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阿武山(あぶさん)と栗本軒貞国の狂歌とサンフレ昔話

コロナ禍は去りぬいやまだ言ひ合ふを
ホッホッ笑ふアオバズクかも

by小林じゃ

「狂歌仕入帳」 大正期の狂歌

2020-03-04 20:24:18 | 狂歌鑑賞
 柳縁斎貞卯と関係があった大阪の都鳥社で検索したところ出てきたのがタイトルの狂歌仕入帳。これは蟹廼屋(野崎左文)の編になるもので、前半は追悼の歌合などが載っていて、後半の詠草の部分は、途中に「左文翁自画賛」とあり蟹廼屋の詠と思われる。狂歌は東京、大阪、奈良の地名が入った歌が多く、大阪都島社で発表した歌も多数入っている。大正四年頃からの日付が入っていて、ウイキペディアの野崎左文の経歴と照らし合わせると隠居後の詠のようだが、新聞記者の経歴もあることから世相を詠んだ歌が目を引く。いくつか引用してみよう。


        庭前露

  電燈の色にもにはの白露は夜ごと光つてイルミネーシヨン

電燈で露が光ってイルミネーションと詠んでいる。この時代イルミネーションと言ったらどんな光景を思い浮かべたのだろうか。

       御即位式

  かしこしな国威をにぎる御手をもて民をなでんの御即位乃式

  よろこびも此上はなし一天のみくらゐをつぐ万乗の君

大正天皇の即位の礼は大正四年にずれこんだ。すでに御病気がちだったようだ。一首目の「なでん」の横に朱字で「南殿」と書きこみがある。

       寄国祝

  めでたしな年をまたいで新領土ふみひろげたるあし原の国

一次大戦中のことであるが、大正四年から五年へ「年をまたいで新領土」はどこのことだろうか、私の歴史の知識ではよくわからない。

        展望車富嶽

  展望車不二のながめも一等とめづるは雪の白切符客

  人穴にはひる心地ぞ展望車富士を見るころくゞる隧道

一等車の切符が白切符だったようだ。どんな展望車だったのか、今度は鉄道の知識がなくてよくわからない。

       電車値上げ

  土手に生ふる松の外にも値上りのけふから目立つ外濠電車

  賃金をませし電車を唱歌にもこわねを上げて唄ふ子供等

  つむじより曲る電車のわかれ道横に車を押す値上げ論

値上げ論は横車を押すものだと詠んでいる。よくある話かもしれない。

       海の博覧会

 海博を見て行くも目の薬なり真珠の玉はよう買はずとも

大正五年の海事水産博覧会(東京・上野公園) のことのようだ。

       大正琴

 はりがねの音色は遠くつたはりぬ電信機にも似たる琴とて

大正琴は当時新しい楽器だったようだ。

       煽風器

  煽風器そばで私が起すのじやないと張子の虎は首ふる

  煽風器かけて寝らるゝ御隠居は左り団扇にまさる老楽

扇風機は明治からあったが量産されたのは大正に入ってからだという。

       天気豫報

  うみ路からいたくも風のふき出物あすの天気ははれとこそ見め

  疑ひの雲さへ出て晴といふ豫報もあてにならぬ秋の日

  間違ひのなきぞめでたき君が代の五風十雨の天気豫報に

天気予報を新聞、ラジオで知ることができるようになったのは大正末期のことで、この歌が詠まれた頃、天気予報は交番に張り出されていたそうだ。五風十雨をネットで引くと「世の中が平穏無事であるたとえ。気候が穏やかで順調なことで、豊作の兆しとされる。五日ごとに風が吹き、十日ごとに雨が降る意から。 」とある。最近あまり使わない言葉だろうか。

         理髪師運動

  運動にボートは漕がで理髪師が乗るは鋏の音のちよき舟

  理髪師がはさみ仕事の運動にいづる庭球(テニス)の芝も五分刈

  理髪師が議員選挙の運動に仲間の手までかり込んで来る

大正六年の歌。翌大正七年から理髪師の資格試験が始まっていて、それを求める運動があったようだ。しかし三首目には議員運動とあって、これは選挙運動のようにも思える。ちょき(猪牙)舟とは、舳先が細長く尖った屋根なしの小さい舟のことで江戸の川船として使われたとある。

