長電話

~自費出版のススメ~

カダフィーってひょっとして阿呆?

2011-02-28 | 政治
北アフリカから中東の動乱の連鎖は、民主化という、よりよき革命に向かっていると信ずれば、ことほぐべきことなのかもしれませんが、イランの反体制勢力のイスラム的保守性をはじめ、「決して民主化闘争とは言い切れない」仕掛ける側の資質は、欧米の好むタイプのものではありません。

革命の帰趨によっては、イスラエルへの新たな総括という事態も生じかねず、欧米にとっての悲劇が引き起こされる可能性も排除できない、未知数な未来に思惑含みで事は流動的です。

さらに、エジプトやチュニジアと違い、アフガニスタンに近い、部族によってシェアされる国家概念の薄い統治形態であるリビアは、元首の指示で、傭兵による空爆やミサイル攻撃という恐るべき(わけの判らない)白色テロで数千人規模の犠牲者が出ており、もう花や果物の明るいネーミングは控えなくてはなりません。

ところで、こういった状況に水を射す、とでもいいましょうか、イマイチ深刻になりきれない原因の中心に「カダフィー大佐」という人物がいます。カントクといえば山本晋也、大佐というと、仮面ライダーのゾル大佐に次ぐ人気者、世界の「タイサ」カダフィーです。

(ちなみに「大佐」、これは日本だけの誤訳で、「コロネル・カダフィー」は大将を意味し、中将とか少佐とか階級の肩書を表すものではないそうです)

湾岸戦争前には、戦争当事者を一同に集め、強引に握手させるとぶちあげて、誰ひとりやってこなかったり、女性外人部隊を編成し私兵として取り巻きに仕立てたり、北朝鮮の王様以上に出鱈目で下らない感じのする人物像は、さすが狂犬の名を欲しいままにした彼ならではのドクトクな味わいです。

それはさておき、結局エジプトにしろリビアにしろ、欧米資本の急激な流入で、格差が生じ、同時に導入された必要な情報インフラにより問題意識が生じたわけで、政府がよかれと思った処置がすべて裏目にでているのです。

「ダーウィンの悪夢」で描かれた資本主義の残酷さのごとく、グローバリズムを携えた欧米さえこなければ、みなさん八っあん・熊さんのように、不満を愚痴りながらも、なんとかやってきたのです。

そして、日本もTPPという危うい制度で、売国奴達が混乱を招来しようとしていますから、決して他人事ではないことをそろそろ自覚して、今年のトレンドである「革命」に便乗していい頃かもしれませんね。

ニッポン責任時代

2011-02-26 | 政治
責任を全うする能力がないのに、責任感だけ強い人というのもいるものです。

それは、見通しのよい直線の道路を横切る横断歩道で、信号が「赤」だからといって、事故に逢う可能性がゼロにも関わらず、信号を守る人のごとくです。

そういう人に限って、信号無視してくる車に向かって、「私はルールを守っている」という信念だけで対応し、事故になって死んだとしても「私は間違っていない」と主張し続け、成仏できず地縛霊となって、関係のない通行人に恨みの粉をまき散らしたりします。全くもって迷惑な話です。

責任感の強い「よい人」であるにも関わらず、スキルが低く柔軟性に乏しい人達は、「責任感」が強い故に失敗を恐れ、自分を取り巻く状況が危うくなる前に、「責任」に関して他人の言質をとろうと走ります。仕事でいえば、作業全体のクオリティには目もくれず、自分の理解できる「責任範囲」を明確化することによって、自らの気分(責任感が強いという自覚)と立場だけを「保守」しようとするのです。

健康のためなら死んでもいい、といったタイプ、あるいは待ち合わせで約束した時間に相手がこないと5分と耐えられないタイプですね。

私の属する出版・印刷業界では、そういった「責任感」のある人々は、クライアント・デザイナー・編集者・オペレーター・印刷会社という順の、ヒエラルキーで職種を差別する傾向のある「よい人」だったりもします。結果的に、協力しながら「良い作品」が造られれば結構、という前提がなく、どんなに酷いものができようが、自分のパートさえ安全であれば負担を感じない、といった「よい人」達です。

