長電話

~自費出版のススメ~

「ミステリと言う勿れ」をいまさら観た

2024-04-23 | アート
「月9」という、かつてブランドとして沢山の資本が集約され、主役を張ることは役者さんのステイタスだった時期がありました。

とにかく金はあるので、主役を盛り立てようとするあまり、こいつのファンも見るだろうと、出しときゃいいというということで有能な役者につまらない役を与えたり、方々への気遣いにより脚本が平面的になったりと、やがてあのだらしのなかった東京オリンピック開会式のように、電通やジャニーズ支配の匂いの漂う陳腐な枠として、私はほとんど期待することなく、関心を持たずにいました。

「ミステリと言う勿れ」は、2022年1月期に放送された作品ですが、原作とともに触れることもなくやり過ごしていましたが、ひょんなことから再放送を見る機会に恵まれ、私の「月9」への偏見を覆されることになります。

昨今の大河ドラマを始め、朝の連続テレビ小説ですら、光や構図を重視し、テレビの巨大化に合わせた映画的演出がなされるようになり、ショーケンや松田優作のように、演出など関係なくミディアムショットで存在感を示す役者の必要がなくなってきているのでしょう、その手法のせいで役者は才能のあるなしにかかわらず、労せずその生まれながらのルックスの良さだけで名声を得たりします。

それはさておき、この作品の登場人物の多く、主人公と周囲の人たち、犯人ですら細野晴臣のような抑揚のないしゃべり方をします。演技で例えればケビンスペイシー。歌で言えばジャニスイアンの「ウィルユーダンス」。それは自分のやってることに一般常識を照らし合わせず、自らの言動を迷うことなく信頼しているせいでしょうか。そのせいか迷いのある人たちは皆アグレッシブでドラマから追放されます。

2~3話のバスジャック事件で主人公は犯人役から「どうして人を殺してはいけないのか」と問われるシーンでは、私は「人を殺しても構わない」けど自分には無理という立場で、それは良い悪いの範疇ではなく、できるかできないかという人個別の話だと思っていましたので、主人公がその問いに対して何を言い出すのかワクワクしながら観ていました。

主人公は、その問いに対しては、話を広げ、答えを曖昧にし、その場で問われる設問自体の幼稚さと不自然さをあぶりだすことによって事態を展開させていました。

これは、気障な答えを結論として一言で言いたがる人たちの日常とは違い、しっかりとした脚本に基づいたドラマなのです。それも「月9」。

私はまだ3話しかみていないのですが、これから麦ちゃんも出演するとのこと。小室哲哉のようなルックスの瑛太の肌の綺麗さと台詞回しとも相まって、その期待から「アンナチュラル」以来のレンタルまとめ借りで、GWの暇つぶしに贅沢をしようと思います。

夢の編集 大滝詠一の洗練

2014-01-05 | アート
その昔、政治漫談などで知性を売りにし、文化人や知識人と呼ばれる人達から好評を得ていたセントルイスという漫才コンビがおり、当時センスが近いってことでツービートのライバルとされていました。

そんな風に比較されたビートたけしは「文化人が褒めてるからって、芸人が偉いなんてこたぁねえんだ」と、セントルイスやタモリの活動のその茶坊主的とも見られた側面を嫌悪し、ムカつき、噛み付いてみせたものでした。

そして、そのセントルイスとコラボしたり、たけしの相方のきよしと「うなづきマーチ」を作ったのが、文化・知識人である大瀧詠一です。

大瀧さんは、前面に出て主張し喧嘩を吹っかける下町のロックンローラー(当時)と違い、常に一歩引いて全体を捉え、松岡正剛のような編集姿勢で音楽を「構築」する活動に徹するのがもっぱらで、目指すは、楽曲や歌詞を素材にした「音の洗練」、さらに言えばフィルスペクターサウンドの完全消化による進化・完成形と言えるでしょう。

そういったスタイルに要求される態度は「節度」であり、どこまでも自分の行為に対して自覚的であらねばなりません。使用する機材の進化による録音環境の変化への対応、有名な分子分母論など方法論の裏付けから導かれる系譜への配慮、つまりそれらを通してオリジナルな自分を一旦消していく作業に身を投じるわけです。