          同盟罷業

  鋸も大工はとらで資本家のきをひいてみる同盟罷業

  長いものにいつか捲かれて罷業さへよりの戻りし製鋼会社

大正八年の歌。この年のストライキは497件と空前の件数となったが、このあと恐慌がきて減少に転じたとある。

         飛行郵便

  雁がねの翅はからで郵便の文字も空ゆく世とはなりにき

  先着をきそへる中に郵便のふくろをしよつて帰る水田氏

  大鵬のはがきも持つか数百里四時間にゆく飛行郵便

大正八年十月に東京大阪間で郵便飛行のテスト飛行が始まって、3機のうち水田中尉の飛行機は往路で不時着となってしまった。二首目はそれを詠んでいるようだ。あとの2機は往復飛行に成功とある。しかしこの歌のせいで失敗の水田さんだけ覚えてしまった。三首目の大鵬、相撲取りの大鵬は昭和の横綱だけのようで、ここは中国に伝わる伝説の巨鳥のことのようだ。
 
          簡易食堂

  君が代の昌平橋に市人の腹つゞみうつ簡易食堂

  薯(イモ)ばかり出すとて簡易食堂に客よぶうぶう不平鳴らすな

大正九年の歌。昌平橋の簡易食堂は公設で、大正七年の米騒動の後、地方からの労働者や学生のために作られたとある。

         国勢調査

  宣伝のビラを富士ほど積上げて一夜に出来る国勢調査

大正九年に行われた日本最初の国勢調査を詠んだ歌。このビラについては、最近、遅生様のブログに画像が出ていた。

こうして見てみると、この時代の狂歌も中々面白い。他の人の詠も読んでみたいものだ。



なだいなだ「江戸狂歌」

2020-02-18 20:43:00 | 狂歌鑑賞
 江戸狂歌もぼちぼち読んではいるが、数が膨大である。それに、今は心太や夜鷹そば売り、薬師信仰、といった読み方をしていて、天明期のブームについての理解が進んでいない。そこで、狂歌で検索したら古本がたくさん出てくる、なだいなださんの本を江戸狂歌の入門書として読んでみようと思った。

 まずは、この本でもページ数をさいてある大田南畝について。著者はアルコール依存症の治療に関わっていたお医者さんということもあって、南畝の酒の歌を面白く解説してあった。引用してみよう。

「しかし、さすがの大酒豪たちも、時折は、飲み過ぎを後悔することもあると見えて、禁酒を誓う人間を揶揄する歌や、また禁酒の誓いを破って、照れて歌った歌もないわけではなかった。それがまた、なかなか気のきいたやりとりになっているのである。

 たとえば、こんな歌である。


    わが禁酒破れ衣となりにけり
          さしてもらおうついでもらおう


    世の中は色と酒とが敵なり
          どふぞ敵にめぐりあいたい


 これらの歌を読んで、ぼくは、思わず「うまい」と、うなった。たいていの患者は、ぐずぐずと言いわけを述べる。それにくらべ、このあざやかなひらきなおりは、どうだろう。

 今の若い人たちは、雑巾刺しも知らないし、つぎはぎさえ、パッチワークなどと呼ぶようだから、破れ衣のつぎさしに、酒のつぎさしをかけたシャレを、理解できるかどうか心配だが、ぼくは、何といっても「欲しがりません勝つまでは」などという標語に踊らされたことのある、戦争経験者の世代である。子供のころから節約に慣らされてきた。つぎはぎの服も着せられたし、男でも雑巾刺しくらいはしたものであった。だから、つぎ、さしの意味はよく分かる。分かりすぎるくらいである。」


最後の段落の戦中派ということがこの本では重要な要素になっていることもあり、長く引用してみた。南畝については、御徒という下級武士の出身で、もらい乳も出来ずに娘を死なせてしまったこと、その一方で狂歌がブームとなった天明期には田沼時代のブラックマネーを得た支援者と高級料亭などに足を運んでいたことが書かれている。前にこのブログで引用した文化年間の「小春紀行」では、周防から安芸にかけてご飯が糠臭いと書いていたけれど、これは旗本待遇の出張であったと書いてある。南畝の懐具合は浮き沈みがあり、また狂歌を辞めていた時期との関連など、まだ私の頭の中での整理がつかない部分がある。また、この本は1986年の出版ということもあり、最新の研究とは食い違う部分もあるようだ。

