長電話

~自費出版のススメ~

鳥は鳥に

2011-03-23 | メディア
中日の森野選手が開幕について「復興が始まった段階で開幕すればいい」と持論を述べるとともに「球団は野球で営業しているわけですし、僕たちはそこから給料をもらっている。選手が『やりたくない』というわがままを通してはいけない」と続けました。

電力不足は来年の夏まで続くとの発表が東電からなされ、復興が始まっても関東・東北では試合をおおっぴらにできるような環境にはならないことが分かっています。電力供給が整うのを待てというのであれば、今年は関東にあるドーム球場(東京ドーム、西武球場)では試合ができないことになります。

特に巨人は代替球場がなく、これから神宮や横浜スタジアムと日程調整するのはまず不可能でしょう。

政府も野球を止めろといってるわけではなく、電力需要の多い時間帯での関東でのドームの使用に懸念を示しているだけです。(ドームでのオープン戦は既に自主的に中止しています)

読売のフロントはともかく、選手は開幕に合わせて調整しているわけですし、機構側もマッチメイクや日程の消化、球場の確保、それに伴う人員の配置などを一からやり直さなければならず、それはそれは大変な負担で、不可能といってもいいレベルでしょう。

朝日新聞の西村というスポーツ担当は、「文科省、セの横暴を許すな」と、世論が味方と見るや調子に乗った記事を連日垂れ流していますが、横暴で横着なのは西村の方で、そんなこと言ったら、「ぼくたちにできること」といって巨大電力を消費してありきたりなメッセージを伝える芸能人やテレビ局までをも糾弾しなければならなくなります。

明らかにプロ野球という職業に就いている人達を小馬鹿にし、有事の際に出る本音「たかがスポーツ」という意識がミエミエでうんざりします。選手のコンディションや機構側の労苦を斟酌すれば、この件はあまり非難がましく過激に言うことではないのです。

森野選手の発言のように、今は状況が落ち着かず、パニックになりやすい心理状態の観客へのセキュリティの確保も万全とはいえない中、開催を遅らせるのは当然でしょう。

刀鍛冶職人が黙々と刀を仕上げるように、野球というジャンルの仕事に打ち込む森野選手のいかにも中日らしい職人気質がでているこの発想は、机上でどこかで見たことのあるようなデジャブ記事を書くだけのえせジャーナリストよりずっと尊いものです。

行政に白紙委任してきた私達のつけ

2011-03-21 | メディア
原発問題に関して、枝野さんの活躍は好評ですが内容は官僚からの説明を噛み砕いて説明しているだけで、すべてを信用できるものではありません。

同じく「安心・安全」を安売りしているNHKで解説する御用学者達は原発利権を握る日立や三菱、東芝、旧帝大系の回し者だろうし、東電は天下りポストだし・・・。彼等は上ってくる情報を沢山の背景を勘案して「政策」を判断する立場であって、現場のことはあまり知らないと思われ、「対策」を提案することも指導できる能力もなさそうです。警察ドラマで悪役を演じることの多いキャリアみたいなものでしょう。

山火事に放水しているような(これまた原発対策ノウハウのない)自衛隊の活躍にやんやと喝采を送っている国民の多くも、あれがあまり意味のないパフォーマンスに近いものであるどころか、地下水や海水を汚染してしまう(もちろん魚達も被爆してしまう)ことにそろそろ気づきはじめています。

その上、廃炉は当然で(その判断が遅い)その始末として早急にコンクリートで固めるしかないのに、水を撒いたためにコンクリの固まり方が弱まってしまうことになるでしょうし、なによりも自衛隊にそういったことを知らせずに、無駄に命がけの作業をさせていることは犯罪的ではなく犯罪です。

政治家や官僚は、原発やその事故による被害の拡大ではなく、深刻な見積もりによるパニックをもっとも怖れています。確かに初動の段階ではそういった冷静で落ち着いた態度で情報を一括し統制することは必要でしょう。しかし地震発生から既に一週間が経っているのですから、そろそろ事実を発表する時期ではないでしょうか。

もし本当にあれだけしか情報を把握しておらず、あれでベストを尽くしていると思っているとすれば、政府は機能していないと考えるのが妥当で、パニックがもっと悪い形で起こることも想定した上で、各自行動した方がよいかもしれません。

