長電話

~自費出版のススメ~

バルサ敗退の教訓

2010-04-30 | スポーツ
今年のCLの(ここまでくれば)事実上の決勝戦といえる「インテルvsバルセロナ」のセカンドレグは、イタリアらしい「勝ちゃあいい」という戦術にバルサが攻め倦み、試合は負けたのですが、モウリーニョの知性とチームの運による2戦合計の結果で、インテルがサンティアゴ・ベルナベウへの切符を手にいれました。

今回のバルサは、ファーストレグが、アイスランドの火山の影響で15時間に及ぶバス移動を強いられたこともあり、コンディションが整わず惨敗。

セカンドレグでは早い時間に退場者がでたことからインテルは下手に攻撃することをやめてしまい、ひたすら10人でゴールを守るという展開。

そのうえ、バルサのダイナモであるイ二エスタがいないなかでの戦いでした。

日本がワールドカップ予選やアジアカップで苦しむ、弱いチームがアウェイで使う、ポゼッションを最初からあきらめた守備サッカーを、世界最高峰の舞台でやってしまったのですから、バルサに象徴されるスペクタクルサッカー全盛の流れに影響を与えるかもしれません。

いい加減趣味のサッカーはやめて、現実をみつめた戦術を選択してもらいたいものだと思っていた日本代表も、事ここに及んで守備サッカーをやるなどという報道もあります。

ただ、スポンサーから使う選手までも指名されるという日本の代表監督の自由度の少なさも気の毒ですが、モウリーニョのようにチームを掌握する能力のない今の監督の指導力では、選手は提示されたどんな戦術も信頼することができないかもしれませんが。

馬鹿な娘ほどかわいいか?

2010-04-27 | 政治
参議院議員選挙が「非拘束式名簿式」の採用によって、有名タレントの立候補が増え、かつての全国区のような人気主義に偏っている、との指摘をうけて久しいのですが、目立つのはその業界において旬を過ぎた人ばかりで、人生のお祭り、業界の村おこしといった動機が見透かされ、タレントの墓場として機能する国会議員が失笑の対象となっております。

とはいえ、業界的に面白い人は、談志ややっさんがそうだったように、政治家には不向き。逆に石原慎太郎や西川きよしなど、才能は別にして面白くない人間は向いており、功罪はさておき影響はあるわけですから、タレントとしての実績と議員としての活躍は反比例するものだとすれば、タレント議員の存在もまったく嘆かわしいともいえないのかもしれません。

さて、今回の選挙で一番驚いた候補者は、岡部まりです。

長年関東圏にいる私には「秘書」として長年勤め上げた「探偵ナイトスクープ」ではなく、「丸井サウンドロフト」や「気ままにいい夜」における有能なインタビュアー、アシスタントとしての彼女が印象に残っています。

特に「気ままにいい夜」での、それまでの添え物としてのアシスタント像を覆す、控えめながら、村上龍の有能な秘書としての振る舞いは水際立っておりました。

彼女は音楽評論家(実際は実業家ですが)の渋谷陽一と同じく、アートを理解することはできても、作品を創造する動機を構成することのできない「才能」の持ち主という、コンプレックスを活動の核とした人物といえます。「才能」がないことによって得たビヘイビアである、他人を立体的に理解、説明しようとする態度は「編集者」のもので、そこに岡部まりの真骨頂があります。

「気ままにいい夜」のゲスト達は、話を聞いてくれて、さらに酔って混乱し、散らかった自身の言葉を、適切な表現でまとめてくれる「いい女」の存在に、自分が理解されたと上機嫌となる、というシーンが何度も見られ、主宰でありながら自身の「存在感」にこだわらない村上龍のスタンスもあって、岡部まりが番組をとりしきっていた印象がありました。

そういう意味でいえば彼女は、発想や会話の痕跡をトレースする能力(聞き上手の才)があるのでしょう。実に政治家向きのようにも思えます。

ただ彼女の興味は「アート」であり「政治」ではありません。あの日本の醜い政治家達の中に彼女がどのような立ち位置を求め、そして果たしてそれは得られるのか。実に興味深い候補者です。

私は自分の名前を繰り返し叫び、不特定多数の愚民に頭を下げる彼女の活動風景をうまく想像できませんし、そんな彼女を見たくありません。

それにしても「男日照り」の感のある社民党から出馬する女性と、自民、民主からでる「男好きのする」女性のタイプの違いもまたこの国のジェンダー文化の反映なんでしょうか。まったくもってうんざりする風景です。