気になったのは、林子平が海国兵談を出版した直後に幕府から発禁ならびに板木没収の処分を受け、その心情を読んだ歌。


  親もなし妻なし子なし板木なし
       金もなければ死にたくもなし


子平は以後、六無斎と号したという。著者が中学生の時、この歌は歴史の教科書に載っていたという。そして、

「当時の歴史の先生は、林子平を明治維新の先駆者として位置付ければ、それで満足のようであった。だが、生徒のぼくたちは違っていた。


     かくすればかくなるものと知りながら
           やむにやまれぬ大和魂


などというひとりよがりで悲壮感びしょびしょの歌が幅をきかせていた時代、国のための死を国民に強制する雰囲気を敏感に感じとっていたぼくたちは、この狂歌の最後の「死にたくもなし」という言葉に、僅かに救いを見出していた。」

とある。死にたくないと言いにくい時代は経験したくないものだ。ところで、子平の歌に似た歌を貞柳も詠んでいる。貞柳翁狂歌全集類題の雑の部の歌


         述懐

  親もなし子もなしさのみかねもなし望む義もなし死にとうもなし




(ブログ主蔵「貞柳翁狂歌全集類題」52丁ウ・53丁オ)

こちらは五無である。なしを並べて最後に死にたくないと同じような歌であるが、時代の古い貞柳がオリジナルなのか、それとも他の歌謡などが原型なのかはわからない。

 天明期、化政期の江戸狂歌の主要人物については、人間関係も簡単に記してあって、その方面に疎い私にとっては少し理解が進んだと思う。けれども、一番印象に残ったのは本居宣長を批判した上田秋成の歌だった。もちろん秋成はタイトルの江戸狂歌ではなく上方の人だったけれど、著者はこれを書いておきたかったのだろう。

 上田秋成といえば、ぼくは、本居宣長との関連で、どうしても戦争中のことを思いださずにはいられなくなる。戦争中は「衆人皆酔へり」だった。日本中が妙な思想に酔った状態だった。悪酔いしていたと言ってもよい。そして、本居宣長が、どういうわけか、その「酔った衆人」の中心にあったのである。宣長は利用されただけなのかも知れないが、それでも、ぼくたちには迷惑な存在には違いなかった。ぼくたち当時の若者を、戦争という愚行のなかに死なせようとする人たちに、さまざまなインスピレーションを与える存在だったからである。
 もしあの時代のぼくたちの心の中に、醒めた上田秋成がいてくれたら、今の世の中は大分変わっているだろうと思う。今からだって、まだおそくはないかも知れない。昔を正当化する人たちが、まだ残っているのだから。
 宣長は彼の同時代の人間から、けっして非難を浴びていなかったわけではないのである。その非難を知っていれば、少しは醒めた目で、日本人は大和魂を持った特別な民族である、などという戦争中の主張を斥けることもできただろうからである。

     ひが事をいふてなりとも弟子ほしや
           古事記伝兵衛と人はいふとも

 秋成は同時代の宣長を、こんなふうに皮肉っている。ちょっと皮肉がきつくて、ここまでくると、罵倒とよんだ方がいいかも知れない。
 秋成は『古事記』の解釈や古代日本語の音韻の理解をめぐって、若い時、宣長と論争をしたことがあった。しかし、なにかというと皇国絶対論を持ち出す相手に、うさんくさいものを感じたのであった。ひが事というのはそうしたことをいうのである。
 「お前さん、大衆のこころをくすぐるために、嘘でも間違いでも言うつもりかい。そうまでして弟子がほしいのかい」
 こういわれたら宣長もかなりショックを受けたであろう。しかし幸いなことに、この歌の作られたのは、彼の死後数年たった後だった。だが、考えてみると競争相手が死んだ後も、少しも容赦しないのだから、秋成もかなりしつこい人物である。「古事記」に「乞食」を響かせているのはもちろん分かるであろう。秋成にしてみれば、宣長のごときデマゴーグに人々が走り、異論を唱える醒めた目を持つ自分が、世のすねものとしかうけとられないので、きっと苛立っていたのだ。だが、乞食伝兵衛とはいったものだ。

