原発は相変わらず危機的状況から脱していないし、桜は散るし、被災者の展望は開けてないのに政治家は政局にいそしんでいるようだし、発情猫は庭でうるさいし、・・・と、大小にかかわらず問題を並列にしてみるたところでせんないことですが、これが今の私の「終わりなき」日常です。
震災によって変わったことのひとつに、自転車通勤の増加があります。あの震災の夜に自転車屋に駆け込んだ長距離通勤の方々をはじめ、地震による度重なる交通網の麻痺に懲りたのか、ベトナム通勤風景とまでは言わないまでも、朝の車道は自転車であふれており、信号が変わったときに走り出す連中に混じっていると「バイシクルレース」に参加したようで楽しく、思わずクイーンのあの唄を口ずさんだりしてしまいます。
ただ、こういった連中は震災前にもいたのですが、無灯火、逆走などマナーを知らない方も多く、単純にエコや健康の観点からだけで、自転車人口の増加を喜ぶわけにもいきません。また、闇雲な節電で暗くなった都会の夜のサイクリングは危険と隣り合わせでもあります。
そして、友人のG女史が「殺意」をまで口にしたその最たる行為が、車道を走っているのに、横断歩道を赤で横切るヤカラです。
欧米だと自転車は車道を走るのが常識で、歩道を走ろうものなら、知らないおじさん達からの袋叩きを覚悟せねばならないそうです。
しかし日本では法規が最近変わったとはいえ、自転車は車道ルールが基本ではありますが、自転車道が整備されてないせいもあり、車道を走っても歩道を走っても迷惑な存在に陥っており、立場はアイマイで、自転車愛好家としても肩身の狭い思いが続いております。
多くは歩道と車道の信号の指示の都合のいいところをつまみ食いして進行の判断材料としているので、止まる必要がないという彼等の油断した解釈もわからなくはないのです。私も、かなり気をつけてはいるのですが、進路に遠慮する歩行者にはっとさせれることは多々あります。
確信犯でなくとも、ついつい犯してしまう罪。
自転車「制度」(蓮見風)を理解しながらも、自転車乗りの立場は内的にも外的にも中途半端なのです。ヘルメット着用義務など法規制がこれ以上強まる前に、連帯してわれわれ愛好家は歩道での「歩行者優先」と車道での「自動車なみの罰則へ覚悟」をもって運転しなければいけないのです。
震災によって変わったことのひとつに、自転車通勤の増加があります。あの震災の夜に自転車屋に駆け込んだ長距離通勤の方々をはじめ、地震による度重なる交通網の麻痺に懲りたのか、ベトナム通勤風景とまでは言わないまでも、朝の車道は自転車であふれており、信号が変わったときに走り出す連中に混じっていると「バイシクルレース」に参加したようで楽しく、思わずクイーンのあの唄を口ずさんだりしてしまいます。
ただ、こういった連中は震災前にもいたのですが、無灯火、逆走などマナーを知らない方も多く、単純にエコや健康の観点からだけで、自転車人口の増加を喜ぶわけにもいきません。また、闇雲な節電で暗くなった都会の夜のサイクリングは危険と隣り合わせでもあります。
そして、友人のG女史が「殺意」をまで口にしたその最たる行為が、車道を走っているのに、横断歩道を赤で横切るヤカラです。
欧米だと自転車は車道を走るのが常識で、歩道を走ろうものなら、知らないおじさん達からの袋叩きを覚悟せねばならないそうです。
しかし日本では法規が最近変わったとはいえ、自転車は車道ルールが基本ではありますが、自転車道が整備されてないせいもあり、車道を走っても歩道を走っても迷惑な存在に陥っており、立場はアイマイで、自転車愛好家としても肩身の狭い思いが続いております。
多くは歩道と車道の信号の指示の都合のいいところをつまみ食いして進行の判断材料としているので、止まる必要がないという彼等の油断した解釈もわからなくはないのです。私も、かなり気をつけてはいるのですが、進路に遠慮する歩行者にはっとさせれることは多々あります。
確信犯でなくとも、ついつい犯してしまう罪。
自転車「制度」(蓮見風)を理解しながらも、自転車乗りの立場は内的にも外的にも中途半端なのです。ヘルメット着用義務など法規制がこれ以上強まる前に、連帯してわれわれ愛好家は歩道での「歩行者優先」と車道での「自動車なみの罰則へ覚悟」をもって運転しなければいけないのです。