確かに想定外だったのでしょう。欧米では100年に1回の災害に対する用意は「仕方ない」と諦め、無駄を減らします。やはり国民が拍手喝采した民主党の事業仕分けもそういった発想で貫かれていました。そして今回の事故でその匙加減がいかに難しいかもよく分かりました。

温暖化で原発が推進され、私達は行政に白紙委任し、広瀬隆氏を変わり者として無視してきましたが、例えば「温暖化はCO2が原因ではなく、温暖化が原因でCO2が増えたんだ」なんていう発想(私はこれが正しいと思う)が流布し、この事故を境に力を持ったりすると、人々は原発忌避感情から、またそれに飛びつくかもしれません。

これもまた政府や利権団体が恐れるパニックのひとつでしょう。

読売フロントの恥ずかしいセンス

2011-03-19 | メディア
一週間後に迫ったプロ野球の開催の是非について、コミッショナー、セ・パオーナー及び選手会での現状への見解、見識の違いが浮き彫りになり、「とにかく何か文句を言いたい人」も含め紛糾しております。

これは東京から疎開し、久し振りに実家に帰ったのに、この状況で親子喧嘩してるようなもので、節電に血道をあげる東日本の人々からすると、開催した場合の実際の影響がどれほどのものかは分かりませんが、「あほらし」い話ではあります。

予定通りの開催派は、建前として「復興への側面支援」を強調しますが、前選手会会長・ヤクルトの宮本氏は、「思い上がらない方がいい」と延べ、実は動機の不純なオーナー達を牽制しています。多くの人は宮本氏側に立つでしょうし、さっそく文部科学大臣から自粛を迫られることになってしまいました。

巨大電力を消費する1万人を軽く超えるイベントが、それも毎日開催されるのがプロ野球の興行です。民放テレビ局だって無駄に下らない放送を続けていますし、読売という愚かな会社ながらその大きな影響力に気遣う他テレビ新聞系列各社は、事実を伝えるだけのものが大半で、強い非難はしていないようです。

その是非は視聴率や足を運ぶ熱心なファンの寡多でも判断することは難しいでしょう。節度の側面からでも経済効果の側面からでも、正当化はしようと思えばなんとでも言えるからです。

ただけしからんのは、開催強硬派が3・11地震に対して9・11米同時多発テロの際に大リーグコミッショナーのセリグ氏が出した談話を引き合いに出して、開催の正当性を担保しようとしたことなのです。

「野球は小さいけれど、人々が悲しむとき、連帯するとき、特別な役割を果たすことができる。米国そのものに似て、野球は人々を鼓舞することができる」

事件当時のアメリカは、星条旗をよって立つところとして全土で連帯を示し、野球という日常を貫き通し、テロリストたちに微動だにしないアメリカとして平和的示威をするという意味がその言葉に、力強く込められていました。

しかし、今回の日本の災害の敵は自然であり、それによる放射能であり、電力低下です。具体的にどうこうできる相手ではないと、人々の攻撃は内面(個人の葛藤やストレスだったり、政府だったり)に向かいます。日章旗によって連帯できない日本人のジレンマが、このさもしい議論を呼んでいるのかもしれません。

語るに落ちたというべきか、「批判を覚悟の上」というコミッショナーの発言通り、イメージを落してまでやらなければならない事情を糊塗するのに、あの時のアメリカの心理や姿勢を闇雲に引き付けて利用するというのは、この世界が注目する中での発信として最悪のものであり、震災後もっとも恥ずかしい日本人を見たような気がしました。

買い占めと買い溜め

2011-03-16 | メディア
地震や原発事故の報道は、単純に被災現場をニュースとして受け取るだけではなく、自分をその立場に置き換え、現状を教訓として今後にどう活かしていくのかという目で見ている人も多いと思います。いまだ地震は落ち着かず、放射線への不安も増しており、誰もができることならばと西への移動を望んでいることでしょう。

そんなやるせない不安を反映してか、都内のスーパーやコンビ二から非常食料的食材や電池や蝋燭など被災した場合の必需品が消え、大臣が「買い占め」への懸念を表明したりしています。しかし果たしてこれは「自分本位の独占」を意味する「買い占め」に当たる現象なのでしょうか。それに都内の「買い占め」が被災地への支援への悪影響を引き起こすというのは本当でしょうか。