      しき島のやまと心のなんとかの
           うろんな事を又さくら花

とも歌っている。これも実にわかりやすい歌だから特別に解説はしない。前の戦争中、宣長は軍国主義者の間で大もてだった。ひが事をいう人の弟子が多かったのである。

     しき島のやまと心を人問はば
           朝日ににほふやまざくら花

なかでも、この歌は、軍国主義者のおこのみの歌だった。ぼくも軍の学校で何度か聞かされた。大和魂を言いあてた名歌として、この歌は当時もてはやされ、若者たちを死に追いやる儀式の伴奏に、いつも用いられたのである。単に耳にタコが出来た、と嘆いてすむことではなかった。さくらの花のようにぱっと散れ、は当時の若者に押しつけられた死の美学だった。散りたくないものにとっては、この歌がどれだけ重荷になったか知れない。
 
秋成の毒舌は南畝にも及んで「胆大小心録 」の中で南畝のことを「狂詩狂歌の名高けれども下手なり」とある。しかし、宣長に大した時と違って愛情のこもった文章になっていて、気心の通じた交流だったようだ。なお、同じ「胆大小心録」で宣長が自画像に上の敷島の歌を書いたことについては「おのが像の上に、尊大のおや玉也」と書いている。

今の世の中、戦中派の人たちが生きていらっしゃった時は共通認識だったことに、異を唱える人たちが増えているようにも思える。戦争証言を一々否定していくような動きもあるようだ。ここ一年、近世の文献や狂歌を読んでみて、また今の世相を見ても、わが国の官僚が優秀でいられるのは太平の世の中が続いている時だけだ。ひとたび非常時となると、たった四はいで夜も寝られず、右往左往の割に何も出来ずにかじ取りが怪しくなるのである。明治回帰はとんでもない事で、再び大勢の若者を死なせる結果になりかねない。天災、疫病、経済不振による人心の動揺は確かにあると思う。昭和初期にも我が国が経験したことだ。今は注意しなければならない局面であると思う。若者を再び戦場に送り出してはならない。江戸狂歌の本を読んだはずであったが、感想としてはこう締めくくるしかないようだ。



夜鷹そばうり

2020-01-25 10:16:20 | 狂歌鑑賞
南畝を続けて読むのも早くも飽きてきた。ここでちょっと寄り道したい。

人倫狂歌集に夜鷹そばうりと題した歌が挿絵の歌も含めて十八首、この歌集はグーグル書籍検索で出てくるのだけれど、素性がよくわからない。挿絵の歌の作者、六桃園徳若は文化年間に活躍した人のようだ。この本は他のグーグル書籍とは順番が逆になっていて、下から上につながっている。したがってリンクのページから上に向かって、

 三十三丁裏 夜鷹そばうりの題と歌十一首
 三十四丁表 挿絵と歌一首
 三十四丁裏 夜鷹そばうりの続きの歌五首とあまさけ売の題と歌六首

となっている。下から上にスクロールして読んでください。読みに自信がないのが数か所あるのだけれど、とにかく夜鷹そばの歌十八首ならべてみよう。なお、作者名は読めないものもあり整理がついていないため省略とさせていただきたい。

  (三十三丁裏)

          夜鷹そはうり  

  風鈴の聲もしくれのよそはうり軒端に近き音たてゝゆく

  はなのさき落るやうなるさむさには夜たかそはさへ恋しかりけり

  かひ手よりおのれの腹をぬくめ鳥銭をつかみし夜たかそはうり 

  かさのあるよたかそはとてもりよりもはなからかけをたのむ折助

  風鈴の音に戸口へ出てみれは横町へそれし夜たかそはうり

  まへ髪をおろし大根の青やらうとかく夜たかのそはをはなれす

  よたかてふ名のそはうりてふる雪にゆきゝの人の腹ぬくめとり

  ひけ四つのかねより後は人通りきれてもあちのよきよたかそは

  おもき荷はとくうり切て夜やさむきふるうてかへる風鈴のそは

  雪風のさむさしのきは夜たかそはしらふのはらもあたゝめてけり

  よたかてふ名のつけはとてそは切の大根からみもはなへぬけたり

  (三十四丁表) 挿絵

  風鈴の音はかりかは人もみな舌をならしてくふ夜たかそは

  (三十四丁裏)