オバマ大統領とトニーレオンは兄弟か

2010-04-21 | アート
「トニー滝谷」という、村上春樹の短編を映像化した、昨年亡くなった市川準監督による作品があります。「スタティック」とか「静謐」を絵にした、シリアスで、カラーでありながら、硬質でモノクロームな印象のある映画です。

坂本龍一が音楽を担当していることもあり、鑑賞する機会を得たのですが、これが予想以上によく、イメージとしてはウッディアレンの「インテリア」を彷彿とさせる「哀しく」「美しい」映画に仕上がっており、繰り返し耽溺させていただきました。

主演のイッセー尾形はカメラに目線を合わせることなく背を向けたまま、作品の当事者であることを拒むような演技を続けることによって、独特の「ソリチュード」感をかもし出していて、好きな映画に掲げるに適当な映画となっております。

昨日、鳩山総理を「あきらめかけている理想主義者の表情をもつ」と持ち上げましたが、この作品の主人公のもつ疎外感は、鳩山さんがどうかは別にして、まあその表現がぴったんこな男なのです。

現在、世界でもっとも有名な理想主義者でありながら、経済的逆境のなか大統領に就任してしまったオバマ氏、そして受身でありながらも可能な範囲内でベストを尽くそうとするイメージのあるトニーレオンは、顔がよく似ています。そして、この作品の主人公にキャスティングされてもおかしくない表情と演技力をもっています。(存在感はいりません)

トニーレオンが老人になる前に、村上春樹の短編をネタに誰か撮ってくれないかしら。市川準は亡くなってしまったから、是枝さんや吉川美和、キムグドクらによるオブニバス形式で、なんて企画はいかがでしょう。

理想主義者の悲哀

2010-04-21 | 政治
鳩山民主党政権が迷走している、といわれています。

確かに金の問題で騒がれ、アメリカにとっては大した問題でもない普天間で騒がれ、検察の不自然なリークや針小棒大をモットーとする「ゴシップジャーナリズム」と化したマスコミの(記者クラブ開放などの)私怨ともとれる報道もあって、鳩山総理個人の印象は、すこぶるよくありません。

この政権のポイントは、政権交代効果による「情報公開」と「官僚との距離の見直し」をどう形にするか、であって、それは「記者クラブ開放」「密約問題の調査・発表」「事業仕分け」などで実現され、さらに政治主導を実現する法案なども用意されています。

社会政策においても、情報が少ない中で作った「野党のマニフェスト」に沿った形で「子供手当て」「高校無償化」「農家個別所得保障」など、欧州並のセーフティネットを敷こうと必死です。

日本大使になる予定もあったジョセフ・ナイは「『普天間』は多岐にわたる外交のなかでは大した問題ではないが、外交ではなく国内問題として大きくなってしまった。韓国にすべて移すのも手ではないか」などという意味の発言をしていました。徳之島情報はすぐにでるのに、こういったプロのさまざまな発言はまったく取り上げられることがない、という日本のジャーナリズムの貧困さは、世論をおかしな方向に誘導するだけでなく、国民の解決に協力しようとする姿勢さえ摘み取ってしまいかねません。

鳩山さんの、人間が「本位でない」ときに見せるような曖昧で不安定な表情をみていると、80年代バブルの頃の文化的リーダーであった、堤清二を思い出します。経営者としては失脚してしまった彼のように、つまり理想主義者の悲哀のようなものがみてとれるのです。

「大筋であってりゃいいじゃん」位のおおような気持ちで眺めていられない、重箱の隅をつついてばかりの立花隆をはじめとする日本人の狭量さは、田中角栄を葬り去ったように、再びよい政権を殺そうとしています。

しかしこういう種類の発言をしていると「まわしもの」扱いされかねない、というのも困ったもので、それもまた日本人ならではなんでしょうな。

俺の人生どっかおかしい

2010-04-18 | アート
ショーケンの「俺の人生どっかおかしい」以来の新作「ショーケン」が出版されたのは昨年でした。なかなか良い装丁なので、本棚で眺めている時間をうっかりとりすぎてしまいましたが、ようやく先週から読みはじめ、「1Q84」もなんのそのの勢いで順調に読み進んでいます。

彼がマリファナで捕まったとき、ちくったのはなんと「松田勇作」であったとの記述は前作では匂わせる程度だったのが、今回ははっきり明言に近い表現になっていたり、彼のアイドルが「にがい米」やヴィスコンティのお気に入りの女優として有名で、私も大好きなシルヴァーノ・マンガーノであったとの情報など、興味深い内容が少々詰め込みすぎなくらいに羅列されています。

