阿武山(あぶさん)と栗本軒貞国の狂歌とサンフレ昔話

コロナ禍は去りぬいやまだ言ひ合ふを
ホッホッ笑ふアオバズクかも

by小林じゃ

はんなり

2018-11-05 16:31:03 | 日本語

 京都を題材とした番組などでは、はんなりという言葉はかなりの確率で登場する。私は十年間京都に住んでいたけれども、そんなに度々聞く言葉ではなかったように思う。はんなりとは無縁な人生だったからかもしれないが、私は非常に疑り深い性格のせいか、京都だからはんなりと言っておけばいいだろうみたいに誤魔化されてるのではないかと思ってしまう。だから、テレビではんなりと言われると、以前書いたほっこりと同様に疑念の目を向けていた。最近、上方狂歌を読むようになって、「狂歌栗下草」(寛政四年刊)という狂歌集をみていたら、立て続けに「はんなり」が登場した。書き出してみよう。

 

     岫雲亭の主を花見に誘に来られさりしまたの
     あした一枝の花にそへて異号を洗耳といへば 栗阿亭

 せんし茶のせんしなければはんなりのこと葉の色香出も社せね

     かへし                  華産

 出し茶やらせんしなけれとことの葉のはなかはんなり目をさまします

 

     五月雨喫茶といふこゝろを       華産

 けふいく日はれまもなみの五月雨にはんなりあさひ嬉しのゝお茶

 

最初の贈答歌、岫雲亭は華産のことで、この狂歌集は岫雲亭華産の撰になるものだ。華産の異号が洗耳(せんじ)であることから、花見に誘ったけど来なかった華産に対して、煎じ茶を煎じなければはんなりとした茶葉の色香が出ない、華産が来ないと狂歌の言葉もはんなりとした色香が出ないと詠んでいる。返しの歌の「出し茶」は煎じてないお茶のようだが今のどういうお茶なのか知識が足りなくて的確に言うことはできない。出し茶は煎じてないけれど、私がいなくても言葉の花がはんなり目を覚まします、と返している。

三首目は梅雨で晴れ間のない時に嬉野茶ではんなり、という歌ではんなりはお茶のスッキリした味わいと共に心情的な表現だろうか。三首ともお茶が題材だけど、贈答歌の方は桜の花や狂歌の語句もはんなりの対象だろう。はんなりを辞書で引くと華やか、明るい、気が晴れる、などが出てくる。一首目は否定形でわかりにくいが、二首目、三首目を見ると、ぱっと明るくなる、ぱっと気が晴れる、というような暗から明への心情の動きがあるように思える。月はおぼろに東山、みたいな情景とは違ってわりと鮮明な明るさのような印象も受ける。語源は「花あり」ではないかとあった。花を見つけた時の感情だろうか。まだ3例だけではアレなので引き続き探してみたい。しかし、テレビ番組がいい加減にはんなりを使ったらブーイングする準備はしておこう。

 

【追記1】「狂歌かゝみやま」のはんなりの用例

 

                   明石 霞城亭朝三

 一年のはんかのはてにはんなりと又いれはなの春は来にけり

 

入花は湯をさしたばかりの煎茶で、でばなと同義。驚いたことに、またお茶がらみの用例だ。さらに、辞書で「いればな」を引いたらそこに載っていたのは近松の今宮心中の、

 「跡へはんなり入花の茶びんご橋はこちこちと」

だった。これは備後橋を導くために茶瓶を持ち出しその前「はんなり入花」はお茶の縁語として語調を整えている。お茶、特に煎茶に湯を注いだ瞬間の色香を「はんなり」と言うのはごく一般的な表現だったようだ。しかしこれだけ揃ってくると、はんなりの語源といわれる「花あり」の花とは出花、入花の花なのか、いやまだ5例もうちょっと探してみよう。

 

【追記2】最近テレビで京都の方が明るい黄色の着物(知識が無くて正確に表現できなくて申し訳ない)を手に取って「はんなりしてはって」と口にされた場面を見た。なるほどこれは上記の暗から明の心情からみてもしっくりくる。その一方で、料理家のD先生が「ぼんやりした味」を「はんなり」と言い換えられた場面も見た。D先生は関西のはずだが、これはどうなのか。ぼんやり霞がかかったような情景をはんなりというのは京都のイメージに引っ張られた誤用の可能性もある。しかしまだそう断定できるだけの用例を集めていない。もっと探してみたい。

 

【追記3】1949年「評釈炭俵」

 

     はんなりと細工に染る紅うこん   桃隣

はんなりは華やかに色彩の美しきなり。ほんのりはほのかなるにて、はんなりと音近けれども大に異なり、混ずべからず。

 

とあった。なるほど、ほんのりとの混同も考えられるわけだ。ぼんやりおぼろに霞がかかったようなさまをはんなりというのは誤用の疑いがますます強くなってきた。また、はんなりといった時の色についても、追記2で見た着物、煎茶、朝日、そして紅鬱金と黄色系統が多いようだ。あをによし奈良の都の「にほふ」が赤く輝くイメージなのに対して、京のはんなりは黄色だろうか。こちらはもっと集めてみたい。

 

【追記4】 「狂歌栗葉集」にはんなりが出て来た。

 

       月前喫茶           雲故亭関窓

  出はなからのんて月見をしからき茶扨はんなりと目もさめにけり

 

またもやお茶の出ばなにはんなり、そして、はんなりと目が覚めたと詠んでいる。狂歌の用例は今のところ栗派ばかりで木端の口癖、いや上記の近松の例もある。それにしてもお茶がらみが多い。お茶の出花入花にはんなりはよく使う表現だったのは間違いない。問題は語源もお茶に関わってくるのかどうか、木端より前の時代の用例を探してみたい。

 



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