長電話

~自費出版のススメ~

好転する病、暗転する日本

2011-05-30 | 政治
原発の水素爆発以後、4月中旬の最初の雨により、東京の地下水の放射能濃度が10倍になったと発表されましたが、その後の情報管理の甘さからみて、実際はそれ以上と思われることから、地下水、そして井戸水も相当汚染された恐れがあります。

今の事務所は井戸水も水道水も使え、普段は飲料用も含め井戸水が中心です。井戸水は一端ペットボトルで一日以上寝かせてから飲んでいるのですが、その心がけはあまり厳密なものではありません。

放射性物質は肺炎や癌の原因になること。私の一月に渡る肺炎による発熱が始まったのが4月下旬ということから、当然、今回の病が井戸水の摂取から内部被爆し、引き起こされた可能性が疑われます。

ネットではそういった因果関係を述べた症例には行き当たりませんでしたが、時系列的には符号するわけで、そんな状況で井戸水を飲み続けた私の迂闊さとともに、教訓にすべき経験です。

レントゲンやCTスキャンによっても、現在の喫煙量にしては全体として肺は綺麗であるのに、まるで放射性物質から放射線が放出されるように、部分的に黴のような炎症があるところからも、放射線による症状を怪しまざるをえません。

今回の事故は政府与党、与党時代の自民党、東電、あるいは東芝や三菱などの企業、メディアの時空を超えた複合責任であることから、具体的にどこをどうつっこんでいいのか分からないものになっています。そして何が起こっているのかという情報を政府という一機関に求めてもしょうがありません。

与党の一部勢力によって誘発されたとはいえ、自民党は自らの責任を糊塗するために、内閣不信任を出そうとしています。そして国会議員も官僚も、また経団連など財界も多くはこれだけの事故に対しても今までの原発行政に対する反応は鈍く、反省どころか、現状維持に必死です。

まあそんな政治の国です。

今回の病いが、放射線によるものか、あるいはストレスによるものか、ただの事象に関係のない黴菌の浸入か、本当のところは分かりません。ただ、私のような症状がでた人が他にいれば、お話を聞いてみたいものです。

果報は病気で寝て待ち、暮らせ!

2011-05-27 | アート
一月近く続いた発熱は、「軽い肺炎によるもの」とでも言ってくれればいいものを、医者により肺にある黴のようなものが原因という診断が下され、「不潔」なだけかいな、と周囲から笑われ少々凹んでおります。

平日の午前中から飲酒するほど進行していたアルコール中毒、痛んだ内臓を癒すためのラーメンの過食をはじめ、コントロールできなくなった食欲、不規則な生活、などと、腎臓、肝臓に負担をかけまくり、このままいけば、糖尿病まっしぐらの予定だったのですが、すべては強制終了とあいなりました。

私がふさわしくないほど持ち合わせている幸運さがまたも発揮され、黴による悪癖の追放という、倒錯した結末が待っていた。というわけです。

私にはソウルメイトとも言うべき、常にパラレルに状況を共有する友人がいまして、申し合わせたように、彼が失業すると私も失業、同じ時期に恋愛を始めたり引越したり、古い本を同じタイミングで読んでいたりします。ただ、彼の方がずっとスケールは大きく、豪快で、霊的にも野趣に富んでいます。

大病とまでは言えないのですが、リセット感のあった今回の闘病は私にとっては一大事ですから、彼はどうだろうと探りを入れてみたところ、案の定、私の病気前の状態を50倍に濃くしたような状況で、決定的な症状の中、何度か死線を彷徨ったとのことでした。

若い頃、彼と行動を共にしていた頃、よく口にしていたのは我々は「破滅型」である、ということでした。ちまちました趣味人に陥ってしまっている私と違い、ほんものの芸術家であり、まさに破滅的に生きてきた彼の様子を想像するに、「転んでも只では起きない」とか「万事塞翁が馬」などとほざいて、穏やかな生活を希求する自分のスケール感のないライフスタイルに、なんだか「青春の裏切り者」的セコさを見出し、ますます凹んでしまいます。