また、丁寧語になったり、話言葉になったり、ぶっきらぼうな断定調になったりと、文体など意識せずに綴られた文章から、おそらくゴーストライターなど使っていないと思われ、特にジュリーをどう捉えていたか、などの下りは簡潔ながら非常に精密な批評・分析がなされおり、初期のショーケンファンとしては非常に満足な仕上がりです。

彼は、映画製作の現場でもめ、降板に際してギャラをめぐるトラブルで恐喝で捕まったことありました。

黒澤や神代の映画作品や傷天、前略おふくろ様などのテレビ作品を撮っていた戦場のような時代の空気を知っているショーケンとしては、学芸会もどきの現代のゆるい現場に絶えかねた、というのは簡単に想像できますし、ブルースリーのごとく、「考えるな、感じろ」をモットーとした、タレントではなくアーティストである彼がスポイルされるのも自然なことなのかもしれません。ジム・モリソンが偉大な足跡を残すと同時に周囲には苦い思いも散々させた、ように。

資本の論理に縛られ、牙を抜かれた日本人で構成される業界には無理な注文でしょうけれど、今後もショーケンを使いこなせるカリスマのある監督、あるいはリスクをとって作品を残そうとするプロデューサーは、日本には現れないでしょう。つくづく相米さんの死、不在が悔やまれるところです。

悪の栄えたためしはない

2010-04-15 | 政治
大相撲春場所もつつがなく終わり、いつのまにか朝青龍のニュースバリューもなくなってきたようで、露出もすっかりなくなりました。

朝青龍ともつるんでいた亀田ファミリーも落日の様相ですし、「夜中に公園で調子に乗って騒いでいる若者を水平射撃で撃ち殺す」チャールズ・ブロンソンが一仕事を終えた後のような、格闘技界のメインストリームにも芸能マスコミマターが減り「つまらないけど平和」という凪がやってきました。

イジメの中で最も有効かつ残酷なのが「無視」、存在を否定するのが攻撃には効果的な「手段」であるという認識が中学生の間でも浸透して久しく、これを「北朝鮮」にも適用できないかとずっと主張してきましたが、遅ればせながら韓国、日本、アメリカ、と関係当事者も国内問題でそれどころではない、ということで結果的には相手にしないというスタイルをとりはじめました。

枡添や東国原、サッカー代表監督など、日本にもスルーし、距離をもって眺める「放置プレイ」によって放逐できる対象がまた随分います。自覚を促すためにも「ほったらかし」にする効果の度合いを彼らにも試してみたいものです。

桜三月散歩道

2010-04-04 | アート
近所は、幼稚園の先生が互いに向き合って両手を掲げ、園児を迎えるアーチのように、道路や川の両岸にレイアウトした桜が多く、まるで世界に歓迎され、許容、抱摂されているような気分になってくるこの季節、幸いにも花粉症にまだ蝕まれていない私の体には多少の高揚感が訪れます。

最近は樹葬が流行はじめているらしく、他と比べて異様に綺麗な栄養がよいと見られる桜の下には散骨されている可能性があるとか、ないとか。うっかりそのまま死体を埋めようものなら、花咲ける正直じいさんの飼う犬が「ここ掘れワンワン」よろしく死体を掘り返し、桜吹雪のタトゥーを入れた裁判官にその罪を問われることになりますので、気をつけましょう。

樹葬というのは、変容する墓標としてとても面白く、その木の寿命(例えばその木の寿命がだいたい50年だった場合)とともに、現生活でも亡くなった方の記憶が薄れ、仏教だったでしょうか、50年で世界と融合しその霊は消滅するという発想とも重なることになり、人間の記憶力、言い伝えの限界を考えると、現実にも合致しており、よろしいかと思います。

余談ですが、開花宣言の指標となる桜のある靖国神社に祀られた先の大戦の英霊達も、50年という霊の寿命(樹命?)的にいえば、もうあそこにはいない、という考え方もでき、実際そういう主張をする方もいるそうです。

たとえ空っぽの社だったとしても、英霊に感謝そして祈りを捧げるという行為は、記憶・伝統を引継ぎ、是非は別にしても歴史に定着させる役割があるわけですから、記憶装置としての機能を有するその大きな施設とともに、無意味なこととはいえませんけどね。