こういう低予算で、ロケハンもCG処理も必要のない学校や公園が舞台の作品では、カメラワークや脚本がクオリティを担保することになり、金にものを言わせた演出や話題作りのためのタイアップ主題歌の要請がないためか、2時間ドラマ的になりやすく、突っ立って台詞をしゃべり、身体の動きが少ないシーンが多いこの作品を映画にするという企画が持ち上がった段階でスタッフは、どのようにして「映画」に仕上げるかに悩まれたと思います。
朝の連続テレビ小説が台所に立つ主婦のため、あまり映像を見なくても筋が分かるようナレーションを多用したり、不自然な台詞の挿入で物語を展開するように、テレビドラマというものは映像的である必要はなく、よって作品は演出家ではなく脚本家のものとされます。
しかし、テレビでありながら極めて映像的であった「鈴木先生」のスタッフは、そもそも映画を撮っている感覚で脚本を作り映像を構成していたのですから、素材が「映画」であっても、そのスタンスをあまり変える必要はなかったのかもしれません。
脚本は、正しい事をする人物や、表現の上手な人物を、とりたててヒーローとして扱わないというテレビシリーズからの方針は踏襲され、喫煙室の先生仲間や足子先生もまた、それぞれ本人にとってベストと思われる行動をみせ、誰もが憎しみや怒りを上く回避しながら物語を収束させております。
カメラは、薬師丸ひろ子の「セーラー服と機関銃」を思い出す、相米さん的なアップの少なさと長回しで、観客は演劇を見るように観念的に俯瞰させられ、登場人物を中立的に捉えられる映像で、「壊れることを許さない」「グレーゾーンの維持」「立場を演じる」というテーマを表現しています。アップの編集による感情の操作をあくまで拒み、穏やかに抑制された印象に止めようとするスタッフの意志が感じられるところです。
また、エンドロールの生徒たちの映像が素晴らしく、そこにいない鈴木先生の教室に参加したもの達のレッスン1からの成長のエピソードをもう一度見たくなりました。
映画はフィクションであると同時に役者を映すドキュメンタリーであり、エヴァの子供達の年齢を、この映画を通して幸福に過ごした彼らの今後の現実での展開がとても楽しみです。
朝の連続テレビ小説が台所に立つ主婦のため、あまり映像を見なくても筋が分かるようナレーションを多用したり、不自然な台詞の挿入で物語を展開するように、テレビドラマというものは映像的である必要はなく、よって作品は演出家ではなく脚本家のものとされます。
しかし、テレビでありながら極めて映像的であった「鈴木先生」のスタッフは、そもそも映画を撮っている感覚で脚本を作り映像を構成していたのですから、素材が「映画」であっても、そのスタンスをあまり変える必要はなかったのかもしれません。
脚本は、正しい事をする人物や、表現の上手な人物を、とりたててヒーローとして扱わないというテレビシリーズからの方針は踏襲され、喫煙室の先生仲間や足子先生もまた、それぞれ本人にとってベストと思われる行動をみせ、誰もが憎しみや怒りを上く回避しながら物語を収束させております。
カメラは、薬師丸ひろ子の「セーラー服と機関銃」を思い出す、相米さん的なアップの少なさと長回しで、観客は演劇を見るように観念的に俯瞰させられ、登場人物を中立的に捉えられる映像で、「壊れることを許さない」「グレーゾーンの維持」「立場を演じる」というテーマを表現しています。アップの編集による感情の操作をあくまで拒み、穏やかに抑制された印象に止めようとするスタッフの意志が感じられるところです。
また、エンドロールの生徒たちの映像が素晴らしく、そこにいない鈴木先生の教室に参加したもの達のレッスン1からの成長のエピソードをもう一度見たくなりました。
映画はフィクションであると同時に役者を映すドキュメンタリーであり、エヴァの子供達の年齢を、この映画を通して幸福に過ごした彼らの今後の現実での展開がとても楽しみです。