長電話

~自費出版のススメ~

トーマの心臓

2010-12-19 | アート
もう1回くらいあると思っていたのですが、唐突にそしていい加減に「SPEC」が終わってしまいました。

現代のドラマはリアルタイムの視聴率ではなく、最初から放送後のDVDビジネスを当てにして制作されることが多く、この作品もその類であり、繰り返し見ることを前提にした過剰で思わせぶりなディテールの散乱に満ちておりました。

つまり、テレビ放送はDVDの宣伝にすぎないということです。

井上陽水や吉田拓郎ではなく、桑田佳祐や佐野元春が最初の意識的な音楽体験であった日本の音楽産業第2世代らしい諧謔に満ちた「照れ」もあり、エヴァの1次映画版のように「オチ」を期待する視聴者に対して皮肉なラストを用意し、「結局、世界を仕切ってるのは誰だ」という誰もが抱く「世界系」「ラスボス」を弄ぶ、製作者達の愉快犯的愉悦ばかりが余韻になるという手法も、こういったビジネスモデルのには有効なのでしょう。

このドラマのメッセージのひとつである、古くて新しいテーマ「真実と事実」の違いや情報強者にのみ許された「ジャッジ」の権利、あるいはリテラシーの問題はこういったドラマを好む人たちにとっては自明のものであるから、今更語るのは恥ずかしいし、制作意図の中ではエッセンスにすぎないものかもしれません。

謎をバラマキ、混沌を混沌としてオチをつけないというのは、村上春樹がオウム事件後にとった手法であり、ツインピークスのヒットもあり、それは影響として、描き込むことでアートとして成立するはずの「謎」や「混沌」もまたアイテムとして安売りされるきっかけになってしまったような気がします。

似顔絵の似顔絵、ものまねのモノマネが簡単なように、それは「なんでもあり」を導き整合感のないドラマを作ることの「免罪符」になってしまったのかもしれません。

「ケイゾク」から「SPEC」の間にいったい何があったのかを考えるにも、よいドラマではありました。また、これから、どんなオチではなくオトシマエをつけるかが楽しみです。

俺の波動砲

2010-12-12 | アート
46サンチ砲が火を吹くってのがリーサルウェポンであるはずの本来の「大和」、波動砲ばかりがクローズアップされるのもいかがなものかと思われるところですが、やはり昭和のヤマト第一世代にとっては、切り札の代名詞としてガンダムのソーラーシステムとともに定着していることの事実から逃れることはできません。

地球の人間では発想はあっても成しえない「波動砲」と「ワープ航法」というイスカンダルからのプレゼントは、実写版でもメインアイテムとして脚光を浴びています。

松本零士バージョンで私の最も好きなものは、ヤマトの進路を遮る邪魔な星を、波動砲を「ぶっぱなして」破壊、活路を見出すというもので、「我が家」に使われたシモネタよろしく波動砲を「力」の乱暴な猛き発露として利用した、実に西部開拓的「男」らしさが炸裂するお話です。

記憶によると、あわてふためく船員を横目に、好転しない状況に沈黙していた沖田艦長があっさり星の破壊を命令し、敵を倒すということ以外に波動砲使用の概念を持たず、また波動砲の威力をしっかり把握していない船員の動揺を誘いながら、目的を達成するというものです。

もちろん実写版に、この環境問題にかまびすしい世論のなかで、このエピソードが採用されるわけはないのですが、いまだこの物語の最高の二枚目は沖田であると私に思わせるに十分な、キャラの立ったお話でした。

と、ここまで記して、波動砲で調べてみたところ、対象は星ではなく、どっかの太陽のコロナだったことがわかりました。沖田艦長は環境に配慮し、波動砲の使用をかなり抑制していたようで、普段の私の記憶がいかに曖昧で、それに基づいた行動や言説が実に適当だということが明らかになってしまいました。

ヤレヤレ

ウィキリークスと海老蔵

2010-12-07 | アート
世界は今、北朝鮮を冗談として扱うほど、連日ウィキリークスネタで盛り上がっているというのに、日本のマスコミは正月間近ということもあり、情報公開に消極的な不幸顔の官邸の話よりめでたい海老の話題で充満しています。

これを嘆かわしいと捉えることはカンタンですが、決して目では笑わない金正日同様、海老の虚無的なまなざしを保ったままの「絡み酒」事件には、少々思い至(当)るものがありますので、何か言いたくなりました。

海老は、日本でいえば、天皇陛下のように、あらかじめいろんなレゾンディトールを抱えて生まれた上、幸か不幸か成長する段階で(中村獅童と違い)いちいち他人の期待を裏切らずに生きてきたように見えます。

つまり特段の努力をしなくても、彼の環境と才能が「何もかも与えられた人生」を守ってきたわけで、そうして得られる成果に対する自分への世間的な評価に虚しさを覚え、トラブルを起こした夜は「絵に書いたような、かわいらしい新妻」を迎えたばかりだというのに、日本のバビロンである夜の六本木で「絡み酒」を演じるほど満たされない「不幸」状態だった、とも考えられます。

これはウィキリークスのアサンジさんと同じで、世間と乖離し肥大化した「自意識」のなせる業であり、プリンスの「When Doves Cry」のごとく、自らの「万能感」に対する自らも含め退屈な現実に、乱暴に振る舞うことによって当たって砕けようとした行為だといえるでしょう。

それはそれで仕方のないことだし、それならばそれで生きていく上で、現実とコミットする手段は変わったものになっていくわけです。

某押尾氏と違い、日本人の好きな血筋である海老さんは、世の中的には朝青龍的な「ヒール」になりつつありますが、これも「芸の肥やし」と考え、モンキービジネスの人気商売ではなく、芸術としての歌舞伎、必要とされる血を持った立場としての自覚に目覚めてほしいものです。

海老の不幸は、CM降板などのワイドショーが煽る結果ではなく、すでに事件を起こす背景にあったのでしょう。