限定された責任感は立場の所在の色分けを強く要求する性質のものですから、スキルのない「責任感」は、横断的発想を拒み、職業的差別を好むのです。

大袈裟に例えれば、小沢一郎が日本の「軍事」安全保障を優先するあまり、「文化」安全保障も「経済」安全保障も放棄してしまったようなものかもしれません。

ブックデザインの世界では、洗練された作品ほど、匿名性が高まるという傾向があり、よい装丁ほど制作過程で「どこかで見たことがある(デジャブ)」感があり、本屋に並んでも悪目立ちしません。デザインはアートではなく、クライアントの意図をくみとる編集作業の一部であるという自覚が必要となりますし、編集者はそのスキルの範囲内でしか発想しないオペレーターの外にいなければならないのです。

ただ、知識を伝えることはできても、「責任感の強い大人」に経験を知恵として授けることは不可能なので、結局は本人の性分や自覚の問題となり、連中にとって「責任感が弱く」「立場をわきまえない」柔軟な人達は、彼等彼女達との理不尽なやりとりの中で、無力感に襲われ大いに挫折を味わうことになるケースが多々あったりします。

裏付けのない正義や理想を、情熱をもって発信された鳩山前首相に、誰もが失笑混じりの反応しかしなくなり、多少強引でも正義と理想をベースに問題の解決に当たるという意志が政界から消えてしまったのを見ても分かるように、迂闊な責任感ほど無責任なものはないというわけです。

春来たりなば、冬遠からじ

2011-02-25 | アート
どうやら春がきたようで、外は暖かい風が吹きまくっています。景色はモヤがかかったようにぼんやりとし、昨日まで残っていた冬の乾き冷めた空気感はもう微塵もありません。今は先程作って食べた「とろろ蕎麦」のせいで暑く、窓を開け上着を脱いでも非常に不快。私は春が嫌いです。

幸いにも花粉症にはあずかっておらず、このような些細なことで文句をいうのは、彼等のことを思うと心苦しいのではありますが、とにかく昭和のふわっとした唱歌の録音を聞いているような、大しておいしくもない食べ物を食べ過ぎた時のような、緊張感のないこの風情に、イライラします。

現在制作進行中の雑誌の表紙の裏に、デザイナーの「表紙制作にあたってのひとこと」みたいなものを記さなければならないのですが、どうもうまい文章が思いつかない、というせいもありますし、長年やってきた月刊誌の請け負いのケイゾクが不透明になってきたというせいもあるのかもしれませんし、確定申告の期日が迫っているのに、まだ何も手をつけていないことの焦りから来るストレスのせいかもしれません。

あるいは、こういったことが原因だというより、むしろこの緩い春のせいで、何もやる気が起こらない、そしてそれが負のスパイラルをおこしていて、悪循環から逃れられなくなっているのかもしれません。すべては季節のせいだ。ということにしてとりあえず、ゆっくり昼寝でもしたいものです。

「いちご白書」をもう一度

2011-02-22 | 政治
「俺達は『あしたのジョー』である」と言い、北朝鮮に旅立った連中は、実写化された映画を見る機会はくるのでしょうか。当時の日本人とは骨格すらも変わってしまった今の若い俳優によって演じられるその映像に、どのような感慨を抱くのでしょう。

最近の革命は「チューリップ革命」やら「ジャスミン革命」、「オレンジ革命」やらと、やたらとキュートでいまいち気合の入らないネーミングばかりで、当時の、下らない感情に足を引っ張られた陰惨な革命ごっことは隔世の感があり、中東のそれは同じ革命「ごっこ」なのにどこか爽やかです。

2月初旬、あまりにあっさりと成就する中東の革命の流行を他所に、連合赤軍幹部だった永田洋子さんが亡くなりました。かつて国家に反逆した者が国家の面倒になっていたというその屈辱的状態のなかでの獄死です。

私は、永田はじめ、重信とか高野悦子とか、当時の縁起の悪いヒロインたちにずっと惹かれていましたので、永田の死のそのあまりにメディアの小さな扱いにまず違和感を覚える共に、「新党」という言葉が政治において蕩尽されたように、「革命」という言葉も彼らやオウムに消費されてしまい、『「いちご白書」をもう一度』のごとき、センチメンタルな挫折感と共にしかイメージできないことに、いまさらながら驚きます。