日本が原発を企画した60年代は、地震の少ない時期だったそうです。歴史は様々な要因から創られますが、偶然の比重もまた大きいものです。私の断酒も意図せざるもので、決して強い意思で自分を律したわけでもないのに、こうしてやすやすと実現してしまうわけです。

村上春樹の小説の主人公の「傾向というものはどうしようもないんだ」という台詞を思い出し、私や彼に当てはめて、なにもかも諦めることにしましょうか。

「男」に向かない職業

2011-05-20 | スポーツ
亀田兄弟は本当に強いのか、安倍元総理は政治家としての才覚はあるのか、など、答えとしてあっさり「それほど強くない、それほど才覚はない」として、まず魅力を覚えず、話題の対象にもしない、という大人の態度をもって接したいことの一つに「星野仙一は野球人としてどうか」というものがあります。

野球好きにとって彼の印象は「巨人キラーとして現役時代に中日のエースとして活躍した華も実もある燃える男」、「監督としてカリスマ性はあるが、実際は故島野コーチが補佐しなければ力を発揮できない人」、「現役引退後は、巨人の堀内同様、政治的な振る舞いにより立場を手に入れる人」、「強引な引き抜きにより中日OB会を追放された人」、そして「北京五輪で親友の馬鹿と一緒にゲームメイカーとしてもゲームコメンテーターとしても失敗した人」、などで定着しています。

北京五輪後、球界においても世間においても、星野氏の評価は決定的に落ち込み、既に彼が嫌いだった人の溜飲は下がりっぱなしだったのですが、ここにきて「イーグルス」の監督という火中の栗を拾うような仕事に就き、持ち前の政治力を発揮し、とんちんかんながら、チームづくりを人選で進めようとしていました。

震災から得られるモチベーションと共に、開幕からチームは投手、ベテラン山崎の活躍や、相手チームの遠慮もあってか、しばらく勝ち越しを続けていましたが、そんなテンションがシーズン通して続くわけもなく、負けが込むとプレッシャーがマイナスに作用してか、成績は下降し、エースの岩隅、大リーグ帰りの岩村の離脱もあり、星野氏の機嫌も悪くなる一方です。

全選手から信頼され慕われていたチームの核「渡辺」を契約後に、松井稼獲得の余波から放出、という暴挙を仕組んだ首謀者が監督。田淵という誰が見ても知性を感じない人を打撃コーチに据え、打線が低迷すると、田淵以外の野手関連コーチの全員更迭という意味の分からない人事を強行する監督。ひょっとして「楽天」というチームは既に崩壊しているのかもしれません。(どれもオーナーが犯人だという説もありますが)

求心力のある人物としていつも期待される「男」星野仙一氏の、その破壊力が今の野球界ではいつも悪い方に作用するとすれば、そろそろ時代遅れの政治業界にでも転進され、好きなだけ権力を笠にきていただくのが懸命、かつ彼にとっての幸福かと思われます。

それにイーグルスは、「楽天」じゃなくても、震災がなくても、強くなくても愛されるチーム。そんなに気負わなくてもいいような気もします。

ろっけんろーらーの需要と供給

2011-05-18 | アート
内田裕也という人の歌手としての代表作はパンタのカバーで主演映画の主題歌でもある「コミック雑誌なんかいらない」でしょうか。亡くなったときに流すBGMもおそらくこれになるでしょう。てか、他の曲を聴いたことがありません。(ミュージシャンなのに、追悼曲がほかには一切思いつかない人っていったい・・・)

俳優としての代表作は「嗚呼、おんなたち猥歌」、「水のないプール」。監督(神代さん、若松さん)にも恵まれ、とてもよい作品を残しています。

あと、都知事選立候補時の政権放送のパフォーマンスが有名ですね。

・・・俳優じゃん、この人。

日本語ロックへの葛藤もなく、ビートやグルーヴに対する意識も低く、ただクールと思われるものが好きだった人なので、日本の音楽シーンに与えた影響は、詩にも曲にも一切ありません。音楽芸術的才能はほとんどないといってよいでしょう。

