このごろよくある詩。
ちっとも刺激のない陳腐この上ない詩。
それは、勘違いしている詩。
昔、学校で習ったままに、
詩とは、
「自分の感じたことを自由にのびのび書く」
といった代物。
学校教育の弊害。
詩を殺してしまいそうで、ちょっと言っておきたい。
詩をなめるなと。
そんなことできるわけがない。
それが絶対に不可能だから、詩を書いているのに。
●自分の
って、自分って、わかるわけがない。わからないから生きている。
ぼくは、なぜ豆腐が嫌いなのか、それすらわからない。
●感じる
って、感じても、それは言葉にすれば、ちんぷんかんぷんで
言語で再生、再生成、リプレゼンテーションなんて
できない。できるんだったら文学はとっくに絶滅している。
●自由にのびのび
言語は、言語表現の方法は、もはや枯渇していて
枯渇しているが故に、自由にと言ったとたんに人は、
既存の言語法の規範に緊縛される。
●書く
という方法も、どこにも保証はない。書かなくても、
あるいは、書かず、音楽にしたほうが、感情や感覚は、
より正しく、リプレゼンテーションできる。
いちがいには言えないけれど、
「わかりやすい詩」などと言う人たちにかぎって
こんのなことを言う。
それが不可能だから、詩を書いているのに。
「自分の感じたことを自由にのびのび書」いた詩など
読んだことがない。
だから書いている。
このわかりやすい命題を飲み込んで
それから詩を書いてくれ。
いや、書かなくても、音楽にしてくれ。