答えはどちらも「No」です。

まず被災地への物流と東京への物品の供給は別ルートであり、そもそも東京で既に陳列された品物を買っても予定の在庫がピストンよろしく早めに処分されるだけで、災害さえおきなければそれ以上の需要は起こりません。

店頭で品薄になっているのは、日持ちのする防災グッズ的な商品であり、生鮮食品は十分残っています。つまり普段カップラや、電池など見向きもしない人達が普通に購入しているのであって、足りないものを補充するという行為が一斉に起こったに過ぎないのです。(多くの人が防災対策をしていなかったとも言えます)

古くはピーターフランプトンの「カムズアライブ」やフリードウッドマックの「噂」、あるいは村上春樹やの著作や「バカの壁」など、大ヒットというのは「普段音楽なんか聴かない」人、「活字なんか読まない」人によって作られます。

バーブラストライザンドとか、セリーヌディオンが好き、なんて人は音楽が好きでしょうか。それはサザエさんが高視聴率だからといって、先週のストーリーを誰も覚えていないのと同じことなのです。

えーっと・・・。

ま、現象としては東京の自分勝手な買い占めによる品薄から被災者をさらに苦しめる、なんて構図はないということです。計画停電もあるし、被害の拡大も見込まれる今、多少の備蓄をこの際用意しようという行為はむしろ健全なことじゃありませんか。

一人暮らしは「生活」という名に値するようなものではありませんので、私は毎日3パックは摂取する大好きな納豆が手に入らなくなって少々つらくはありますが、被災者に影響がなければ例え「買い占め」があったとしても、どーでもいいことなのです。

つらい現場の外で思うこと

2011-03-14 | メディア
政府発の情報をしきる枝野官房長官のしっかりとした口調、滑舌、声質。下から上げられる情報を理解し、事態を掌握した上で発表すべき事柄を腑分けしていると思わせる、原稿を見ずに質問に淀みなく答える彼の態度には非常に感服させられます。

人材に乏しい政界にあって、情報の正確さ・スピードとは別に、司令塔として彼のような過剰に神経質ではない福耳の、安心感を与える公私の区別のない、政府広報という立場を理解しているキャラがこの非常時にその任に当たっていることの幸運さを感じ入ります。

こういったカタストロフ的状況下で、情報の一端に過ぎないとはいえ、政府発表にある程度信頼がおけるということはとても大きなことです。言質をとられまいと「慎重さ」が「用心深さ」につながる官僚・議員が多いなか、この誰も経験したことのない状況下での現官房長官の仕事振りは十分なものでしょう。

混乱は犯罪の温床となる可能性を大いに孕み、今もチェーンメールの類が善意を刺激しています。東京電力などの遅くみえる対応や連絡の不徹底に憤る向きもおられるかもしれませんが、オフィシャルでない情報は確認が必要です。なにより被災地の外にいて、被災地のために個人でできることは、今は何もないことをまず自覚し、あせらず事態に対応したいものです。

金曜日の夜の歩いて家路を急ぐ整然とした人達、中国メディアに「中国人には50年たってもできない」と言わしめた交通整理なき道の譲り合い、略奪はおろか買占めすら起きない(買い留めはありましたが)静かな生活、強い地震にもケロッとしている高層ビルをはじめとする日本の建築技術など、情けない政治や経済とは別のところで日本が立国していることに気づくと共に、凶悪犯罪が強調され続け、失われたと思われていた昨今の日本のゲマインシャフト(友情に基づく有機的共同体)の意外なしたたかさに驚きます。

ことこれに関してはは、中東で流行する革命にも良い影響を与えるかもしれません。

CGじゃないってば

2011-03-12 | メディア
自転車で青山を走っている時、目の前を歩いていた男女が顔を見合わせて立ち止まり、歩道にいる自分を棚に上げ「道路ふさいでんじゃねえよ」とイラっとした次の瞬間、地震が始まりました。屋外で地震を感じたの生まれて初めてです。

急いでいたので私は気にせず自転車を走らせたのですが、赤信号で止まると、自動車側の信号がゆっさゆっさ揺れているではありませんか。白布をかけたまま飛び出した理容室の客、抱き合って不安そうにする恋人同士、泣き出す子供、次々と路肩に寄せて停まる車。

