長電話

~自費出版のススメ~

世界の政治もまたワイドショーか

2012-04-27 | 政治
日本の政治がワイドショー化して久しく、失笑の対象にしか過ぎない人間が、「権力」を背景にして存在しているにも関わらず、軽率な発言と政局を繰り返し、何よりも大事なその「権威」を失墜させた、いまどき政治家という「職種」に就く醜い連中の罪は重い。

こんなことは、日本という長い歴史を持ちながら、つかさつかさで歴史の分断のあったこの国の特殊事情からくる仕方のない経緯だとずっと思っていたのだが、さにあらず、世界的なリセッションのせいもあり、イタリアやギリシャの政権がテクノクラートというロボットによって担われていることからわかるように「権威」を失うことによって、どの国にもかかわらず「政治家」とは選民などではなく、利益配分を担うただの「機能」に過ぎないということに、さすがにわれわれも気付いてしまった。

中国の党派的といわれる権力闘争、党(理想を実現するための手段)を代表するには主張が微妙になってしまったアメリカ共和党の大統領候補、勝てば勝ったで困っちゃうフランス大統領選挙のオランド候補の公約。

個人的に必要なものと、社会的に必要なものがバッティングする現在の世界の不幸と、それを解決すると登場する、実は自己実現を目的に手段として政治家を志す連中の組み合わせ。この不幸な連鎖はからどこの国も逃れることはできまい。

ネット選挙という低いハードルすら越えられないのに、原発再稼働にはいそいそと動くみじんこのような連中に、大きな政策など実現できるはずなどありませんな。できるはずなどない。

尖閣を、いったい誰と誰が、何と何を巡って争っているのか

2012-04-21 | 政治
石原都知事の尖閣の、都による買収提案により、にわかに領土問題好きの周囲が騒がしくなってまいりました。

元外務官僚の評論家・孫崎さんという面白い人も言っているように、日中間には、1978年10月の大平正芳・小平会談により尖閣については、実効支配は日本、帰属は棚上げという、賢い大人の先送りを暗示、中国による領海侵犯的なことがあっても、警告、追い出しはあっても、停船命令、逮捕などはしてはならない、というアジア的紳士協定がありました。

両センゴクさんが無駄に活躍した、先の中国漁船追突事件の処理の過程で、そういった経緯を知らなかったのか、前原という当時の国交大臣が下した当初の命令は「逮捕・起訴」。つまり日本がまず、その紳士協定を破ったというわけです。

強かな中国は、「そんなこと言うんだったらね」とばかりに、その前提を匂わしながら外交攻勢を強め、日本ばかりか、韓国やフィリピン、ベトナムとも領海問題を以前より増して言揚げしはじめております。

さまざまに憶測される石原都知事の意図はそのとおり複雑でしょうし、、争点化されて初めて問題に意識を持ち始める大半の日本や中国の人もどうかと思いますが、「落としの○○さん」のごとく腕のいい取り調べ官の事実上の司法取引が否定されつつあるように、われわれは、世界の曖昧さへのストレスにもう耐えられなくなっているのかもしれません。

橋本さん、石原さんと、山口昌男のいう「まれびと」機能を果たそうという意思を持った人たちを「前面に出さざるをえない」状況、というところでしょうか。

「探偵はBARにいる」を支えるもの

2012-04-18 | アート
久しぶりに奇をてらわないハードボイルドの王道映画の秀作を見ました。

ハードボイルドと日本人の丸っこい性格や風土との相性の悪さは、小説にしても映画にしても気恥ずかしさからか、正面から取り組むのは難しく、松田優作のような体躯の持ち主でもない限り、成功しない分野でもあります。

そういう意味でいえば、この映画は小雪という大柄で立ち姿のいい、拳銃の似合う女優の起用によるところが成功に大きく寄与しており、ハードボイルドのプロットに従っている故に役柄は古典的ではありましたが、見事な存在感を示しております。

「まほろ駅前多田便利軒」では主人公たちが、小学生に「肺を汚すことが、大人になるということだ」と諭すシーンまであり、全編を「親の仇」のように紫煙がもうもうとしておりましたが、この映画も同様、禁煙団体からクレームが来るんじゃないかっていうくらい、テレビから駆逐されたタバコが登場し、私のような重度の中毒者に同意を与えてくれているようで、見ていると正当性を得たようでよい気分になってきます。

もちろん、排気ガスや放射能より安全なタバコですから、これでよいのです。

携帯も持たず(他人をアテにせず依存しない)、タバコを吸い(非自主規制)、報酬への相場観も低い(富への野心が薄い)この探偵の生活は、貧乏へ順応しはじめた私たちのこれからの鏡のようにも思えますが、こういったスタイルをそもそも提唱していたチャンドラーやハメットの「曇りのない目で世界を捉える」ことにもしっかり通じており、この映画を作ったスタッフ達のアートに関わる者としてのスタンスもまたハードボイルドであったことが、この完成された映像をもたらしたといえるでしょう。

下手をすると「メタ映画」(映画内映画、映画そのものが批評的になっている作品)になりかねない世界を、現実感を失わせずに仕上げるのは、むつかしかろうと思います。

清盛とSPEC 愚民化政策からの逃亡 あるいはテレビの巨大化による効果

2012-04-17 | アート
テレビ業界資本と映画業界の不幸な連携が、日本の映像作品の激しい劣化を招いた原因なんじゃろう、とずっと思っていました。

「ケイゾク」はいいとしても「Trick」はいかがなものかと思って評価していなかった、テレビ・映画連携の雄である堤の一連の作品群などその典型で、三谷幸喜とともに、その劣化への最も罪深い戦犯として敵視しておりました。

ところが、先クールの深夜枠における「家族八景」や「SPEC」の再放送を見ることによって、堤作品のクオリティの高さが、垂れ流されるくだらない凡百のドラマ群から抜きんでていることに気付き、その軽くも重くもない映像への姿勢を再認識しました。

キムタクのようなテレビスターの映画進出企画(日本にはムービースター、テレビスターの違いはないけれど)、テレビで成功したスタッフの映画進出企画は、その質的失敗によって、テレビへの映画的技法の還流という効果をもたらしているようで、かねてから独特の美意識を持ち、改革に乗り気だったNHK大河ドラマのスタッフをはじめ、意識的なテレビ業界の人たちは、プログレッシブカメラの効果的使用、カット割りの工夫、セリフの省略、そしてなによりテレビの巨大化に合わせたミディアムショットの多用など、「おやっ」と思う演出をしはじめています。

いつまでも戦国時代のおなじみの大名だけで構成する、大衆向けのドラマばかり見せられ、平安時代末期の複雑なプロットに耐えられない暗愚な国民の視聴率の取れない「清盛」も、いつか必ず日の目を見ることがやってくる、はずです。