ある種の生い立ち、ある種の身体。環境によって人格や人生があらかじめ決定され、本人にその選択肢がないとすれば、永田や麻原の「セコイ」と思われる人生もしっかり吸収していかなければいけないのかもしれません。

「告白」 誰かの願いが叶うころ

2011-02-13 | アート
「下妻物語」は好きだったのですが、監督の中島さんのCM的映像テクノロジーをふんだんに駆使する手法は、自称玄人筋が好む、映像のトーンとカット割、カメラアングルで魅せるいわゆる「名作映画」は作れない、と思っていました。案の定「嫌われ松子の生涯」ではこれは映画ではないと論争がおき、ブルースばかり聞いてた人がクラフトワークやYMOを初めて聞いた時に感じるコミカルな印象と同じで、そのスタイルがゆえに観客を選別してきたように思います。

ですから、中島監督が「生涯の一本」「代表作」を作ってやるぞ、と意気込んだ時は、絶対オーソドックスなスタイルを選択すると思っていたのですが、あにはからんや、まったくその手法を変えないどころか、さらに進化させた上で、大変な作品を作りあげていました。

最初、主人公のひとりがいきなり「告白」を始めるので、これは過去に遡る映画なのか、とか、いろいろと推測しながら、その聞き取りにくい、この作品のタイトルでもある大事な「告白」を観客である「私」は聞いていたのですが、映画内の舞台である(擦りガラスで外から見えない)教室は「崩壊」しており、生徒は好き放題やりながら、聞いてるのか聞いてないのか解からない状態で混沌として「告白」をまともにとりあっていません。事件の被害者と、当事者には決してなれない世間の喧騒を見てるようで、こりゃ面白いわと思いながら没入していけるなと思って観ていました。

しかし、この作品は私の没入や一定の登場人物に対する感情移入を拒むのです。次々にシークエンスが変わり、エピソードが増える度に、私の想定していた作品のメッセージ(命)が、消えはしないのですが、どんどん不安定になっていくのです。

主人公達が繰り返す「なぁんてね」という言葉は、本来、照れ隠し、あるいは行き過ぎた真剣さにバランスを取るためにつかわれ、本音を云った後に実は半分くらいは本音かなというエクスキューズをつけ、自分はしっかりコントロールされているよ、と自分と相手を安心させるために用います。

それには「なんだよそれ、ふざけるのもいい加減にしろ、真面目に聞いて損した」と応え、しっかり受け止めながらも笑ってお茶を濁すのが正しい態度でなんですが、この映画ではあくまで独白として自らへの「言い訳」ではなく「言い聞かせ」として発せられているため、それはイコール嘘の可能性を示唆し、物語の前提を蝕み、映画全体の構図を疑い、考えさせられることとなるのです。

また、その人間にとってベストであると思った行動の選択が、他人にとって予想外の結果を生むという、宇多田ヒカルの「誰かの願いが叶う頃」の詩のような、「嫌われ松子」ではひとりで演じられていたそのテーマは多層化され、複雑に入り乱れ、本気も本音も、本人すら判らないままに物語は進み、さらにカリカチュアが徹底されます。

北野タケシ監督は「アウトレイジ」でこれと似たテーマを扱い、観客を突き放しましたが、あくまで完成度の高い映像美で、メッセージとは別に映画的「完璧」をめざしていました。

それはそれで凄い作品ではあったのですが、その手法においてもメッセージが刷り込まれて、携帯小説とかツイッターのような短いものにしか耐えられない客の獲得にすら成功しているこの作品の現代性に、私は非常に感心しました。

なぁんてね・・・

知らぬが理事長

2011-02-09 | メディア
大相撲の八百長が大昔からあるというのは、「ヤバい経済学」なんぞでわざわざ証明してもらわなくても、取組みや星取表を見れば、私のような末端のファンでも分かるくらいですから、協会の人間や相撲記者の連中が知らないわけはありません。本当に知らなかったとしたら、そっちの方が問題でしょう。