うららかな日和なのに空には一部黒い雨雲があり、時々小雨がぱらついたりと、おかしな天気だなとは思っていたのですが、なるほどこういうことか、と妙に納得しながら私は、ぞろぞろとビルから出てくる人々を横目に車道に降り、先を急ぎました。

目的地のビルでも同様、エレベーターは止まり、中に入れなかったのですが、丁度クライアントが出てくるトコロに遭遇、横にあるミッドタウンの広場に集まった人垣の中から、直後から使えなくなった携帯なしで彼女を探す覚悟もあったので、一安心。

情報が全くない状態で、「東京が震源でこの程度の揺れだったらいいんだけど」と言った彼女の心配は当たり、家に帰ってひっくり返ったテレビを立て直し、引きちぎられたプラグを付け直して見てみると、戦争でもやってたのかという、リビアのような映像の氾濫に驚き、そこで初めて事の重大さを認識しました。

テレビは文字だらけで見づらく、津波情報のための日本地図も(北方領土を入れてるせいなのか)位置が悪いし、おまけに何があっても普段通りの「テレビ東京」や「教育テレビ」まで地震報道をやっていて、選択肢がまるでないという状態になり非常に目が疲れるので、私は穏当な音楽と時々情報という落ち着いた構成のFMを聞きながら夜を過ごしました。

この地震が、福島の原子炉のメルトダウンや、富士山噴火にまで連鎖するのではないか、等いまだ続く余震の中、いろいろと心配の種はつきません。亡くなった方のご冥福を祈りつつ、行方不明の人達、対策に従事される方々の無事を願うばかりです。

sengoku38の本音

2011-03-09 | アート
私はデブでメガネの男性が好きです。つまり田口浩正が、また松尾諭 が好きだということです。

とはいえ、デブセンのホモというわけではありません。

デブがメガネを曇らせて必死に踊ったり、緊張が解けてほっとして微笑んだり、でぶ特有の喉に肉のつまった声で何かを訴えたり、と、そういった表情を見ているだけで涙が出そうになるのです。

最近、最近では最もホットなデブを、確認することができました。

それはテレビ「SP]で、(松尾演じる)デブが非番の日にしっかりした感じの彼女と映画を見た後、ラーメンを一緒に食べるシーンであります。

まず、危険なSPの仕事を辞めてほしいと願う彼女の強い要請に、後輩の(岡田演じる)井上への心配を理由に応えられず、そこを責められ食事を中断し逡巡します。

彼女は「そんな人(井上)なんかどうだっていいのよ、あなたさえ無事であればいいの」と発言。私は結婚を前提につきあう現実的で凡庸な女の、ひいては自分の生活にかかわることを理由に気遣う男への打算的心配の形なんてこんなものだよな、と経験に照らして考えましたが、次の瞬間この彼女は、

「でもあなたに余裕がある時は、ちょっとくらい助けてもいいのよ」と言うではありませんか。

その言葉を聞いたデブは、ホットしたように安心の笑顔を見せ、再びラーメンをおいしそうに食べ始めます。

(堤演じる)尾形と井上の「なぜSPになったのか」というお互いへの問いに、尾形は「大義のため」といい、井上は「身近な人を守るため」と言います。

デブの彼女も同じ見識で、「私にはどうしようもない世の中の不幸は沢山ある、でも私は好きなあなたには無事でいてほしい」と願う。「身近な人さえ幸せでいてくれれば」という発想は「井上」と同じことを言っていたのです。

これは「政治家」を守る仕事をしていながら、「国家」など守っているのではない、ということであり、愛国を行動原理とすることへの疑問が提示され、クリントイーストウッドの一連の映画のメッセージにこの作品のテーマが連なることを示しています。

愛しきデブ見たさ、という動機ながら、なかなかよいものをみることができました。

水清きところに魚住まず

2011-03-08 | 政治
エジプトは古代エジプトの「エジプト」、チュニジアは世界史で習う「カルタゴ」です。ではリビアは?というと、空き地みたいなもので、文化的には「不毛」なのだそうで、あのような暗愚な指導者を戴くのも、地政学的には自然な流れと言えるのかもしれませんし、またカダフィーは欧米によって不自然にしかれた国境から生まれたフリークスなのかもしれません。

