阿武山(あぶさん)と栗本軒貞国の狂歌とサンフレ昔話

コロナ禍は去りぬいやまだ言ひ合ふを
ホッホッ笑ふアオバズクかも

by小林じゃ

阿武山(あぶさん)を語る(9) 山を越えて

2018-08-26 13:12:47 | 阿武山

 古来、十とか百とかは完全な数、神仏の数字だとされている。囲碁の名人は九段、神社仏閣の石段も九十九段というところが結構ある。人間になりたい鬼が積み上げた石段も百段、あるいは千段に一段足りなかった。このお話も、十は阿武山の観音様の数ということにして、今回で一区切りとしたい。阿武山のことは、本当はライフワークとして、もっともっと歩き回って五年後十年後にまとめて書きたかった。しかしこの夏は自分の軽率な行動から大切にしてきたものを失って、何かをやろうという気力もなくなり失意のままに身辺整理のつもりでこれを書き始めた。あちこち力不足であるけれども、今持っているものは吐き出したと思う。今後新しい発見があったならば、増補の形で付け加えたい。以下、書き残したことを少し。

 今、川内と言うと、安佐南区の太田川と古川に挟まれた地域のことを指すが、中世においては、可部深川から河口の三篠のあたりまでを川の内と呼んでいたようだ。今回力不足を一番感じたのは、中世の川の内について、まだまだ知らないことが多すぎるということだった。私はサンフレッチェのサポーターだから無意識のうちに毛利目線になってしまうことがある。しかしその前の時代、安芸の国で一番にぎやかなこの地域には銀山城の武田氏がいて、川内衆という水軍を擁して、目視でいくつも山城が乱立していて、祇園や八木に市が立ち、太田川は八木城と阿武山の間を流れていて、権現山や阿武山は信仰の山だった。と書いてみても、まだまだイメージできない部分がある。そして武田氏も、大内、尼子、毛利の狭間で次第に苦境に陥って行く。吉田の友人には失礼ながら、信玄のように金山もってる訳でもなかった元就が山奥から出てきて中国地方の覇権を握るに至ったのは何故か、まだ理解できていない。川内衆の拠点が佐東川(今の太田川)の下流と書いてあるとあれっと思う。今の感覚だと川内は中流だ。でもよく考えたらデルタがなく、上記のようにもっと広い範囲が川の内であるなら下流ということになるのかもしれない。こういうところからして、イメージが足りない。

 もうひとつ観音信仰についても、興味は十分あるのだけれど中世の人の心に中々近づいていけない問題だ。豪族が乱立して緊張状態が続いたこの地域に生きる人々の心持ちはどのようなものであっただろうか。武田氏の庇護のもと権現山には毘沙門天があり、権現山から阿武山にかけて観音信仰の霊地であったという。蛇落地を考える上でも、この観音信仰は大きな要素であった。阿武山から麓に降ろされた観音様の名が蛇落地観世音と今に伝えられていることを、もう一度考えてみないといけない。蛇落地と土石流を直接結び付けるのは今のところ難しいと書いた。しかし、6回目で紹介した山口大の放射性炭素年代測定法の表によると、この観音様が麓に降ろされた弘化四年の19世紀にも土石流のあった可能性が読み取れる。もし土石流のあとで麓に降ろされたとすれば、その時に蛇落地と呼ばれるようになった、あるいは眠っていた蛇落地という集落名が蘇ったのかもしれない。山頂が補陀落で降ろした先が蛇落地というネーミングの可能性を完全には捨てきれない。それは置いておくとしても、中世の人々がどんな気持ちで山を見上げたか、もっとその心に迫っていけたらと思う。

 最後に、私のお気に入りの阿武山をいくつか。まずは、JR緑井駅前の陸橋、権現山と阿武山を近くで眺められて、いつも立ち止まってしまうポイントでそのあと天満屋の出雲そばのお店にも寄って好きなものが二つ揃うのも大事なところだ。

 

 次はJR安芸矢口駅の陸橋から、ぐるりと武田山、火山、笠松山、二ヶ城山と地域の山も見渡せる。広島経済大学フットボールパークに行くとき、バスの接続が悪くてここから安佐大橋を渡り川内を通って小瀬(こぜ)大橋のバス停まで歩くことがある。今回末尾の短歌の都合で1回目のを差し替えたが、新しく入れた歌は安佐大橋の真ん中で誰かの兄ちゃんとすれ違った時のもので、モチーフは女性ではなく男子であること、ここに書いておこう。

 

 そして歩いた先の小瀬大橋、古川の向こうに緑井の商業施設、その先に権現山と阿武山が見える。

 

 経大フットボールパークからの帰り、バスの車窓からの阿武山も見逃せない。これは経済大学入口と古市橋駅前の間、前方に見える阿武山だ。

 

 うちのあたりからは、阿武山山頂はちょうど西の方向、阿武山は日が沈む山だ。子供のころから眺めてきたけれど、阿武山の向こうがどうなっているか、考えた事もなかった。中世の人たちは阿武山を観音様が現れる山と考えたから、その向こうは彼岸だったのかもしれない。実は私も、阿武山の西側から阿武山を眺める機会はほとんどなかった。サッカー観戦のためにアストラムラインに乗って何度も西側に行っているにもかかわらず、阿武山を意識したことはなかった。私も無意識のうちに、阿武山は西の果ての山と思い込んでいたのかもしれない。唯一、安西高校に行った時に、阿武山を眺める機会があった。阿武山はわからないが、手前に権現山の電波塔が見えた。すると、奥の山が阿武山だろうと思った。

(安佐南区高取南、安西高校グランドから見た権現山、阿武山)

 

 ネットには、あげくら山や大塚など、私がサッカー観戦でよく行く場所からの阿武山を撮った写真がアップされている。大塚には何百回も行っているが、阿武山を意識したことがない。探してもどの山かわからないだろう。これは私にとっては残念極まりないことで、これからもし機会があるならば、西側から見た阿武山にチャレンジしてみたいと思う。その前に頂上に立って西側のどこが見えるのか確かめてみたい。今の体力では麓から登るのは難しいかもしれない。誰かに権現山の駐車場までお願いしないといけないだろう。まあ涼しくなってからの話だ。ずっと阿武山のようにありたい、安佐の子らを見守りたいと願ってきた。しかしもし山頂に立てたとして、どんな心境でいられるのか、今は予想できない。

 

  近頃は観音様に願い事 三つ四つもあり山を見上げる

 

  夕闇や このまま君を好きなうちに消えてみようか 火星かがやく

 

 

(安佐北区深川、三篠川の川土手から阿武山夕景)

 

ここまで読んでいただいてありがとうございました。



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