本の装丁をしていると、「あ、これどっかで見たことがあるようなデザインだな」と思うような仕上がりになることがあります。どこにもないんだけれど、どこかで見たことがある気がする。それは黄金率のように、あるべき位置にあるべきものが配置されている状態が実現している、ということかもしれませんが、それ故、特徴的だったり、過激だったりにはなりにくい、つまり調和が生まれることによって個性が失われ匿名性が高くなるのです。

大瀧詠一は「目指すものは、詠み人知らず」と言い、音や音質の再配置により正しいツボに嵌る作品を目指して、繰り返し同じ楽曲に手を加えてきました。「洗練」とはつまり、そういうことなのかもしれません。

合掌

宿命の女、藤圭子

2013-08-23 | アート
お菊人形のような黒目がちなルックス、陰鬱でハスキーな声。

宗教画を思わせるドスの効いた佇まいをもつ藤圭子という歌手は、昭和の新宿・中央線沿線に数多く湧いたファムファタルの中でも突出した存在でした。

生い立ちからして不幸、流れ流れて都会に辿りつき、喧騒に身を委ねながらも自分をかろうじて保ち、その結果その血と肉だけが存在を強く主張するというそのいきづまったタイプは、実は「俺だけが彼女を救える」と思わせられる、現代のアニメファンの男の子がはまる綾波零のような存在、言わばロリータの昭和新宿バージョンの展開だったのかもしれません。

当時の、まだ甲子園地元出場校を応援する習慣のあった地方出身者にとって、ネットもなく交通事情からも遠かった東京という街のイメージは、クリスタルキングの「大都会」や桑田圭佑がカリカチュアした「東京」のように、極端に猥雑でいわゆる生き馬の目を抜く、哀しく危険な場所というものでした。

石井隆や上村一夫の漫画の影響もあるのでしょう、学生運動をやってた連中の危険な生き方もありました。そしてそこにあるべきヒロインとして藤圭子が嵌るわけです。あっさり出て行き、自由に振舞う高橋真梨子とは違い、彼女はどこにも行けず、四畳半に留まり、不器用に拘り寄り添ってくれました。

男の勝手な思い込みが投影されたキャラクターが共有された時代は終わり、現実にはそういった女性は最初から存在せず、新宿はゲイが席巻、「痴人の愛」の主人公のような沢口エリカに振り回されるのに辟易した男達は二次元世界に救いを求めはじめるわけです。

藤圭子さん本人が実際どういった人かは分かりませんが、藤圭子が残したキャラクターを引き継ぐアイドルは現実世界ではもう現れないし、必要ともされないでしょう。しかし現在でも日本の男達は高橋真梨子や大貫妙子に順応できず、心情としてはいまだ藤圭子に拘り続けているような気がします。私のように。

鈴木先生 Lesson11

2013-07-12 | アート
こういう低予算で、ロケハンもCG処理も必要のない学校や公園が舞台の作品では、カメラワークや脚本がクオリティを担保することになり、金にものを言わせた演出や話題作りのためのタイアップ主題歌の要請がないためか、2時間ドラマ的になりやすく、突っ立って台詞をしゃべり、身体の動きが少ないシーンが多いこの作品を映画にするという企画が持ち上がった段階でスタッフは、どのようにして「映画」に仕上げるかに悩まれたと思います。

朝の連続テレビ小説が台所に立つ主婦のため、あまり映像を見なくても筋が分かるようナレーションを多用したり、不自然な台詞の挿入で物語を展開するように、テレビドラマというものは映像的である必要はなく、よって作品は演出家ではなく脚本家のものとされます。

しかし、テレビでありながら極めて映像的であった「鈴木先生」のスタッフは、そもそも映画を撮っている感覚で脚本を作り映像を構成していたのですから、素材が「映画」であっても、そのスタンスをあまり変える必要はなかったのかもしれません。

脚本は、正しい事をする人物や、表現の上手な人物を、とりたててヒーローとして扱わないというテレビシリーズからの方針は踏襲され、喫煙室の先生仲間や足子先生もまた、それぞれ本人にとってベストと思われる行動をみせ、誰もが憎しみや怒りを上く回避しながら物語を収束させております。