リビアの首都トリポリは三つの首都(トリオ・ポリス)を表し、いかにも背伸びした印象で、そんな背景がある以上その指導者のコンプレックスの過剰さも無理からぬこと。

リビア人で私の知っている有名人はカダフィーしかおらず、批判や検討を初めて経験する国ならではの人材不足を露呈しており、いかにも腑に落ちる体制の悲惨な現状は、あのような指導者を長年野放しにするしかなかった、国家の概念の薄い遊牧民の国、部族社会ならではのことなのでしょう。
 
翻って日本は、長年議会があるにも関わらず、CIAの手先であった岸政権以降、アメリカの支配が確立され、リテラシーを放棄した国らしく決定権がないが故に判断の幅が狭くなり、「木を見て森を見ない」人たちばかりが溢れ、興味の対象は重箱の隅にしかなくなり、結果潔癖症的な雰囲気がおおらかな政治風土を奪ってしまいました。「貧すれば鈍す」の典型ですね。

政治家はどんな案件でも与野党攻守を変えれば、顔が違うだけで言うことは同じです。そんな自覚もなく、敵失のおかげで余裕あり気な自民の(石破政調会長以外の)執行部を見ているだけでぞっとします。政権獲得、そして顔のない仲間の当選の為には「国民なんかどうでもいい」という精神状態に陥っているのでしょう。

100回以上の訴追歴を誇るイタリアの首相は、どうやら政権危機を脱したようですし、カダフィーもあっさりとは政権を譲りません。日本の外相の辞任もその理由も、かの国では俎上にすら上らないほど小さなことでしょう。代表(つまり首相)投票権を持つサポーター(党員のようなもの)に外国人の参加を許しているくせにいまさら何を騒いでいるのかといったところです。

日本人の多くはそのよく解からない病的な潔癖さによって表層の灰汁だけを越し取り、絶対安全王子様の日本ハムの斉藤にうつつを抜かし、大相撲春場所を中止に追いやったことを忘れ、国民あげて追いつめている小沢一郎氏の訴追内容の吟味もせず、漫然と花見の季節を待ち焦がれています。

犬も歩けば、猫も歩く

2011-03-04 | メディア
子供は好きなのに、大人は好んでは食べないもののひとつに「ハンバーガー」があります。私ももう半年ほど食べていません。

それでも私は、モスバーガーはもちろん、フィレオフィッシュだって好きだし、上品なケンタのハッシュドポテトより、カリカリしたマクドナルドのポテトが好きだったりします。

しかし、ときどき行き当るあまりに不味い、とてもビーフとは思えないハンバーガーの材料を疑う事もあり、そんなときはいつも、大学生の頃に聞いた「これは猫か鼠の肉じゃないか」と調べた大学教授のことを思い出します。

結果的には「無罪」。話のネタとしては、味に神経質な教授が調べたんだから、「クロ」で巨大資本の横暴というテーマで社会問題になるオチじゃないといけませんが、シロ、確かに牛肉ということでした。

ただ、それじゃ納得がいかないというか、話に娯楽性がありません。

教授が「猫か鼠の肉ではないか」と疑ったのは「猫や鼠の肉」を食べたことがあって比較したわけではなく、当時200円もしたハンバーガーの肉なのに、あまりにも不味く、とても(当時贅沢品だった)牛肉だと思えなかったからでしょう。

つまり、いわば猫(鼠)味のビーフだったということです。

これはいわゆる究極の選択とかいってもてはやされる「カレー味のうん○と、○んこ味のカレー」問題と同じですが、カレー問題の場合その現実感のない設問の不適切さで、犬が好きか猫が好きかと質問し、こちらの性格を推し量ろうとする輩と同じ匂いがする、その不快な例えよりずっと、現実感のある例です。

これからは、カレーの例えは止めて、猫(鼠)味のハンバーガーか、牛風味の猫(鼠)を使ったハンバーガーかで「あなたならどうするう」問題を問われるべきでしょう。

西武を買い上げその負債を完済したウォルートの攻勢が始まろうとしています。

日本人の理解できる味覚の微妙な機微を損なうような、貧乏人相手だからといって、娯楽性を隠れ蓑に不味い料理をガソリンのごとく供給する「巨大資本」を『連帯』して撃つことも、イタリアのスローフード運動のようなひとつの見識として必要なのかもしれません。