相撲協会の会見は記者クラブ制になっており、迂闊なことを聞くと締め出されます。よって掴んでいる危うい情報は記者クラブ内で「調整」され、箝口令が出れば外にはまず漏れないそうです。政治報道の記者クラブと違い、あのような保守しなければならない団体に対する報道姿勢としてはそれほど間違ったことではないと思います。星勘定も談合、取材や公表も談合。まあ神事や芸能にそういう世界が一部あっても構いません。「黒い八百長」ではなく「白い八百長」があるということです。

今回は、部数の低迷に悩む毎日新聞のスクープということですが、当然そんなことができるはずはなく、賭博問題で捜査している警視庁から、相撲担当を通さないリークだったのか、その後、警視庁は情報を所轄の文部科学省に渡し、そこから公表、大手メディアがそれを期にバンドワゴンよろしく一斉に報道を始めた、というのがおそらく本当の流れでししょう。

つまり、あの愚かな立花隆が仕事をしたと世間では言われる「田中角榮」バッシングの件と、検察メディアが結託して仕掛けたという意味でも同じ構図なのです。

偉そうにご高説を垂れ、正義面して批判を繰り返している大手系列マスコミの、どの情報をどういうタイミングでどういう大きさで世に送り出すかという裁量はとても大きなもの、ということです。

陸山会事件の公判に、1年前に上杉隆氏が書いた、検察の犯罪的な取り調べによる調書の取り方を暴いた週間朝日の記事「子供を人質に 女性秘書恫喝10時間」の主人公であるその女性秘書が、弁護側の証人として法廷に立ちました。(この件は「小島慶子のキラキラ」の上杉隆氏のコーナーに詳しい)

逮捕された検察の前田検事も深く関わったこの事件の「自白」の怪しさを証明しようと勇気をもって登壇した彼女でしたが、新聞・テレビマスコミは一切取り上げず、自らの能力の無さと一度「小沢悪人説」ラインを決めたら譲らないという反省なき頑迷さで、検察とともにこの事実を潰そうとしています。

犯罪ではないが倫理には欠けるといった大衆芸能である相撲の星の遣り取りについては喚きちらし、楽しみにしていた春場所を中止に追い込み、事実をもって争う裁判においてはその大切なポイントを外してこっそりと伝え、この裁判の正当性を定着させる。

いずれ無くなるメディアとはいえ、一部の新聞やテレビマスコミにはもうコリゴリです。仕事で使うので新聞を取り始めましたが、もう止めようかな。

大相撲 誰が礼儀を殺すのか

2011-02-07 | メディア
知り合いの子供から今般の大相撲八百長事件に絡み、「お相撲さんはまた逮捕されるの?」と聞かれました。

「かつて「世良正則とツイスト」というバンドがあって、そいつらはライブでは本人達が演奏するけど、レコード(スタジオ録音)では「プロ」のスタジオミュージシャンが演奏し、しっかりクレジットもされてた。名義はバンド名だけど、ボーカル以外は違う人達が記録(レコード)した作品が出回っていた。でも彼等は逮捕されない。裁くのは何の権利もないファンであり、賭博は犯罪だが、刑法に八百長を裁く法律はない。つまりそういうことだ」

てな説明をしたのですが、子供は怪訝そうな顔をし、同席し聞いていた大人たちには「その例えは解からない」、と非難され、私は既に失っている親戚の信用をさらに落とすハメになりました。

ま、それはさておき。

なるほど、逮捕=悪い事という図式からいうと、今回の八百長メール騒動は「犯罪」問題ではなく「信用」問題ということなのでしょう。

他人に物事を依頼する時は、風呂敷に包んだ菓子折りでも持って、あらたまってお伺いを立てるのが礼儀。今般の八百長問題は、メールなんぞという、遅刻の言い訳を気楽に報告できる「事後承諾」を蔓延させる、誠意の量を推し量れないメディアを使っての行為だというところがポイントなのです。

私のクライアントにも休み前に仕事を大量に押し付け、「それでは私は休暇に」という連中がいまして、メールやファックスに疑問点があっても、本人不在というケースもあり、通信手段の多様化のおかげで、礼儀を失ってしまっています(もちろんそんなお客さんばかりではありません)。