カメラは、薬師丸ひろ子の「セーラー服と機関銃」を思い出す、相米さん的なアップの少なさと長回しで、観客は演劇を見るように観念的に俯瞰させられ、登場人物を中立的に捉えられる映像で、「壊れることを許さない」「グレーゾーンの維持」「立場を演じる」というテーマを表現しています。アップの編集による感情の操作をあくまで拒み、穏やかに抑制された印象に止めようとするスタッフの意志が感じられるところです。

また、エンドロールの生徒たちの映像が素晴らしく、そこにいない鈴木先生の教室に参加したもの達のレッスン1からの成長のエピソードをもう一度見たくなりました。

映画はフィクションであると同時に役者を映すドキュメンタリーであり、エヴァの子供達の年齢を、この映画を通して幸福に過ごした彼らの今後の現実での展開がとても楽しみです。

ウイリアムモリス20周年

2013-06-29 | アート
渋谷にある、珈琲&ギャラリー「ウイリアムモリス」が20年目を迎え、歴代出品作家達がお店に絵葉書を投稿するという形で収集、その200近くに上る作品が展示されています。

展覧会というものは、歴史的な作家に限らず、情念の込められた作品群に途中で胸が悪くなるくらい圧倒されます。一つでも十分なのにその発信力と情報量に辟易して疲れてしまうのです。

しかし今回は、店長から支給された葉書サイズにほぼ統一され、近くまで寄って見ないとそのディテールが分からないくらいコンパクトに小さな宇宙を展開しており、私のように疲れ易いものにとっても、とても接しやすい展示となっています。

ウイリアムモリスは5年毎にこういった作家達の葉書展を行っており、5年、10年、15年のものも、綺麗に製本された本にそれぞれ纏められており、普通に葉書を眺めるように手元からの視線で鑑賞することもできます。店長の日野さんにお願いすれば、気軽に応じてくれると思いますので、来店の際には是非ご覧になってください。

6月いっぱいの展示で、今日明日で終わり・・・、お知らせが遅れましたが、急遽予定を変更、あるいは足を伸ばしても十分満足のいくものになると思います。不肖わたくしも投稿しております。

疾走するAoi

2013-06-23 | アート
野球のなんとも、のんびりした「つーあうと~」なんて確認の掛け声を聞いていると、相撲や武道など礼儀を「間」として表現するスポーツ芸能スポーツの「アート感」を意識します。

日本代表が「サムライジャパン」と言われるように「やあやあ、われこそは」と名乗り(アナウンスされ)、基本ピッチャーとバッターの一騎打ちをする野球は、演歌やフォークの似合うソロアーチストによる孤独なスポーツと言え、一人で九回をノーヒットで抑えサヨナラホームランを打つ江夏豊や、広島の前田智徳の佇まいがそれを象徴していように、野球とは常に実存的で孤独なものです。

対してサッカーはミニマムで組織の連動なくしては成立しません。確かにスタープレーヤーは存在しますが、野球の打点・得点数と違い、ピルロのゴール数が評価に比例するわけもありません。

日本vsイタリアでの熱戦も面白いものでした。が、しかし、今回のコンフェデレーションカップで私にとって最も感動的だったのは(まだ終わっていませんが)NHKの番組テーマ曲のサカナクションによる「Aoi]です。

ミニマムなアレンジをバックにPモデルを彷彿とさせるコーラスが乗り、何語なのか分からないよう仕組まれた、字幕を見ないと分からない短いフレーズの中での歌詞のリフレインを展開するサビ、カットアップされた言葉は意味を超えて、世界大会にふさわしい普遍性を目指し、ちぎれるように離合集散を繰り返します。

うっとおしいだけの「元気もらった」的楽曲の多かった、この手の番組のテーマソングとしては際立って秀逸、特にその躍動するイメージには、しっかりとサッカーの世界観、そしてコンフェデという大会の高揚感を表現しきっており、すっかり感服してしまいました。

トレバーホーンのようなキーボードや、めっさかっこいいベーシストの女性のルックスの良さも相俟ってブレイクしたこのバンドにも大いに大衆的な支持が集まっていることで、AKBに席巻されるばかりだと思っていた日本の音楽ファンにも確かな強かさがあることを知り、いまさらながら安心しました。

