすべての大学医学部の合格圏内の点が取れるようになってました。それで、「もう、することはないじゃないの?」と思ったのですが・・・もう一度蛍雪時代を読んで、愕然としました。

 なんとなんと、国公立大学の受験は、共通一次試験だけでなくて、各大学独自の2次試験がある!!!本当に驚くと膝が折れるのですね。愕然としながらも、共通一次試験という名前を考えたら、共通ではない二次試験があると推定するのが普通だなと納得もいたしました。情報の谷間に居たための失敗でした。
 普通の受験生なら、試験の体制がそうなっていることなど常識というか常識以前なのでしょうが、私には受験仲間は皆無で、過去の受験から8年が経過していて、受験制度が一変していたこともありました。それで、情報収集のためにも、秋からだけでも予備校に通おうかと思い、お盆明けに某予備校に行ってみたのですが・・・・窓口に居たのは、同級生の女子で、私の顔を見て
「あら、坂根君、何しに来たの?」
「秋から予備校に入りたいのだけれど」
「え、家庭教師しているの?入学はもうとっくに締め切っているよ。のんきな子なのだね」
「俺自身なんだけど」
「えっ?坂根君、坂根君、いつも変わった事言うからなぁ。本当に?」
と言うようないきさつがあって、同級生に変わった奴と認識されていたことは分かったけれど、予備校に入ることはかなわず、相変わらず情報の孤島であることに変化はありませんでした。

 出身高校に行って進路指導の先生に面会していただいて(知らない方でした)
「すみません、入り易くて出易くて、費用の安い医学部ってどこですか教えてください。」
と、端的に質問したのですが、
「はっ????」
といわれたまま、固まってしまわれて・・・・
暫くして「失礼いたしました」と、帰って来るしかありませんでした。

結局のところ、数年前の蛍雪時代からしか情報を得るしかありませんでした。
新たな蛍雪時代、立ち読みもしましたけどね。

おバカなことに、秋になってから漸く2次試験があることを認識したという次第です。
それから、おっとり刀で二次試験の過去問を解いてみたのですが・・・・
医学部の二次試験、難問奇問続出で、全く歯が立ちませんでした。
でも、一旦始めた路線、歯が立たないからと言って今更簡単に引くことは出来ません。
私、中学高校時代、勉強嫌いでしたので、数学は公式を知りませんでした。それでも時間の限りゴリ押しで答えにたどり着くまで計算を重ねる。答えに至らない様なら、答えの候補をいくつか想像して(数学の場合、ゼロとか1とかが答えの候補になることが多い。角度の問題なら、答えは15度、30度、45度、60度(プラス60度×n)など、一定の角度しか答えはあり得無いから、絵をかいて予想したら大抵答えは分かってしまう。あとは、その答えになることを証明し、それ以外に答えがない事を証明するのみ)候補の数値を問題に入れて検算して条件を満たす数字があったら、それ以外に条件を満たす数値があるかどうか検証するとか・・・・何しろゴリ押しが得意というか、私のやり方でした。
 それで、この度もゴリ押しするしかないとは思ったのですが、実力が違い過ぎて、推論も最初は立てられず、手も足も出ない状態がしばらく続きました。
 でも基本から勉強しなおすには全く時間が無いので、二次試験の数学なんて、1/3も解けたら何とかなると居直ることにしました。12月には共通一次の点数確保には相当、勝手ながらな自信を持っていました。

本当に思い込みが激しい人間なのであります。年末には、共通一次で、「ひょっとすると全国最高点を取ってNHKにインタビューされるかもしれないな」なんて思うようになっていました。NHKがそんなインタビューする事なんてないのに、勝手に思い込んでいました。共通一次の過去問に関しては、理数に関しては、ほぼ満点(同じ問題を解くのですから当然ですが)しか取れなくなり、そのうちに出題者の意図が見えるようになりました。
複問題文と選択肢を読むと、複数の出題者がどのような選択肢にしようか会話しているのが聞こえてくる気がしてきたのです。笑ってください。思い込みが激しいのです。

現実にはそんな事は、全く無くて、絶対の自信を持っていた古典でしたが・・・満点のつもりで余裕で答えて、何と零点でした。全て逆に答えてしまいました。本当におバカな野郎です。でも、それが無かったら・・・・別の大学を受けていたでしょうし、人生、何が功を奏するのか、何が良くて何が悪かったかは全く分からないですね。

                     続いてしまいます


雨音はショパンの調べ/松任谷由実



誇り高き男 / 埃だらけの男

2022-04-18 22:41:12 | 思い出
(写真は本人とは無関係です)
雨が上がって、7月の陽光眩しく降り注ぐ中、相変わらず一日千円の借り物ボロ軽トラックでローギア、アイドリングで走行し続けていました。8トラックの無限連続再生の 誇り高き男のメロディに乗せた「毎度おなじみチリ紙交換でございます。ご不要になった新聞、雑誌、ボロなどがございましたら、トイレットペーパー、ティッシューと交換させていただきます」と続けていたのですが、梅雨入り前と違って、憑き物が落ちたように私はやる気をなくしていました。一時は天職だとさえ思えたのですが、この仕事、先が無いなと思えたのです。それで、もう少し季節変動の無いやりがいを感じる事の出来る仕事はないかと思いました。
色々と考えたのですが、これからはセキュリティ関連が伸びるのではないかとなんとなく思って、色々調べました。それで鍵屋さんになろうと思ったのですよ。それで、ほんの少しすらの鍵の勉強もせず、開錠も全くできないのに、いきなり鍵の坂根などと言う名刺を印刷して、補助錠を数個仕入れ、飛び込みでセールスに行きました。
全く売れませんでした。そりゃそうですよね。自宅を守る鍵、信頼できない、とび込みの馬の骨から買う奴はいないですよね。10日ほどで漸く諦めました。方針変更です。
それで、以前下宿から出ていた蛍雪時代などを読み始めました。軽トラをローギアのアイドリングで走らせながら。
 それを読んで、共通一次試験と言う難問奇問の無い教科書に沿った出題の試験で大学に入れる時代に変化したのだと私は思ってしまいました。そして、共通一次の過去問を自宅で解いてみたら、琉球大学の医学部の合格点に近い点数を取れてしまったのです。

 なんでも良い方に誤解するのが私の得意技なのでありまして・・・・少し勉強したら、琉球大学医学部には合格できるのではないかと思いこんでしまいました。そこで、チリ紙交換の次の目標をなんと国公立医学部合格にしてしまったのでありました!

                 続く


誇り高き男 / スリー・サンズ