ファックスを送ったら必ず電話すること、重要なメールは確認の電話を欠かさない事。編集者ならクライアントのメールを咀嚼せずに転送しない事。しかし、最低限のマナーを期待しても、年令に関わらず当然のように礼儀を怠る方が多くなっており、私のテンションを狂わせ、仕事のクオリティが連動して下がるという現象がちょくちょく、しばしば、頻繁に起こります(もちろんそんなお客さんばかりではありません)。

八百長というと聞こえが悪いのですが、「人情相撲」という言葉があるように、相撲協会は600人程度の極めてフリーク(異形)の集まった家族なのですから、星の貸し借りなどを私は問いません。問題は「親しき仲にも礼儀あり」という気持ちを忘れた連中のその他の業界にも蔓延する「軽く失礼な態度」とそれによって引き起こされる自覚と誠意の伝達の手段の退廃が問題なのです。

「どうしても、こうしてもらいたい」という願いや望みが「あっさり」叶ってしまい、誰もが苦労せずに「金の斧」がもらえたりするのは、神事を司り、礼儀を重んじる社会の鑑としてあるべきお相撲さんにふさわしい環境ではありません。

繰り返しますが、何が許せないといえば、それは大事なことをメールなんかで伝えること。相撲の神様が指摘するのはそれだけで、決して人情に基づいた八百長を非難するものではないと思います。

「誰もやさしくなんかない。だからせめて汚いマネはやめようじゃないか」

「やさしさ」(非八百長)を期待せず、メール(手段)を否定する、目的のためには手段の選ぼうじゃないか、という清志郎の提言に激しく同意します。

現代用語のムイミダス

2011-02-06 | アート
「サラリーマンNEO」のファンならば、MXテレビの「現代用語のムイミダス」を見るとよいのではないでしょうか。出演者もかぶるし、NHKとは比べモノにならないくらいお金をかけていないので、カメラは固定だし、セットも貧弱なので、土曜の夕方にテレビを見る情けない立場に実にフィットします。

MXテレビは「パフィーのサクサク」はじめ(これはTVKだったあ)、脱力系の走りとして名を馳せ、今や町山さんの映画紹介ものもありますし、「5時に夢中」は私のルーチンになるほどの優秀なコンテンツですし、この「現代用語のムイミダス」に至っては、毎週録画が欠かせないと思う程の濃い番組という、NHKに次ぐ、試聴機会の多い放送局です。

視聴者が少ない故にいい加減であること、スポンサーが地元企業であるが故に寛容であること、これが私の思うMXテレビの原点です。

UHFの番組はゴールデンに移動するとトタンに自由度とテンションの下がる大手放送局の深夜枠の、移動する前の姿を局全体に常に備えているわけです。

あと、スポンサーのいないNHKの「どれみふぁワンダーランド」の企画の奔放さも相当なもので、かつての「シャボン玉ホリデー」やタモリの番組「今夜は最高」の、音楽に特化したロングバージョンのような趣も大好きです。

政治も経済も、倫理も哲学も退廃してしまい、報道番組に意味がなくなったとしても、このようなエンターテイメントな官能さえあればよいというスーダラな放送局と番組があれば、それでよいのかもしれません。

イノセントな罪と罰

2011-02-03 | メディア
予定通りの小沢一郎氏の強制起訴ですが、同じ政治家であるイタリアの首相ベルルスコーニは100回以上の訴追歴を誇りながら、いまも性力的に仕事に励んでおります。

日本では、起訴は検察のみに許された特権で、起訴後の有罪率99.8%という異常な数字を見ても分かるように、検察が犯罪をまず腑分けし、公判維持できるもののみを起訴、裁判所はそれを追認するという構図で、起訴=有罪が常識であり、いわゆる「推定無罪」という概念はありません。

公務員は起訴の段階で懲戒・休職となりますし、自他ともに無罪を信じる前に社会的制裁が降されるわけで、アホの評判で定着した元法務大臣柳田と自民の石破氏との「起訴便宜主義」を巡る質疑よろしく、検察の絶大な裁量権は恐るべきものです。