復活する人々

2013-02-11 | アート
自分の記憶、記憶に自身が裏切られることは、誰しもあるでしょうが、年月を隔てて培った記憶が、他人によって検証される行為としては、少年時代の「同窓会」が有効であることは、言うまでもありません。

同窓会とはそういう残酷な側面があり、自分の記憶、海馬への自信が揺らぐものです。

松田優作風に言うと「残念だったね」で終わるような失望、他愛のないことが、分刻みで繰り返され、その記憶のいちいちが「承認」を得ず、用意していた謝罪や感謝が中空を舞うのです。

神が宿るはずのディテールは共有できないし、美が宿るはずの乱調も現れないとすれば、同窓会の現場という実態が、「懐かしいね」と、言うのもげんなりするようなタイプの人間にはそもそも相応しくない、ということで、撤退の2文字しかないとすれば・・・

となります。


安倍総理の記憶、その中の悔恨に属する感情が、どれほど強いものかと感じるのは、党派を超えて感じる「少年性」の一種なのかもしれません。

奇跡と幻滅のあいだ~ブリキの太鼓のスヽメ

2012-08-28 | アート
久しぶりに「ブリキの太鼓」を見た。

「旅芸人の記録」「木靴の樹」「ブリキの太鼓」は、雑誌で薦められるままに見たけれど、高校生だった当事の私には長くて退屈な映画シリーズとして、まず記憶されている(同時期の公開である「ファニーとアレクサンドル」はさすがに敬遠した)。

私が一時期ドラマーだったことや、声でモノを破壊するという能力描写をその映画を観たというギタリストのH氏の、サイキックなシーンをいかにも愉快そうに話す様子が忘れられないこともあり、その後繰り返し見ることになったその3本の映画の中でも「ブリキの太鼓」は特に印象深い。

戦争を含め、大人たちが引き起こす悲喜劇の狂言回しであるオスカルは、その中立性とシニカルさにおいてスヌーピーとともに、私に強く影響を与えたキャラクターのひとつだ。

どのシーンも絵画のように考えられたアングルで畳み掛ける。映像と脈絡のどっちにもうちひしがれる映画なんて、そうそう出会えない。

こういった、あらゆるこの世の現象を一旦引き受けて、心の中で咀嚼、反芻し、もう一度自らのセンスとスタイルで再生してみる、という行為が作家という連中の、義務ではないにしろ営為だ。

現在、東アジアで行われている愚かな政治状況を引き起こしている民族の政治家たちも、是非この映画を観て、我に返ってほしいものだ。そして知識と経験が増える度にこの映画をものさしとして智恵をつけるため、どんな立場の人も繰り返しみるべきだ。

この映画に登場する、主人公オスカルより印象的な、サーカス団の団長の小人の優雅な振る舞いや発音を、誰しもが見習うべきである。

ブリキの太鼓の舞台であるポーランドであっても、かつての日本であっても、そのときの空気に逆らうのは難しい。パワハラで弱いものいじめをしていた私なんか、全体主義の時代に生まれていれば、またたくまに体制に沿い従ったであろうことは想像に難くない。

私のような迂闊で意志薄弱な人間にとって肝要なのは、組織から離れること。群れないことだ。そのこころがけが、なによりも安全弁として機能する。

そして生粋の愛国主義者より、左翼から転向した連中のリージョナルな屈託を信じよう。

傘がない

2012-08-24 | アート
ノンポリを「ノンポリシー」の略だと勘違いする日本人が多いのは、決して氷室京介のせいだけではありません。

「宴の席で政治の話など無粋」というのは、日本の政治が「ムラ」によって成立しており、その近代的正当性の薄い構造を衆目のなかで暴き立てる行為が、生臭いとして忌避されてきたという歴史故であり、ある意味地元の有力者がしきってきたのが政治であり、中央政府などというものはそもそもアテにするようなものではないという、日本型部族社会の名残でもあるからだと考えられます。

しかし有力者だけが情報を握り、利害調整を請け負ってきたイニシエのカタチは去って久しく、法の外から共同体を支援してきた侠客たちは「暴力団」と呼ばれ排除され、中間集団が担ってきた自治が失われるのと比例して民主主義がはびこり、平等を配給された日本の景色は平準化されていきました。