一度気に入ると、いつも同じ格好になるその服装センスも酷いものです。美術が好きだったけど才能はあまりなかったヒトラーも同様だったそうで、才のない人間の好奇心の広がりの無さを物語る逸話として有名です。

海外の歴史に残るロック的と言われる人生を送った人達、ジミヘンドリックスやゴッホをはじめとするアーティストは、基本芸術家であって、サーカスライフは結果であり、その我々パンピーの思う彼等の「不幸」は不可避だったはずです。

内田は、日本という緩い国に生まれ、樹木希林という誰もが認めるその巨大な才能の、複雑な美意識から幸運にもパートナーに選ばれ、恵まれた人生をおくっているとも言えるタレントに過ぎません。

彼のような芸能タレントを受け流し、ことあげすることなく、笑ってやり過ごすのが日本の大人の流儀なんでしょうが、醜いものは醜い。椎名林檎のシャウト一発でノサレル過去のない老人なんて全く意味がありません。

彼を「俺には夢がある、だから定職になんかつかねえ」と目的のはっきりしない生活を続ける脛かじりの厨房程度にしか思えず、軽蔑してしまう私は了見が狭いのでしょう。私は私の認める範囲での「才能」のない人間が嫌いなんです。

しかしそういう意味でいえば、タイプとしては苦手ですが、矢沢永吉、長渕剛や石原慎太郎がいかに「才能」に溢れた人物であるかが分かるってものでもあります。

「ゆれる」鈴木先生

2011-05-15 | アート
日曜日(5月15日付)読売新聞の、今クールのドラマ視聴率と読売テレビ部への投書傾向をまとめた記事のタイトルが「鈴木先生」でした。今は藁にもすがる思いでこの番組の視聴率を上げて、存続させたいと思っている私には(何もしちゃいませんが)、いくら内容のない新聞マスコミの記事であれ、タイトルにしてくだすったのは快挙というべきか、非常に感激しました。読売新聞にも良心はあるのです。産経にはありませんが。

記事内容は、「サンデル教授」的であるなどという気の効いたものはなく、初回視聴率2.6以降下がり続けているというデータを添えて、投稿内容の熱心さと、主人公のシステマティックな思考と解決に至る過程の面白さに触れているだけの通り一遍のものでした。

これではまったく、見る気にならんではないか、なんという無内容な記事かと、嘆きつつもも、そこは汚い手を使ったとはいえ、公称1000万部の新聞、いくらなんでも影響全くなしということはないのではないか、と淡い期待を抱いた次第です。

第3話は、1・2話と違い、大人の話が本格的に混じりはじめ、社民党のうっとしい御婦人方のような富田靖子演じる足子先生など、トラブル予備軍である先生方の中から、クローズアップ第1号にぐっさんが選ばれました。

作品的には、3話は好きではないのですが、主人公がイノセントなスタイリスト故に、誰かをいつのまにか傷付け、追い込んでいくという流れは、映画「ゆれる」に登場した兄弟のお話と同じスキームで、丁寧に台詞が織り込まれた脚本は、映画に比べればさすがに品のないものでしたが、十分に見応えのあるものでした。

また「ぐっさん(山崎先生)」という「面白く、おおらか、それでいて器用」という役者のイメージに問題の収束を期待させながら、最後まで「救い」をつくらず期待を裏切り、悪い後味を残す意外性は、「シックスセンス」で「ダイハード」などで絶対死なないと思われていたブルースウィルスを起用したのと同じ手法で、視聴者の先入観を利用しています。

