長電話

~自費出版のススメ~

ノイジー・サイクリング・ブギ

2011-04-15 | スポーツ
原発は相変わらず危機的状況から脱していないし、桜は散るし、被災者の展望は開けてないのに政治家は政局にいそしんでいるようだし、発情猫は庭でうるさいし、・・・と、大小にかかわらず問題を並列にしてみるたところでせんないことですが、これが今の私の「終わりなき」日常です。

震災によって変わったことのひとつに、自転車通勤の増加があります。あの震災の夜に自転車屋に駆け込んだ長距離通勤の方々をはじめ、地震による度重なる交通網の麻痺に懲りたのか、ベトナム通勤風景とまでは言わないまでも、朝の車道は自転車であふれており、信号が変わったときに走り出す連中に混じっていると「バイシクルレース」に参加したようで楽しく、思わずクイーンのあの唄を口ずさんだりしてしまいます。

ただ、こういった連中は震災前にもいたのですが、無灯火、逆走などマナーを知らない方も多く、単純にエコや健康の観点からだけで、自転車人口の増加を喜ぶわけにもいきません。また、闇雲な節電で暗くなった都会の夜のサイクリングは危険と隣り合わせでもあります。

そして、友人のG女史が「殺意」をまで口にしたその最たる行為が、車道を走っているのに、横断歩道を赤で横切るヤカラです。

欧米だと自転車は車道を走るのが常識で、歩道を走ろうものなら、知らないおじさん達からの袋叩きを覚悟せねばならないそうです。

しかし日本では法規が最近変わったとはいえ、自転車は車道ルールが基本ではありますが、自転車道が整備されてないせいもあり、車道を走っても歩道を走っても迷惑な存在に陥っており、立場はアイマイで、自転車愛好家としても肩身の狭い思いが続いております。

多くは歩道と車道の信号の指示の都合のいいところをつまみ食いして進行の判断材料としているので、止まる必要がないという彼等の油断した解釈もわからなくはないのです。私も、かなり気をつけてはいるのですが、進路に遠慮する歩行者にはっとさせれることは多々あります。

確信犯でなくとも、ついつい犯してしまう罪。

自転車「制度」(蓮見風)を理解しながらも、自転車乗りの立場は内的にも外的にも中途半端なのです。ヘルメット着用義務など法規制がこれ以上強まる前に、連帯してわれわれ愛好家は歩道での「歩行者優先」と車道での「自動車なみの罰則へ覚悟」をもって運転しなければいけないのです。

「5時に夢中!」からの警告

2011-04-09 | メディア
ホリエモンは2ちゃんについて「あそこはね、まとめサイトってのがあってね、あれさえ見てればいいの」とのたまいましたが、その納得のいかない健全な見識に「5時に夢中!」の曜日を超えて適当だったりマジだったりをいい加減に発信する玉石混交的であることをモットーとするスタイルをもつ番組を楽しむ私にとっては、「実利」しか追わないホリエというのは、実に気持ちの悪い対象です。

その「5時に夢中!」にフリージャーナリストの村上安身氏が今回の震災による原発の状態について警告を鳴らしていました。

地震勃発から1ヵ月が経ち、ストレス・集中力の限界からか、一旦、田舎や海外に逃亡した東京の人達も帰ってきており、スーパーの棚も充実を取り戻してきているし、選択肢のない東京在住者も安全より安心を気分として優先していることもあり、実は緩やかにネガティブになっている政府発表をよそに、なんとなく小康状態、あるいは危機は峠を越え、復旧に目処が立ったと思われています。

しかし村上氏は、(東電もしぶしぶ認めた)1号機の燃料棒は70%損傷しておりメルトダウン、再臨界の可能性を指摘している、今回の事故でクローズアップされた原子力マフィアにスポイルされ続けた京大の小出准教授の、核反応してないと検出されないはずの塩素38の確認したことをもとに、その危機がケイゾク、あるいは悪化していることを指摘していました。

だからといって、どうこう行動を起こすような私ではないのですが、とりあえず安心だけは解禁されないストレス状態が続いています。

相手の自主性を認めることは、同時に自分の自主性を認させるということです。中国がよく「内政干渉」を大義名分に内と外の尊重を主張しますが、これは各国の手段の自由、つまり主張を武力の行使を前提に実現することを是とすることを意味します。