井上陽水の名曲とされる「傘がない」は、70年代学生運動華やかりし頃のアラ20の心情を唄ったものなので、小学生だった私が「当事者」として聴き、さもありなんと思った記憶はありません。

ただ、「いかなくちゃ、君に逢いにいかなくちゃ、傘がない」と続き、最後は泣いてしまうその唄は、たかが「雨傘」だけに固執しているのではなく、「傘」はいいわけで他に理由があったんじゃねえか、と子供心にいぶかったのも確かです。つっこみたくなる不自然さがそこにあったわけですな。

しかし、子供は暗喩など理解できません。
大人風にいえば、「傘」とは何のシンボルなんでしょうか。

おおむね同時期にヒットした森進一の名曲「おふくろさん」には「世の中の傘になれよと おしえてくれた あなたの真実」とあり、母へのラブソングの中にある「傘」が非常に政治的な意味合いにも捉えられます。

また、「君に逢いに」の「君」を男性と想定してみると、「君」が学生運動に熱心な人で、デモに誘われてるのだけれど、傘、つまり「政治的動機」を持ち得ないという心情の話なのか、と考えることも簡単です。

自殺する若者、テレビではアホなコメンテーター、と今も昔も変わらない話をさくっと挿入するこの曲がいまだ普遍であるという、井上陽水の過不足のないコラージュのセンスといったところでしょうか。

彼女、またどこかへいってしまう

2012-08-22 | アート
選んだ大学での選んだサークルでの印象的な面々ならまだしも、不可避・自動的な、自覚なき選択の高校時代の同窓生の顔を概ね忘れていたとしても、責められるような筋合などないといってもよいでしょう、と誰かに同意を求めたい位、30年振りで顔をあわせる同窓会というものは「あんた誰?」の連続でした。

同窓会なんて、社会的にある程度成功してる連中しか参加「できない」わけですから、その影のない表情を見ていれば、境遇を推し量ることは簡単です。私はそういったステイタスを無視し、ルックスの変化、発言の保守化などに興味を絞り、ふさわしいとはとても思えない、同窓会の参加を決めました。

驚くのは、女性たちの変わらなさ。

それでも幾人かの男性はその麗しさをキープしていましたが、多くの男たちは醜いというほどではないにしろ、おしなべて恰幅を確保し、金親子よろしく儒教的貫禄を身につけているのに比べ、女性のその変わらなさには驚かされました。

「変わらないねえ」は歯の浮くような褒め言葉なはずなのに、実際変わっていない彼女たちの体型には「おべんちゃら」が必要がなく、ただ事実を言ってるだけなのに「いやあねえ」と返す彼女たちに、「いやホントだよ」といえない歯がゆさを催しました。

手や首に多少の「老い」は散見されましたが、、デブはデブに、やせっぽちはやせっぽちに、ちびはちびに、鳥は鳥に、変わりない連続した生活を務めている結果としての体型維持には、少々感動です。

それはこの日に合わせてダイエットした、などというレベルではなく、その存在と印象が体型に寄り添っているからこその感動なのでしょうか。いまだあきらめていない現役感からくる感動なのでしょうか。

私は、いじめをしたという自覚のある何人かに謝罪を済ませ、私を最後まで嫌わなかった女性の何人かに謝意を示したあと、きょとんとする対象を尻目に、2次会に行く連中を見送りました。

一番綺麗だった、同じ部にいただけでほとんど会話すら交わさなかった娘に、「覚えてる?」と聞いて「ええ」と応じられ、その意外さにびびって「じゃあまた」と言う自分もどうかとは思いましたが、同窓会におけるビエイビアなんて誰しもそういったものでしょう。

苦役バス

2012-08-19 | アート
帰省のため、旅費を安くあげようと深夜高速バスなるものを利用してみたところ、出発した瞬間に後悔させられ、二度と乗るまいと誓わざるをえない、そして旅行とすら呼べない、地獄のような苦役を味わいました。

案内にはSAでの3時間毎の休憩をいれた道中17時間とあったので、たまった本をたっぷり持ち込み、時間の元をとるぞとはりきっておりましたが、出発し高速に入った途端「消灯」。まだ夜の9時。目の前にあった私の時間が奪われ、途方もなく長い退屈な時間が横たわります。