なんだか、男性らしい分析的な批評で読売の記事同様のつまらない内容になっていきそうなので、今日はこれくらいにしましょう。

丘に上った瀕死の半魚人(古内東子=イメージ)なみに酷い健康状態が続いているので、明日は病院にいかなくてはと思います。ああめんどくせえ。

いつも通り

2011-05-14 | スポーツ
一般には、特別な場所であることを意識してか、大相撲「技量審査場所」と呼ばれている大相撲「夏場所」。本場所というのは常に「技量審査場所」であるのですから、この呼び方はおかしいし、匿名性が高すぎます。

相撲には興行という側面があるとは言え、基本は神事、そして競技です。(第三者のギャンブルのためにやったわけではない)八百長は悪いことで、社会的影響が大きいというのであれば、興行を控えるだけで、神事、競技は続けるべきだったと思う私のような相撲ファンにとって、春場所の中止は納得のいかないものでしたし、夏場所の呼称も普通に「夏場所」あるいは「五月場所」と呼ぶべきだと思います。大相撲の本場所が1年の生活や季節感にリズムを与えるものでもあるからです。

私の師匠でもある茶飲友達であるN氏は、「相撲を中止した途端、地震が起こった」とうそぶいていました。地を鎮めるという祈りや、霊能者による暴れ龍を押さえ込むという行為は実際に行われていますし、大相撲にそれほどの影響力があるとは思えませんが、堤防もいいけど、神社建てるのも大事では? と思う私のようなものにとっては、少々N氏の意見にうなずく気もないではありません。

ネットで中継される国技館は、煌々と観客席まで蛍光灯の下にあった普段の光景と違い、土俵のみが明るく、プロレスかボクシングかのようで、力士が館内に現われるときはスポットライトでもあてんのかよ、という風情で確かに非常時が強調されています。

がしかし、横綱は磐石、大関陣は前半で既に取りこぼしがあり、星取の具合は「いつも通り」。我らが安美錦は、2勝4敗と相変わらずとぼけたスタートです。

安美錦に関しては「八百長」に絡んでいなかったことで一安心だったので、今場所の成績などどうでもいいのですが、あの怪しい風貌ですから危ないなあと思っていたのも確かです。ひょっとしてあの怪しさは、八百長を頼まれると金もらって承諾したくせに、頼まれた通りの相撲を取ってくれない種類の信用のなさで、八百長を超越してるのではないのでしょうか。豊真将のような危うい生真面目さによる拒否、あるいは高見盛や稀勢の里のように、そもそも八百長という概念がない連中とも根本的に違う、大人の味わいでなのです。

プロ野球にしろ相撲にしろ、毎日きっちり見るほど熱中するわけではありませんが、震災からはじまった非日常から日常(いつも通り)に戻る縁(よすが)としても、やっぱり機能しています。

地獄先生

2011-05-12 | アート
「地獄先生」とは学校の先生への恋心を情熱的に唄った「相対性理論」の曲です。テレビとは思えない映像的な作品で驚かされた「鈴木先生」(テレビ東京系)を見ていて、ふと思い出しました。

これもシオシオさんから「サンデル教授の白熱教室」的だという指摘を添えて薦められた作品です。「モリのアサガオ」は失敗だと思っていた私は少々色眼鏡で見始めたのですが、その秀逸な映像世界に一気に引き込まれてしまいました。

テレビというのは、わざわざ見にきてくれる映画と違い、どんな条件の人にも分かるように作らなければならない、という思い込みがあるせいか、状況を必要以上に説明しすぎ、さらにそれを役者の台詞の中に託したりするので、脚本に忠実で演出や編集という概念がなかなか育ちません。

また、かつてのテレビサイズの限定があったせいか、アップが多く、役者は体を使った演技をする習慣がなくなります。テレビ出演ばかりのキムタクや、堤や三谷の映画がテレビ時代ほどの輝きを持ち得ない原因もその当たりにあるのでしょう。