こういった権力が司法の側ではなく、行政組織として存在するのも(つまり行政府の長である菅首相が小沢氏を訴えようとしていた)、そもそもお笑いなのですが、おかしいとはいえ、法に忠実であるべきという意味でいえば、検察にしかできないはずの起訴を民間の弁護士が代行するという「強制起訴」のシステムも本当は指摘されてもしかるべきなのかもしれません。

検察が起訴に表面的には関わっていないという意味でいえば、日本初の「推定無罪」のケースであり、そういった報道がなされるべきでありながら、大手マスコミの執着による扇動と、おかしな制度、与党内での権力闘争と、二重にも三重にもとり囲む「嘘と異常事態」が引き起こされており、小沢氏にとってはまったく悲劇的な今回の状況ではあります。

しかし、小沢氏の本当の罪は誰でもやっている単純なミス「記ズレ」なんかで裁かれるレベルのものではありません。

「アメリカは日本がなくては生きていけないが、日本はアメリカがないと生きていけない」という発想の元、日米構造協議によるあまたの(致命的な)妥協、大店法で地元商店街の衰退による共同体の破壊、おもいやり予算の導入とその拡大の常態化など、小沢氏の日本に与えた悪影響は数知れず、小泉政治の代名詞になっている「構造改革」「規制緩和」の負の側面の多くは小沢氏の自民党時代にレールが敷かれたものです。

既に大きく社会的制裁を受けているとはいえ、小沢氏は(法には触れませんが)売国奴として万死に値するほど日本に対して罪を犯しており、彼は形式犯で裁かれるような小さくイノセントな政治家ではありません。

チュニジアの夜 ムバラク・オバマの夢

2011-02-02 | 政治
北アフリカから中東への革命の連鎖が止まりません。エジプトという地域大国の長期政権が倒れるとは、一月前でも全く想像の外でした。チュニジアから始まり、ざわつきはじめているヨルダンやイエメン、アルジェリアなども危ういものですし、このまま東征し、サウジアラビアまで至れば本物、中国もうっすらと見えてきます。

今回の革命の流行は国民の為に整備したインフラが原因であること、親米政府がやられているということ、が特徴です。ソーシャルネットワークはアメリカの産物であるし、メッセージではなく、環境を整えることによって、理想を実現するという、中国が恐れる「平和攻勢」のようなもので、インターネットは軍部が開発したものですが、ツイッターやフェイスブックは一般の市民が編み出したもので、そのスタイルは政府に頼らず自助努力を標榜するアメリカ共和党の理念そのものです。

政府レベルで協調し、実利を追求しながら、その政治体制には目をつぶってきたアメリカは、これまた独裁国家に援助を惜しまない中国と同じような国だということが今回の革命の連鎖で露わになりましたが、これはしかし国際政治の中では当然のことであり、特に様々な思惑が交錯する中東では、一本調子の正義感など混乱を招くだけです。そこを非難するのは、人それぞれですしょうが、そんな姿勢が解決や平和を招来するとも思えません。

エジプトはサウジとともに、政府レベルではイスラエルへの中東の壁ならぬ楯(緩衝地帯)になってきただけに、ベルリンの壁を壊し、冷戦を終わらせたのとは逆に、中東の楯を壊すことによってイスラムの反イスラエル感情が剥き出しになり、民主的なプロセスで反米・反イスラエル的な好戦国ができる可能性もあります。

かつてのアルジェリアのように、民主化するということは、合法的なイスラム政権ができることとイコールになってしまう恐れもあり、微妙に修正するクリントン米国務長官の発言は、事態の推移のスピードとすぐに議会が機能するとは思えない独裁国家ならではの野党の脆弱さへの戸惑いがみてとれます。

エジプトに関してはエルバラダイのようなよって立つところの人物もいますし、国民に銃を向けたことのない穏健な軍もありますので、それほど心配はしていないのですが、カンボジアや中国のように、有能な知識人を潰し、人材の枯渇するその他の国の動向には目が離せません。

ポピュリズムで政治をやるとどうなるか、自民党政権の末期から民主党政権の現在に至るまで、経済とともに劣化し続ける日本を見ていれば、痛いほどよくわかります。