長電話

~自費出版のススメ~

鈴木先生 Lesson11

2013-07-12 | アート
こういう低予算で、ロケハンもCG処理も必要のない学校や公園が舞台の作品では、カメラワークや脚本がクオリティを担保することになり、金にものを言わせた演出や話題作りのためのタイアップ主題歌の要請がないためか、2時間ドラマ的になりやすく、突っ立って台詞をしゃべり、身体の動きが少ないシーンが多いこの作品を映画にするという企画が持ち上がった段階でスタッフは、どのようにして「映画」に仕上げるかに悩まれたと思います。

朝の連続テレビ小説が台所に立つ主婦のため、あまり映像を見なくても筋が分かるようナレーションを多用したり、不自然な台詞の挿入で物語を展開するように、テレビドラマというものは映像的である必要はなく、よって作品は演出家ではなく脚本家のものとされます。

しかし、テレビでありながら極めて映像的であった「鈴木先生」のスタッフは、そもそも映画を撮っている感覚で脚本を作り映像を構成していたのですから、素材が「映画」であっても、そのスタンスをあまり変える必要はなかったのかもしれません。

脚本は、正しい事をする人物や、表現の上手な人物を、とりたててヒーローとして扱わないというテレビシリーズからの方針は踏襲され、喫煙室の先生仲間や足子先生もまた、それぞれ本人にとってベストと思われる行動をみせ、誰もが憎しみや怒りを上く回避しながら物語を収束させております。

カメラは、薬師丸ひろ子の「セーラー服と機関銃」を思い出す、相米さん的なアップの少なさと長回しで、観客は演劇を見るように観念的に俯瞰させられ、登場人物を中立的に捉えられる映像で、「壊れることを許さない」「グレーゾーンの維持」「立場を演じる」というテーマを表現しています。アップの編集による感情の操作をあくまで拒み、穏やかに抑制された印象に止めようとするスタッフの意志が感じられるところです。

また、エンドロールの生徒たちの映像が素晴らしく、そこにいない鈴木先生の教室に参加したもの達のレッスン1からの成長のエピソードをもう一度見たくなりました。

映画はフィクションであると同時に役者を映すドキュメンタリーであり、エヴァの子供達の年齢を、この映画を通して幸福に過ごした彼らの今後の現実での展開がとても楽しみです。

アラブの長すぎた春と日本の長すぎる平和

2013-07-09 | 政治
ブレーンが偏っているのか、自民党の「近代憲法」に対するイノセンスな姿勢も相当なものですが、相変わらず利権にまみれた軍を呼び出すことによって政治を調整する、エジプトの「憲法」意識も相当なもので、イスラエルやアメリカのプレゼンスによる特殊事情があるとはいえ、「アラブの長すぎる春」の破綻は収束へのイメージの持ちにくいものがあります。

乱暴だけどアメリカの国益を確保する独裁者と、愚かな国民との組み合わせがベストと思い推進してきた20世紀アメリカの海外への関与方針によって生まれたピノチェトやフセインのような非人道的連中を大量生産する時代が終わった転換点へのストレスと、このクーデターを捉えれば、少しは気が休まるってものですが、理念だけあって実行力に乏しかった日本の民主党の政権交代による悲喜劇にも似たエジプトの政治状況は傷ましくもあり、またブラックユーモアのようでもあります。

エジプトの軍人は投票権を有さず政治にも関与しません。文民統制にも興味を持たない国民により神聖化されているそうで、暴力が民主主義を担保するという、かつての日本や少し前のトルコやタイの軍隊の位置づけと近いものです。

こういう軍を最後に当てにするやり方を繰り返す国は、概ね憲法停止を繰り返し、議会が育たず結局求心力のある野党が成立せずに、革命をしたとしてもその受け皿がないものですから、今回のエジプトのような事態になります。

記者クラブ主宰の党首討論にて、総理の特殊な憲法観の披露を受けても、まったく違和感を感じず、それを取り立てて報道することのないマスコミに支配された日本人の憲法改正に対する問題意識を知るにつけ、経緯はどうあれ、しっかりした憲法を既に持つ幸運に恵まれ、ほんとに助かったなと感じ入ります。