もう1回くらいあると思っていたのですが、唐突にそしていい加減に「SPEC」が終わってしまいました。
現代のドラマはリアルタイムの視聴率ではなく、最初から放送後のDVDビジネスを当てにして制作されることが多く、この作品もその類であり、繰り返し見ることを前提にした過剰で思わせぶりなディテールの散乱に満ちておりました。
つまり、テレビ放送はDVDの宣伝にすぎないということです。
井上陽水や吉田拓郎ではなく、桑田佳祐や佐野元春が最初の意識的な音楽体験であった日本の音楽産業第2世代らしい諧謔に満ちた「照れ」もあり、エヴァの1次映画版のように「オチ」を期待する視聴者に対して皮肉なラストを用意し、「結局、世界を仕切ってるのは誰だ」という誰もが抱く「世界系」「ラスボス」を弄ぶ、製作者達の愉快犯的愉悦ばかりが余韻になるという手法も、こういったビジネスモデルのには有効なのでしょう。
このドラマのメッセージのひとつである、古くて新しいテーマ「真実と事実」の違いや情報強者にのみ許された「ジャッジ」の権利、あるいはリテラシーの問題はこういったドラマを好む人たちにとっては自明のものであるから、今更語るのは恥ずかしいし、制作意図の中ではエッセンスにすぎないものかもしれません。
謎をバラマキ、混沌を混沌としてオチをつけないというのは、村上春樹がオウム事件後にとった手法であり、ツインピークスのヒットもあり、それは影響として、描き込むことでアートとして成立するはずの「謎」や「混沌」もまたアイテムとして安売りされるきっかけになってしまったような気がします。
似顔絵の似顔絵、ものまねのモノマネが簡単なように、それは「なんでもあり」を導き整合感のないドラマを作ることの「免罪符」になってしまったのかもしれません。
「ケイゾク」から「SPEC」の間にいったい何があったのかを考えるにも、よいドラマではありました。また、これから、どんなオチではなくオトシマエをつけるかが楽しみです。
現代のドラマはリアルタイムの視聴率ではなく、最初から放送後のDVDビジネスを当てにして制作されることが多く、この作品もその類であり、繰り返し見ることを前提にした過剰で思わせぶりなディテールの散乱に満ちておりました。
つまり、テレビ放送はDVDの宣伝にすぎないということです。
井上陽水や吉田拓郎ではなく、桑田佳祐や佐野元春が最初の意識的な音楽体験であった日本の音楽産業第2世代らしい諧謔に満ちた「照れ」もあり、エヴァの1次映画版のように「オチ」を期待する視聴者に対して皮肉なラストを用意し、「結局、世界を仕切ってるのは誰だ」という誰もが抱く「世界系」「ラスボス」を弄ぶ、製作者達の愉快犯的愉悦ばかりが余韻になるという手法も、こういったビジネスモデルのには有効なのでしょう。
このドラマのメッセージのひとつである、古くて新しいテーマ「真実と事実」の違いや情報強者にのみ許された「ジャッジ」の権利、あるいはリテラシーの問題はこういったドラマを好む人たちにとっては自明のものであるから、今更語るのは恥ずかしいし、制作意図の中ではエッセンスにすぎないものかもしれません。
謎をバラマキ、混沌を混沌としてオチをつけないというのは、村上春樹がオウム事件後にとった手法であり、ツインピークスのヒットもあり、それは影響として、描き込むことでアートとして成立するはずの「謎」や「混沌」もまたアイテムとして安売りされるきっかけになってしまったような気がします。
似顔絵の似顔絵、ものまねのモノマネが簡単なように、それは「なんでもあり」を導き整合感のないドラマを作ることの「免罪符」になってしまったのかもしれません。
「ケイゾク」から「SPEC」の間にいったい何があったのかを考えるにも、よいドラマではありました。また、これから、どんなオチではなくオトシマエをつけるかが楽しみです。