川崎大師さんで
茶筅供養と社中の追善のお茶会がありました。
鵬雲齋大宗匠ご揮毫の「茶筅塚」の碑の前で、
持ち寄った茶筅を火に投じました。
主が客をもてなす、まことの心は、また、
主が道具をいたわる心に通ずる
と、塚のそばに説明がありました。
思えば、
朝早くに着物を着て電車に乗って、
この一年に使った茶筅を持ち寄り、
お大師様の方でも
貫首大導師さま以下たくさんの
袈裟をかけたお坊様が読経されるという
大変なイベントです。
消耗品である茶筅に
すべてのお道具への感謝を含めて
手を合わせるひととき。
暑い陽射しの中、
立ち上がる火の粉を見ながら、
竹林とその竹を切っている人、
加工している姿などを思いました。
けど、思い浮かべられませんでした・・・。
竹を切るところ見たことありません。
その後の処理も大変なのですが、
どこでどのようにしているのか、
だんだん気になり始めました。
今日、灰になった茶筅の中には
中国や韓国産の物も多かったことでしょう。
奈良に茶筅作りに行った時、
その細かい作業と、
それをサポートするアイデアいっぱいの道具に
感動したものでした。
中国や韓国にはまた
様々な道具があることでしょう。
茶筅作りの様子を見に行きたい。
お茶席の床は、
古銅に秋明菊が一輪とか、
平安時代の経筒に数珠玉と枯蓮といった取り合わせが
独特でした。
脇床の小さな仏像にとてもこころ惹かれましたが、
会記には推古時代の観音菩薩像とありました。
どんな人がどんな思いで彫った像なのでしょう。
それを
何人の人がどんな思いで受け継いできたのでしょうね。
茶筅供養と社中の追善のお茶会がありました。
鵬雲齋大宗匠ご揮毫の「茶筅塚」の碑の前で、
持ち寄った茶筅を火に投じました。
主が客をもてなす、まことの心は、また、
主が道具をいたわる心に通ずる
と、塚のそばに説明がありました。
思えば、
朝早くに着物を着て電車に乗って、
この一年に使った茶筅を持ち寄り、
お大師様の方でも
貫首大導師さま以下たくさんの
袈裟をかけたお坊様が読経されるという
大変なイベントです。
消耗品である茶筅に
すべてのお道具への感謝を含めて
手を合わせるひととき。
暑い陽射しの中、
立ち上がる火の粉を見ながら、
竹林とその竹を切っている人、
加工している姿などを思いました。
けど、思い浮かべられませんでした・・・。
竹を切るところ見たことありません。
その後の処理も大変なのですが、
どこでどのようにしているのか、
だんだん気になり始めました。
今日、灰になった茶筅の中には
中国や韓国産の物も多かったことでしょう。
奈良に茶筅作りに行った時、
その細かい作業と、
それをサポートするアイデアいっぱいの道具に
感動したものでした。
中国や韓国にはまた
様々な道具があることでしょう。
茶筅作りの様子を見に行きたい。
お茶席の床は、
古銅に秋明菊が一輪とか、
平安時代の経筒に数珠玉と枯蓮といった取り合わせが
独特でした。
脇床の小さな仏像にとてもこころ惹かれましたが、
会記には推古時代の観音菩薩像とありました。
どんな人がどんな思いで彫った像なのでしょう。
それを
何人の人がどんな思いで受け継いできたのでしょうね。
に伝わったとされるのは、その直前ですね。そうです、例えば渡来人の念持仏だったかも知れません。百済あたりの公職の方か技術者がもたらしたもの。その仏さま自体は、インドのアショカ王朝で生まれ、熱砂の高原、砂漠を旅して、肥沃な里も水路も越え、多くの人に出会い、百済までこられていたのかも。お茶の香気もいっぱい浴びていらっしゃるに違いないですね。
時を得て、海を渡りを人々の悩めるこころを救うべく日本に渡来した。推古朝のころには、和歌山勝浦の那智の滝(青岸渡寺)の観音菩薩さんも登場されています。仏師のこころそのものが伝わってきています。
またその後の時代にその小さな観音菩薩さん
が観てきたものにも興味が尽きないですね。川崎平間寺の由来も海中から引き上げられた小さな木造から始まります。