さらにカーテンが閉められ、景色を見る権利すら奪われます。自分がどこにいるか判断する材料もないのです。分かるのは時間の経過だけで、まったくの護送される囚人気分を、これでもかと与えられ続けられました。

運営会社による席の割り振りは、年齢と性別によるもので、似たタイプが並ぶことにより、一見友人、お仲間風なのですが、実際は全くの他人同士、当然、道中ひとっことも口を開くことはありません。長い時間をかけて旅費を浮かす貧乏で礼儀も愛想もない、旅行だっつうのに、酒も食事もとらない草食若者(弱者?)たちの群れ。そんななかに私は放り込まれていたのです。

気づくのがおそかった。

辛かったのは5時くらいに空が白み始めても、おそらく早くには寝られなかった連中が明け方にようやく寝付くことができたのか、みなさん泥のようになっており、待ちに待った夜明けなのに、カーテンを開けることができなかったことです。

暗室のような車内で目を凝らして本を読みながら、眠いやつにはアイマスクと耳栓配れよ、などとむかついておりましたら、小倉に到着。大半の乗客が降りたので、眠ってる人がいないのを確かめ、空いてる席に移動、誰にも断らずカーテンを開けました。

疲れました。

バス会社は、この条件に、時計とSAなしを加えたスタイルを導入し、気が狂わなかったらただにする、なんてツアーを考えてみるのも一興かもしれません。

永遠の中村敦夫

2012-06-06 | アート
さりげなく「時事問題」や、前からそう思ってたんだけど誰も言ってなかったようなネタを滑り込ますのが上手なのは、「リーガルハイ」と「コドモ警察」です。

あんまり可愛くない女の子がボーカルのバンド、ってネタはコドモ警察、ポップスの大物作曲家が、戸田奈津子の下訳のごとく、多くの印税の発生しない部下に創作の依頼をし、名義は「すまた」だの「なっとうや」だのの名義で作品を世に出すという慣習を暴露したのはリーガルハイ。

折から、20年振りに連絡のあった知り合いから、軽井沢のサナトリウムでの同僚がそれらの大物からの創作依頼の仕事をしていたとかで、おかげで鬱になった、との情報があり、いくらネタがないからって、テレビも自爆しはじめたのかと大笑いしておる次第です。

デザインなどという仕事をし続けていると、それがアートではなく編集というスキルと経験を「前提」にしたものだということが分かってきます。

「コドモ警察」は、大人が子供になることによって生じる不具合を「前提」にしています。まったくのゼロから世界を象徴させ再構成するのがアートなら、「コドモ警察」は編集という限定された発想によって作られた傑作といえるでしょう。

「鈴木先生」ほどではないにしろ、「チャンス」の続編としての「家族のうた」も含め、今クールは豊作です。視聴率の低い番組ほど面白いという現象もまた、自らの疎外感を正当化できるってもんです。

「探偵はBARにいる」を支えるもの

2012-04-18 | アート
久しぶりに奇をてらわないハードボイルドの王道映画の秀作を見ました。

ハードボイルドと日本人の丸っこい性格や風土との相性の悪さは、小説にしても映画にしても気恥ずかしさからか、正面から取り組むのは難しく、松田優作のような体躯の持ち主でもない限り、成功しない分野でもあります。

そういう意味でいえば、この映画は小雪という大柄で立ち姿のいい、拳銃の似合う女優の起用によるところが成功に大きく寄与しており、ハードボイルドのプロットに従っている故に役柄は古典的ではありましたが、見事な存在感を示しております。

「まほろ駅前多田便利軒」では主人公たちが、小学生に「肺を汚すことが、大人になるということだ」と諭すシーンまであり、全編を「親の仇」のように紫煙がもうもうとしておりましたが、この映画も同様、禁煙団体からクレームが来るんじゃないかっていうくらい、テレビから駆逐されたタバコが登場し、私のような重度の中毒者に同意を与えてくれているようで、見ていると正当性を得たようでよい気分になってきます。

もちろん、排気ガスや放射能より安全なタバコですから、これでよいのです。

携帯も持たず(他人をアテにせず依存しない)、タバコを吸い(非自主規制)、報酬への相場観も低い(富への野心が薄い)この探偵の生活は、貧乏へ順応しはじめた私たちのこれからの鏡のようにも思えますが、こういったスタイルをそもそも提唱していたチャンドラーやハメットの「曇りのない目で世界を捉える」ことにもしっかり通じており、この映画を作ったスタッフ達のアートに関わる者としてのスタンスもまたハードボイルドであったことが、この完成された映像をもたらしたといえるでしょう。

