スターウォーズがNHKでストーリーを追った順番で放送され、映像テクノロジーの進化の歴史を実感させられるその並びを堪能しました。
創造力に技術が伴わなかったともいえなくもない初期の作品から、CGで時間さえかければどんな映像も違和感なく実現できるようになったエピソード3までのグラデーションは撮影処理技術の進歩による役者の表現方法の変化も含め、映像のクロニクル(年代記)といえます。
ただ、アーサー王になぞらえた「物語」としては、基本的にご都合主義の「活劇」映画、その安易な展開にケチをつけてもしょうがないのでいちいちつっこみませんが、シスを演じる役者にカリスマがないことと彼の最期にあまり工夫と時間を割かないことによって「代々語り継がれる作品」としては少々不満が残るところとなってしまっています。(もしかしてシスはまた復活するのかも)
第一作がヒットし、シリーズ化が決定した時点で、寅さん状態となり、普遍性に縛られる十字架を背負うことになったことにより同じ微妙な善悪を扱う「ツインピークス」のような自由度は狭まってしまった、ということでしょうか。サド侯爵の小説「悪徳の栄え」のジュスティーヌのごとく善が雷(シスの手から出る光線)に打たれて死んでしまうような展開はそもそも不可能な話でしょうが、ジェダイの倫理を自由の抑圧と捉えるシスの発想は間違っているともいいきれません。
ちょいワル親父のハンソロが反乱軍の将軍となり一匹狼の魅力を捨て、「過剰」であることをやめてしまい反乱軍に協調し溶け込んでいく様もまた、無頼であることを青春の一時期の過渡的態度と決め付けてしまっているようで、それも残念な扱いでありました。力による悪のはびこる時代の方が有機的ではないじゃろか、とも思えるからです。
それから全作品を通してですが殺陣シーン、特にエピソード4~6があまりにゆるくちゃんばらごっこに見えて酷すぎるのも笑えました。このあたりは日本映画に一日も二日も長がありますかね。
ジェダイとは「時代劇」のジダイから採ったものだそうなので(オビワンは三船敏郎が脚本の前提だったそうな)、あるいは退廃的な小説など読まずに、新渡戸稲造の「武士道」などをよく読みこむことによってはじめて、この作品をより深く理解できるかもしれません。
創造力に技術が伴わなかったともいえなくもない初期の作品から、CGで時間さえかければどんな映像も違和感なく実現できるようになったエピソード3までのグラデーションは撮影処理技術の進歩による役者の表現方法の変化も含め、映像のクロニクル(年代記)といえます。
ただ、アーサー王になぞらえた「物語」としては、基本的にご都合主義の「活劇」映画、その安易な展開にケチをつけてもしょうがないのでいちいちつっこみませんが、シスを演じる役者にカリスマがないことと彼の最期にあまり工夫と時間を割かないことによって「代々語り継がれる作品」としては少々不満が残るところとなってしまっています。(もしかしてシスはまた復活するのかも)
第一作がヒットし、シリーズ化が決定した時点で、寅さん状態となり、普遍性に縛られる十字架を背負うことになったことにより同じ微妙な善悪を扱う「ツインピークス」のような自由度は狭まってしまった、ということでしょうか。サド侯爵の小説「悪徳の栄え」のジュスティーヌのごとく善が雷(シスの手から出る光線)に打たれて死んでしまうような展開はそもそも不可能な話でしょうが、ジェダイの倫理を自由の抑圧と捉えるシスの発想は間違っているともいいきれません。
ちょいワル親父のハンソロが反乱軍の将軍となり一匹狼の魅力を捨て、「過剰」であることをやめてしまい反乱軍に協調し溶け込んでいく様もまた、無頼であることを青春の一時期の過渡的態度と決め付けてしまっているようで、それも残念な扱いでありました。力による悪のはびこる時代の方が有機的ではないじゃろか、とも思えるからです。
それから全作品を通してですが殺陣シーン、特にエピソード4~6があまりにゆるくちゃんばらごっこに見えて酷すぎるのも笑えました。このあたりは日本映画に一日も二日も長がありますかね。
ジェダイとは「時代劇」のジダイから採ったものだそうなので(オビワンは三船敏郎が脚本の前提だったそうな)、あるいは退廃的な小説など読まずに、新渡戸稲造の「武士道」などをよく読みこむことによってはじめて、この作品をより深く理解できるかもしれません。