「鈴木先生」では、立ち姿を鍛えた舞台役者を主演に迎え、ストーリーと画面をしっかり追っていれば分かるシーンには、台詞やナレーションを加えることなく物語を自然に進行させています。つまりこれまであまりテレビでは見られなかった手法で作られたドラマなのです。

メッセージとスタイルの関係はとても重要で、メッセージを伝えたければそれなりのスタイルを選択しないと相手には伝わりません。ついつい哲学的なことを考えているときはライヒやイーノの音楽を求めたりするように、思考との相性もありますから、大映テレビ的な演出は「鈴木先生」には前提としてありえないはずです。

第2話で山崎先生が愚痴るシーンに第3話に繋がる風俗通いを暗示させる建物がでてきたり、先週(3話)は、マイクニコルズの「卒業」の有名なシーンと同じ構図で「卒業」した生徒が愚痴を言う場面があったりと、いろんな仕掛けが散りばめられており、繰り返しの視聴にも耐えられるよう創りこんでいます。

ちなみに、タイトルバックのメガネリレーでは、その当回で中心となる生徒は笑ってないという仕掛けになっているのだそうです。

長くなったので、内容については次回以降にします。

菅総理、個人的支持率回復

2011-05-11 | 政治
この有事にいったい何をやってんだ、と白い目を向けてきましたが、ようやく原発行政に対する政府の姿勢と方針のようなものが「浜岡原発暫く停止要請」によって形として示されました。

菅総理というのは、妻以外に信用できる友人がいないだの、独断専行だの、朝令暮改だの、さんざん言われていますが、おそらくだいたいその通りなのでしょう。かつて彼が所属した「社民連」も「さきがけ」も、党というより、ユニットに近く、のびのびと、また孤独に作業を続けることによって充実した政治家活動をしてきた人です。組織的行動など所詮ニワカ仕込みでデキルものではありません。

友人がいない、ということは小泉元首相と同じで、利権がないということに繋がるとも考えられ、彼に対して周囲の動きが鈍くみえる、もっと言えば非協力的に見える、というのは政治家、ましてや総理の資質として失格ではあるのですが、それが故に利権の影響を受けにくいともいえます。

原発という日本一強固な利権構造に手をつけたのですから、後先考えてないっちゅうか、怖い者知らずっちゅうか・・・。マスコミや自民党の反応は予想通り「支持も不支持も言わず、どういうイキサツなのか説明しろ」という態度で暫くいくようです。

反原発方針第2弾として、推進派の与謝野さんに引退してもらって、自民内で共産党呼ばわりされている(正確な言い方ではありませんが)反原発派河野太郎ちゃんを政府に迎えるくらいの、ショックを与えるというような過激なことをするようであれば、いよいよ支持も帰ってくるかもしれません。

いずれにせよ、無責任な「菅降ろし」に屈し、ここで辞めれば、麻生さんを除く過去3代のアホの元総理を襲名してしまいます。

原発行政の見直しを打ち出したことによって、TPPで馬鹿な連携をしていた経団連や労組、原発利権からどっぷり広告料を与かるマスコミも敵に回したことになりますが、今までだって業界の評価は酷いものでした。所詮世論に弱い企業・マスコミなんですから、大きな政策であいつらの頭越しにメッセージを発信していくことが大切です。

浜岡停止宣言の翌週である、今週になってなぜか「菅おろし」の風が凪いでいるそうです。遅い対応は、熟慮した結果として、一気に政策で成果をあげられるようですと、長期政権も見えてきます。

資本家の利権から、労組の利権にシフトしただけに見えた政府与党をこのまま終わらせるのは、なにより避けなければならないはずです。


君は「ちび」いくつかな?