下手をすると「メタ映画」(映画内映画、映画そのものが批評的になっている作品)になりかねない世界を、現実感を失わせずに仕上げるのは、むつかしかろうと思います。

清盛とSPEC 愚民化政策からの逃亡 あるいはテレビの巨大化による効果

2012-04-17 | アート
テレビ業界資本と映画業界の不幸な連携が、日本の映像作品の激しい劣化を招いた原因なんじゃろう、とずっと思っていました。

「ケイゾク」はいいとしても「Trick」はいかがなものかと思って評価していなかった、テレビ・映画連携の雄である堤の一連の作品群などその典型で、三谷幸喜とともに、その劣化への最も罪深い戦犯として敵視しておりました。

ところが、先クールの深夜枠における「家族八景」や「SPEC」の再放送を見ることによって、堤作品のクオリティの高さが、垂れ流されるくだらない凡百のドラマ群から抜きんでていることに気付き、その軽くも重くもない映像への姿勢を再認識しました。

キムタクのようなテレビスターの映画進出企画(日本にはムービースター、テレビスターの違いはないけれど)、テレビで成功したスタッフの映画進出企画は、その質的失敗によって、テレビへの映画的技法の還流という効果をもたらしているようで、かねてから独特の美意識を持ち、改革に乗り気だったNHK大河ドラマのスタッフをはじめ、意識的なテレビ業界の人たちは、プログレッシブカメラの効果的使用、カット割りの工夫、セリフの省略、そしてなによりテレビの巨大化に合わせたミディアムショットの多用など、「おやっ」と思う演出をしはじめています。

いつまでも戦国時代のおなじみの大名だけで構成する、大衆向けのドラマばかり見せられ、平安時代末期の複雑なプロットに耐えられない暗愚な国民の視聴率の取れない「清盛」も、いつか必ず日の目を見ることがやってくる、はずです。

屁をしてもひとり

2011-09-19 | アート
酔っ払って、地下鉄から地上に出たら、そこは水天宮だった。

去年の夏は、南千住でした。私は事務所から遠い所で飲むと、50%の確率で家に帰れません。運のいい時は10年遭っていない知り合いが、電車で私を見つけて、危険を知らせてくれたりもすることもありましたが、大方、飲むと電車で泥のように寝てしまい、この世の果てまで運ばれてしまいます。

水天宮は、駅前だけの印象だと、門前仲町や浅草橋に近く、南千住と違い、私には快適。街は私に「ウエルカム」な様子で、まずは安心し、駅前にある駐車場の隅に歩道から死角になっている場所を見つけ、篭城を決め込みました。

面倒くさがって目立つところに寝ると、「通報」という、さらにやっかいな事態になりますので、そこは大胆ではなく、慎重にねぐらを探さなければならないのです。

私は非常に痩せているので、食べ過ぎると、鳥を丸呑みした蛇のような体型になってしまいます。それはちょうど、ツチノコ、あるいは「星の王子様」にでてくるうわばみのように、おなかがぽっこりと出てしまいます。

その夜も食べ過ぎていまして、おなかに圧迫感があり、どうにも気分が悪かったのですが、持っていた新聞をかぶり、ようやく丑三つ時あたりで睡魔と握手した頃、頬に水を感じて起きたら、雨。

歩いているとき、立っているときにしか、雨を浴びたことがなく、横になって平面で雨に顔を叩きつけられると、こうも辛いのかと思い知りながら、顔だけは駐車場の車の下につっこんで、あっさり二度寝。

とはいえ、コンクリートの上、そうそう長居はできませんので、始発で事務所に向かいましたが、電車の快適なソファーで3度寝。気がついたら中央林間をターンし、またまた水天宮。

被災地を慰問に来る「さかなくん」が、あくまで魚の帽子をかむっているのに、年老いたシリアスな被災者が不快な顔ひとつせず対応されている様子をみるにつけ、田園都市線の社員の、日常である寝過ごした乗客への対応が冷淡なのも許せるというものです。