  冬なから夏のことくにあたゝかきそはにそしるき風鈴の音

  星ならて雪から出たる夜鷹そはしのゝめの頃荷もあけにけり

  名にしおふ夜たかそはとて是も又やはりこふしにすゑてこそ出せ

  一つかみもりて出しゝよたかそははしをうこかす處もみえけり

  さむき夜にねもせてまては二八にはねのなつてある風鈴のそは

  
ざっと見てまず目につくのは風鈴だろうか。ネットで調べてみると、夜鷹そばに対抗して風鈴そばが登場して、夜鷹そばより衛生的で少し高級、値段も高かったようだが、夜鷹そばも風鈴をつけるようになり、区別できなくなったとある。この十八首をみても、夜鷹そばと風鈴そばを別のものとした歌はなく、風鈴と夜鷹ともに入った歌が二首ある。この狂歌集の歌が詠まれたのはおもに文化年間以降と思われ、また守貞謾稿にも、

「江戸夜蕎麦ウリノ屋體ニハ必ス一ツ風鈴ヲ釣ル」

とあることから、江戸後期にはどの夜蕎麦屋台にも風鈴があったようだ。

次はメニューが気になるところだが、四首目の折助の歌に「もり」と「かけ」が出てくる。折助とは武家で使われる下男のことを言い、折助根性という言葉があるようだ。この歌では、最初から嵩(かさ)のある「かけ」と決めているのが折助根性ということなのだろう。また十七首目も「一つかみもりて出しゝ」とあって、夜鷹そばのメニューに「もり」は確かにあったようだ。ここで気になるのは、この十八首の大半が寒い冬の夜の歌なのに、冷たいもりそばを食べたのだろうか。江戸っ子が熱い風呂に我慢して入るのと同じように、いやその逆と言うべきか、雪が降る屋外でやせ我慢して冷たい蕎麦を食べたのかと思った。しかしこれは間違いで、当時は蕎麦を水でしめることはしないで、もりも温かい蕎麦だったようだ。また、二首に出てくる大根おろしも定番の薬味だったという。このあたりは、ネットで検索すると蕎麦研究家の詳しい記述が読める。先に登場したのが「もり」であるとか、知らない事が多かった。

「夜鷹そば」の縁語で面白いのは二首に出てくる「温め鳥」、これは鷹が冬の寒い夜に捕まえた小鳥で足を温めて、翌朝放してやり、飛び去った方向へその日は行かないといい、冬の季語となっている。また、十六首目の「こぶしにすゑて」も、鷹匠が鷹をこぶしに据えることをいっている。

また、夜鷹といえば、上方狂歌では辻君とあった、夜道に立って客を誘う娼婦のことだった。六首目の前髪をおろし大根の青野郎が夜鷹のそばを離れないというのは、この夜鷹をかけているのだろう。十一首目は夜鷹という名といいながら、大根のからみが鼻に抜けたとの関連がはっきりしない。これもこちらの夜鷹だろうか。はな散る、はなが落ちる(追記:二首目がこれに当たるのを書き漏らしていました)というのは、夜鷹にかかわる病気として出てくるのだけれど、はなへ抜けるも同じ表現なのかどうか、よくわからない。

前に書いた狂歌家の風の二八の君の回では二八蕎麦は有名だから楽勝かと思ったら調べるのに結構苦労した。このような類歌を先にまとめて読んでおけば良かったと思う。この狂歌集は面白そうな職業、また職業ではないが人を指す題がたくさん、ぢぢ、ばば、に始まって、口寄せ、ちんこきり、と出てきてびっくりしたが、これは賃粉切り、たばこの葉を刻む職業だそうだ。日なし貸し、という高利貸しも出てくる。時代や撰者がわからない狂歌集ではあるが、ぼちぼち読んでみたいと思う。


【追記】方竟千梅「篗纑輪」(宝暦三年刊) の鷹の項に、煖(ぬくめ)鳥についての記述がある。引用しておこう。

「煖鳥ト云ハ鶻(コツ)ト云鷹ニノミ有リトソ 此鷹小鳥一ツヲ捕エ夜中之ヲ以 足ヲ煖メ暁ニ至リ ユルシ放ツ 其小鳥東ニ行ケハ其日東ニ行テ鳥ヲ取ラズ西ニ放レ行ケバ西ニ行カズト云〻 凡鷹ハ性強悪ニシテ友禽ヲ食フ サレトモ天性義有テ寝鳥ヲ不取 胎(ハラメル)モノヲ不取 モシ胎鳥ヲ取ルトイヘトモ不殺シテ放チヤルト云〻」


(ブログ主蔵「わくかせわ 下」59丁ウ・60丁オ)

