長電話

~自費出版のススメ~

欧州帝国主義のオトシマエ

2013-01-23 | 政治
アルジェリアのガス施設で起こされた今回の人質事件。「人命尊重」という欺瞞を蹴散らして解決・収束を図った同国政府の乱暴な手法に対して、国際社会の非難は思ったよりは少ない。無念ではあろうが仕方のない側面も大きいからだ。

舞台となったガス施設はアルジェリアの全ガス輸出の約2割を賄っており、誘拐犯グループが施設を爆破するようなことがあれば、同国内外に大変な影響を及ぼすと言われていたし、また、人質と共に脱出を計った犯人グループは海外からアルジェリア政府にではなく、国際社会に取引を持ちかけるだろうと推測されていた。

中国がチベットに拘るのが、人民を養わなければいけないという政府の責任としてその水源の確保の必要がある、という理由とよく似ている。

その段階をすべて読み込んだ上なのか、大変な犠牲は出したが、アルジェリア政府はその芽のすべてを摘み、犯人グループを殲滅、早い事件の収束をみた。

遠因としては、かねてより指摘されていた、欧米の誉めそやす北アフリカの民主化(特にリビアの)によって、他国から過剰に供給された余剰武器の拡散が引き起こした事件。

それは、アフリカには義理のないアメリカの関与の少ないかつての植民地からの報復への心配をはじめ、今後も関わっていかなくてはいけない「民主主義」や「人権」という最近作られた概念によって縛られた欧州の計り知れない憂鬱を想起させる。

気の毒な話だけれど、前世紀までの彼ら白人のやってきたことに比べるとその復讐は、「ささやかなもの」と私は考える。土地や人間を大規模に蹂躙しその歴史を正当化し、いい加減な概念で中東及びアフリカを仕切ってきた連中の罪を、今贖っているのだと。

翻って極東の状況を鑑みると、中国や韓国の反日政策・反日デモなどは、非常に紳士的で手続きを踏んだものだと思え、たかだか小さな岩礁のような島を巡って争う我々アジアの人達の穏当さに感謝したくなる。

その争いのソフトさは、欧米に比べれば苛烈とは言いきれない日本人の植民地政策の穏当さに由来するものかもしれない。

宗教や思想がその風土に基づいたものであるということを柱にして考えると、それはつまり、あらゆる不幸な事象は「気の毒なこと」としか言えない。あるいは、日本も島国らしい穏当であるが故に外交下手であることを、むしろ誇らしく思った方がよいのかもしれないと思うこともある。

大島渚、吉本隆明、岡本太郎 ~大衆におもねっても消えないモノ

2013-01-16 | メディア
「大島渚」といえばもちろん、みうらじゅんのイカ天における「バンド名」です。つまりロックンロールの代名詞ですね。

ジャズやクラシックと比べると、現代ではロックやポップスはメーセージメイカーのメディアであり採用する必然的スタイルではあります。みうらじゅんの後継者が出てきたら、今は「園子温」を名乗るかもしれません。

大島渚の作品は、有名な「戦場のメリークリスマス」を始めろくでもないものが多く、さらにコンセプチュアルに過ぎるため時代を超えず、その「姿勢」を強調することによってしか評価できない、というのが私の視点でした。

文章もうまく、声もでかい。コッポラのように、映画監督としてよりむしろプロデューサーの才の方が際立っていた人と言えるでしょう。

福島原発事故後のメディア状況に対して、即応性に柔軟な音楽というスタイルを持つアーティストは、直対応的な反応を示し、多くの「ネタ」を発信してきましたが、映画となると時間もお金もかかる上に、シアターの確保という配給、宣伝告知というハードルもあり、定着する作品として表現していくことがとても難しいはずです。

政治ですら「新党未来」のように、企画段階でズタズタにされかねない現実世界で、園さんのように強い誠実さで事に当たるには、どんだけストレスがあるのだろうかと思いを馳せ、無念にも似たような気持ちになることがあります。

大島渚が元気なら、発信者として原発事故にどう取り組んだか。
民主党の失敗についてどう総括したのか。

これが不在感というものでしょうか。毀誉褒貶は激しくとも、岡本太郎が根源的に嫌悪しながらも世界と接しようとしたように、吉本が政治思想神話の世界から努めて離脱したように、大島渚もまた薄汚れた世間との接点と、下からの目線を失わないよう心がけていた作家でした。

彼の死が、現インチキメディアの温存や挑戦的なアーチストの活動の不毛さの「現われ」の象徴とならないよう、気をつけ、彼の上品でありながら漂わせる「覚悟」のようなものを心に留めていきたいものです。

合掌