文屋

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●太宰の短編を読んで、ニューヨークを愛し直した。楽観するような馬鹿は滅んでいい。

2005年06月26日 21時31分59秒 | 日録雑感
焼酎は、二階堂がうまい。
そば。そばは邪道で、焼酎は、芋でしょ。
などという人がいるけれど、そばと米が好き。

飲みながら、だんだんと、ニューヨーク
を思い出してきている。あの町は、あんな町ではないと。

90年ごろに3度たてつづけにニューヨークに行った。
そのころは、ラウシェンバークのアトリエに行く機会があったり
カリやドクタージョンや、ジャンポールブレリーのライブを聴いた。

旅がつまらなくても、少し時間が経つと、逆旅愁が訪れる。

順旅愁とは、まっとうな旅の思い出だが
逆旅愁とは、愛のない、旅の記憶。
愛がないからこそ、旅愁は、クールに恋しくなる。

今回のニューヨークの白眉は、
アムステルダムアベニューだった。

昼下がり、歩きつかれて行った、アムステルダムアベニューの
店。そこでただじっとして、食事をした時間。

ああいう時間が、旅の白眉になる。
きょう、白川通りの文庫堂で、200円の古本を買った。

昭和15年前後の太宰治の全集。

闊達な文章だ。パンクだ。太宰というやつは。


ニューヨークのジャズ、あるいは、ジャズはもう終わっていた。

それは悲しかった。俺の歳が、もう、この町の
だるい素敵にもうあわなくなったのか。
そう思っていた。でもこのだるさ、
2005年のアムステルダムアベニュニューにはまだあった。

昔、セントラルアベニューの「歪んだ松」を見た時に
この町の底力を感じた。

この自然の腰力が、ポップアートや現代美術の力を支えていると
思った。ラウシェンバーグの諦念もそれは、
戦中に溺死のように死んだ太宰治のように
美しく、人の美感性をやわに殺していた。

アムステルダムアベニューのイタリアンレストランの昼下がり
その前にいまもあった、歪んだ松。

そりゃ、歪んだ松はあるよね。

あれは、メトロポリタン美術館を後方から見ただけの
ただの諦念の光景であったにすぎず
ぼくの死の願望をただ正確に写していた。

どこかの都市の生きても死んでもどっちでもいい
諦念の午後など、だれが弁解できるものか。

それを思い出させた。

さすがだよ。ニューヨーク。
オポチュニストをただ殺したい昼下がりならば
この街だね。それを思い出させた。

太宰の力かもしれない。
腐ったオポチュニスト。腐れ。

ニューヨーク、愛してる。

昨日、ライカのポジを見直して、涙した。