2011-05-10 | メディア
たかだか280円の肉で命を落とすなんて、本当に馬鹿馬鹿しいことです。

安くて不味い居酒屋やファミレスは、大人が個人的に拒否すればそれでいいことですが、育ち盛りの少年達や、あのちょっとしたイベント感が好きな子供達、また、安上がりな家族サービスをでっち上げようとする可処分所得の少ない家庭にとっても、魅力的です。

「豚肉300グラム280円」。ヤスッ、と思う前に「1丁280円の豆腐」を買いましょう。おいしいし、贅沢感に満たされることうけあいです。なあんて発想は、子供のいない大人のものであり、確かにそうかもしれませんけど、家庭というのはそうはいかないものなのでしょう。

こと「食」に関するデフレは信用しない方がよいということを、今回の事件で再び思い知らされましたが、日本人のファミレス好きは、複雑な地形をもつ福島でありながら、一律に風評で福島県産の商品の拒否を決め込んだ「食」に敏感であるはずの日本の消費者自衛行動のわけの分からないところでもあります。

そしてその混乱したわけの分からなさは、今回の事件を「政府」の規制の甘さが原因だとし、世論に訴え、世論に敏感な担当大臣がさっそく反応、はりきって規制に乗り出そうとしています。

原発行政であれだけ酷い目にあっていながら、天下りをあれだけ批判していながら、まだ政府をあてにして、規制を強めて守ってもらおうとしている人達って、なんなんだろうと不思議に思います。

非加熱用肉は出回っていない、とする建前は、逐語的に捉えればおかしな話ですが、業界の中ではそれなりに合理性のある判断だったのでしょうし、なにより「ユッケ」なんぞ昔からある料理。それを不届きな末端のお店が出現したからといって長い間問題のなかった規制にを安易にいじるのは、いままで責任をもって調理に臨んできた多くの職人に失礼ってものです。

規制と罰則がなければ機能しない社会が、みなさんそんなにお好きなんですかね。こうしたなんでもお上頼りの姿勢がビデオだらけの窮屈な街を造り、中間集団の育成を阻み、共同体を壊してきたんじゃないんですかね。

その昔、愛川欽也が「赤提灯、一回我慢すりゃ、キン坊ニコニコ」(アカガマキンニコ)というキャッチフレーズのおもちゃのテレビCMをやっていました。お酒をちょっと我慢すれば、子供のおもちゃに割く予算を捻出できる、というものです。大人になって、一晩であっさり1軒5000円単位で酒をあおる自分と照らし合わせて「なるほど」と思ったことがあります。

280円という生肉の相場感、価値と意味を、大人が子供達を守らなければならないという理由からも、しっかり把握し、伝えていかねばなりません。

病は奇から

2011-05-07 | アート
病気になることについては、自律神経が正常に働いている証拠だと考えているので、悪いおみくじに示されるような「残念な」災厄だとは思ったことがありません。熱が出るのは細菌を殺そうとする作用だし、水虫は「不潔」ですよ、という体からのメッセージであるわけです。

誰だって風邪ぐらいひく。ただ、熱が上ったり下がったりが一週間も続くのは、いくら無神経な私でも応えます。

今回、風邪によって筋肉痛が引き起こされることは初めて知った上、体をもって味わったわけですが、これが以外と恐ろしいことになります。はじめは腹筋に始まり、そこをかばうために不自然な体の使い方をしてしまい、筋肉痛が移動、背中やわき腹にくると、深く息を吸うことができなくなり、文字通り苦しいことになります。

かつてやはり風邪で声がでなくなり、深夜だったので誰にも連絡できず、六本木交差点の交番までなんとか歩き、筆談で救急車を呼んでもらったという間抜けな過去をもつ「ツワモノ」であるはずの私は、だんだんと短くなる呼吸と、どんな姿勢でも苦しいという自らの状態を、「ひとり暮らしでなけりゃ、誰かにうざい心配をされるわな」などと思いながら、嘲笑していました。

私は具合が悪い時に、人に話しかけらるのが大嫌いなのです。

内臓の悪化を感じさせるような気分は一切ないし、とにかくこの楽天的な性格ですから、気からと呼ばれる病も、幽霊同様、用がないから「あっち行って」といいきる自信を持ち続けることが、なにより大切なのです。