日本人のように、秀吉によって刀狩りされて以来、武力を用いない民で構成される国というのは、「あなた」と「わたし」、公私というものがあまりないわけですから、曖昧に「わたし」も含まれる統治権力にフリーハンドを与えるという、欧米からみれば倒錯した態度を取りがちです。

横並びの大手メディアがかもし出す安心感に棹差すことなく、各局にスポイルされ続ける上杉隆氏など独立系のタレントばかりでアウトサイダーを演じる東京MXテレビのアナーキーなスタンスは個人としても見習うべきで、またこういう有事にこそ力を発揮するものなのかもしれません。

川の底からこんにちは

2011-04-05 | アート
菅総理はTPPについて「第3の開国」として「開国の舞台である横浜」で、その重要性を説きましたが、明治維新に連なる第1の開国は人口5パーセントの武士によって、第2の開国「戦後民主主義」はアメリカによってもたらされた言わば「しょうがなく」外からやってきたものです。

日本人は「しょうがない」が好きです。今回の震災による原発事故に対しても、既に知っていた東電の隠蔽体質に何も反応してきませんでしたし、必ず起きると言われている首都圏の震災に対しても何も準備してなかったことが、今回の非常時に必要な物資の買だめで明らかになりました。

我々日本人はG8の末席に陣取り、その先進国のなかで、「中の下」に安住して「まあこんなもんでしょう」と、目立つことを怖れながらいつも適当良い加減に振舞ってきました。

震災後の(悪い結果が予想され、大手メディアのスポンサーである東電、三菱、日立、東芝に気を遣ったのか)数少ない(連中の大好きな)世論調査(東京新聞、TBS)でも、やはり原発と電力に対する意識は「しょうがない」が反映され、原発絶対反対は震災前と同じ2割程度で推移し、都知事選挙でも原発容認派の石原氏が当選しようとしています。

日本人の男のほとんどは政治家も含めてサラリーマンなので、会社(国家)依存はしょうがなく、官僚を批判する資格はまずありません。誰もが「我去りし後に洪水きたれ」てな感じで認識は暗いのに楽観的だったりする、そんな人達ばかりです。

しっかり情報にアクセスしようとすれば、TPPも原発も小沢裁判も危険なことだと気づくはずなのに、大手メディアのお手盛り情報に流され、安全より安心を優先し、広瀬隆や清志郎のようにはっきり言う人を「まあまあ」「大人になれよ」となだめます。

そして何もしなかったクセに、いざ事故が起こってしまうと今度は「政府が悪い」「あの企業の責任だ」とスケープゴートを探し始めます。嫌いな人がいなくなると、次のターゲットを探し始めるイジメの構造と同じなのです。

映画「川の底からこんにちは」に登場してくる人達は、私も含めそんな日本人の「中の下のしょうがない人達」を、愛情を込めて描いています。

この作品には、どんな映画にも必ずちょい役で登場する資本の臭いのする温水洋一とか、竹中直人がいません。ほとんどがシェークスピア劇で鍛えられた英国の舞台役者のようにうまく、匿名性の高い俳優がワキを固めたおかげでコメディでありながら、とてもリアルに仕上がっていました。

台詞がないけれど存在感のある人もいるし、「気づいたときからしょうがない」という諦念的雰囲気がどのキャラにもあって、現実を引き受けることと容認することの微妙なハザマでベストを尽くしている様子がひどく伝わってきます。

「やけくそ」ととられかねない「社歌」。主人公を追いかけてきた子持ちの恋人のだらしのない行動。価値観をもたない子供の視線。私達のベーシックな倫理が既に損なわれていながら、それもありじゃんと屈託をもちながらも容認する、ノリでかけおちした過去の経験から、主張をしきれない主人公の様子が、場合によってはなんでもありなこの世界への単純な執着を表していて大いに笑えました。

ひょっとしてこんな映画を気に入る人達、疎外感を親友としているような連中は少数派なのではないかと思っていたのですが、レンタル屋さんでは豊富な品揃え。喜んでいいのか、不安になった方がいいのか分かりませんが、今の若い連中っていうのは私のようなロートルが心配するよりずっと挫折感を知っており、したたかなんではないかと思い、少しだけど頼もしく思えてきました。

9・11の直後に見ないと分からないであろう「ミスティックリバー」のように、この映画の震災の前に作られたとは思えないほど今を暗示する内容は、是非「今」見ていただきたい映画。お勧めです。