鶻は、はやぶさ、あるいはくまたかの訓があるようだ。鷹は性強悪だが義を持った鳥という認識だったようだ。


一休宗純の正月を詠んだ狂歌

2020-01-01 20:56:11 | 狂歌鑑賞
 新年のあいさつに代えて、タイトルの一休さんの狂歌を紹介しようと思ったのだけど、私の頭にあった歌は調べてみるといずれも一休さんの作かどうか疑わしいようだ。そのあたりのことを書いてみたい。

 まずは、「笈埃随筆」巻八に記述がある元政上人の歌、


  松立すしめかさりせす餅搗すかゝる家にも春は来にけり



国立公文書館デジタルアーカイブ「笈埃随筆」その4より、左端が引用の歌


私の頭の中にあった一休さんの歌は古今夷曲集に入っていて、


 餅つかずしめかざりせず松たてずかかる家にも正月はきつ
 

初句と三句が入れ替わって、末句も違っている。生きた時代は元政上人より一休さんの方がはるかに古いのだけど、元政上人が亡くなったのが寛文8年(1668)、古今夷曲集は寛文6年刊と微妙である。笈埃随筆はそれより約百年後であるから一見古今夷曲集の一休作が正しそうではある。しかし古今夷曲集は他の歌も作者が怪しいものが多数あり、心証としては一休作と主張する勇気は持てない。なお、元政上人の松立すの前のもう一首、


  あららくや人か人ともおもはねは人を人とも思はさりけり


は面白い歌だ。このような上人の人となりから、一休禅師と伝えられる歌を上人の作と記憶違いで入れてしまった可能性がないとは言えないだろう。しかし、だからといって古今夷曲集が正しいとは言いにくい。

次に、狂歌問答から、


 門松はめいどのたひの一里づか 馬かごもなくとまり屋もなし


下の句を「めでたくもありめでたくもなし」と記憶されている方もいらっしゃると思う。ところがこの歌も、一休さんの作ではなさそうだ。図書館のレファレンスでも上の句は諺という説と二種類の下の句について書いてある。また「狂歌詠方初心式」不吉の歌の事の項にも、


「又、俳諧師來山が歳旦の発句に

  門松は冥途の道の一里塚

 かやうに発句せし年身まかりけるよし」


不吉な句を詠んだらその年のうちに死んでしまったとあり、この上の句は来山の俳句としている。しかし、なぜこれらの歌を一休さんの作としてしまったのだろうか。

江戸時代、一休さんの道歌は人気があったようで、一休蜷川狂歌問答はベストセラーだったようだ。その中にも正月の歌がある。

 
 極楽といふ正月にゆだんすな 師走といへる地獄目のまへ


この本は明治の復刻版であるが、明治に入っても一休さんは人気だったのだろう。米屋や酒屋の取り立てが来ている師走の様子を描いた挿絵が入っている。そして、ここに入っている歌もどうやらほとんど江戸時代の作のようだ。このあたりが慣用句あるいはことわざが一休作歌に変化したからくりだろうか。

ここまで書いてきて、もうひとつ大きな間違いに気づいた。それは、一休さんの歌を紹介しようと思った時点で、正月らしいおめでたい雰囲気にはならない事は確定していたのではないか。これらの歌が一休さんの作でないのは私のせいではないが、一休さんの歌で2020年をスタートしようというのはあまりよろしい考えではなかったようだ。この点、新年早々ながらおわび申し上げます。そして、このようなブログではありますが、今年もよろしくお願いします。


【追記】 一休宗純著「一休骸骨」には骸骨の絵と共に歌が入っている。その中には、


  わけのぼるふもとのみちはおほけれどおなじ高ねの月をこそみれ


のような歌もある。この歌は幕末の長州藩士の作とする説など異説もあるけれど、上記リンクの編者は写本について「紙質などから考へても決して天文年間を下るものではない。」(リンクの3コマ目)と記述していて、また元禄五年の一休骸骨にも入っていることから幕末の作ではないようだ。ただし、この本はあくまで法話であって歌集ではない。一休さんオリジナルの歌ばかりで構成されているかどうかは確信が持てない。それにこの歌も末句を「月をみるかな」で記憶されている方が多いと思う。一休作と伝えられるものには、色々歌詞を変えて歌われる歌謡のような傾向があるのか、あるいは逆にそのような歌謡が一休作と伝えられるようになったのかもしれない。