久しぶりに「ブリキの太鼓」を見た。
「旅芸人の記録」「木靴の樹」「ブリキの太鼓」は、雑誌で薦められるままに見たけれど、高校生だった当事の私には長くて退屈な映画シリーズとして、まず記憶されている(同時期の公開である「ファニーとアレクサンドル」はさすがに敬遠した)。
私が一時期ドラマーだったことや、声でモノを破壊するという能力描写をその映画を観たというギタリストのH氏の、サイキックなシーンをいかにも愉快そうに話す様子が忘れられないこともあり、その後繰り返し見ることになったその3本の映画の中でも「ブリキの太鼓」は特に印象深い。
戦争を含め、大人たちが引き起こす悲喜劇の狂言回しであるオスカルは、その中立性とシニカルさにおいてスヌーピーとともに、私に強く影響を与えたキャラクターのひとつだ。
どのシーンも絵画のように考えられたアングルで畳み掛ける。映像と脈絡のどっちにもうちひしがれる映画なんて、そうそう出会えない。
こういった、あらゆるこの世の現象を一旦引き受けて、心の中で咀嚼、反芻し、もう一度自らのセンスとスタイルで再生してみる、という行為が作家という連中の、義務ではないにしろ営為だ。
現在、東アジアで行われている愚かな政治状況を引き起こしている民族の政治家たちも、是非この映画を観て、我に返ってほしいものだ。そして知識と経験が増える度にこの映画をものさしとして智恵をつけるため、どんな立場の人も繰り返しみるべきだ。
この映画に登場する、主人公オスカルより印象的な、サーカス団の団長の小人の優雅な振る舞いや発音を、誰しもが見習うべきである。
ブリキの太鼓の舞台であるポーランドであっても、かつての日本であっても、そのときの空気に逆らうのは難しい。パワハラで弱いものいじめをしていた私なんか、全体主義の時代に生まれていれば、またたくまに体制に沿い従ったであろうことは想像に難くない。
私のような迂闊で意志薄弱な人間にとって肝要なのは、組織から離れること。群れないことだ。そのこころがけが、なによりも安全弁として機能する。
そして生粋の愛国主義者より、左翼から転向した連中のリージョナルな屈託を信じよう。
「旅芸人の記録」「木靴の樹」「ブリキの太鼓」は、雑誌で薦められるままに見たけれど、高校生だった当事の私には長くて退屈な映画シリーズとして、まず記憶されている(同時期の公開である「ファニーとアレクサンドル」はさすがに敬遠した)。
私が一時期ドラマーだったことや、声でモノを破壊するという能力描写をその映画を観たというギタリストのH氏の、サイキックなシーンをいかにも愉快そうに話す様子が忘れられないこともあり、その後繰り返し見ることになったその3本の映画の中でも「ブリキの太鼓」は特に印象深い。
戦争を含め、大人たちが引き起こす悲喜劇の狂言回しであるオスカルは、その中立性とシニカルさにおいてスヌーピーとともに、私に強く影響を与えたキャラクターのひとつだ。
どのシーンも絵画のように考えられたアングルで畳み掛ける。映像と脈絡のどっちにもうちひしがれる映画なんて、そうそう出会えない。
こういった、あらゆるこの世の現象を一旦引き受けて、心の中で咀嚼、反芻し、もう一度自らのセンスとスタイルで再生してみる、という行為が作家という連中の、義務ではないにしろ営為だ。
現在、東アジアで行われている愚かな政治状況を引き起こしている民族の政治家たちも、是非この映画を観て、我に返ってほしいものだ。そして知識と経験が増える度にこの映画をものさしとして智恵をつけるため、どんな立場の人も繰り返しみるべきだ。
この映画に登場する、主人公オスカルより印象的な、サーカス団の団長の小人の優雅な振る舞いや発音を、誰しもが見習うべきである。
ブリキの太鼓の舞台であるポーランドであっても、かつての日本であっても、そのときの空気に逆らうのは難しい。パワハラで弱いものいじめをしていた私なんか、全体主義の時代に生まれていれば、またたくまに体制に沿い従ったであろうことは想像に難くない。
私のような迂闊で意志薄弱な人間にとって肝要なのは、組織から離れること。群れないことだ。そのこころがけが、なによりも安全弁として機能する。
そして生粋の愛国主義者より、左翼から転向した連中のリージョナルな屈託を信じよう。