長電話

~自費出版のススメ~

国民皆保険黎明期のアメリカの「制度」

2010-03-27 | 政治
官邸会見のフリーへの開放、米皆保険制度の成立、プロ野球開幕とうれしいことばかりが続いておる春です。

皆保険制度は100年に亘ってアメリカの人達が拒み続けてきた制度で、そういった態度は皆保険に慣れ親しんでいる「お上」意識の強い日本人には分からないセンスでしょう。

米共和党が保守でありながら自由経済を標榜し、同じ自由を意味する「リベラル」を掲げる民主党が「大きな政府」である程度の管理社会を目指すという図式は、いったいどういういきさつで成立し、また定着したのでしょう。

これまた同じ自由を意味する「リバタリアン」という無政府主義者のような立場の人達は、共和党に近く、みなさん日本語にすれば「自由」。

そして自由を標榜しながら共和党の支持基盤は、「(日本人に馴染みのある)自由」を目指した「キャプテンアメリカ」(イージーライダー)を惨殺したような宗教保守の連中です。宗教という規制にとらわれながら、自由を名乗り、自由を封じるのです。

また、クリントイーストウッドの「許されざる者」を見ても、なぜ主人公が「許されざる」者なのか、私には分かりませんでした。

「神の見えざる手」という経済用語があります。字義通り捉えると、「神」の領域、つまりジャッジするということ、市場に介入するということ、人間の判断で物事を裁くことは、罪だという捉え方があるそうで、それを考え合わせると「許されざる者」も「自由経済」も腑に落ち、保守=自由主義という構造もなんとなく分かるのですが、そんな理解でいいんでしょうかねえ。

欧米では公が強くなりすぎると、日本のように相互扶助が廃るので、共同体維持のためにもよくない、という発想があるそうです。

住所を書く時、日本は大きな括り(神奈川県とか)から始まりますが、欧米では番地など小さな単位からはじめます。その辺りの意識の違いの表れ方もまた面白いものです。

朝青龍の引退と隠岐の海の登場

2010-03-20 | スポーツ
朝青龍のいない土俵は寂しいか? 私にとっては「No」です。当然ですが、彼は長島や王ではないのです。相撲人気のさらなる凋落を「朝青龍の引退」に求める向きも多いようですが、彼がいたときだって、国技館がガラガラだったこともあったし、ちょんまげをつけたマワシ姿の腰の高い白人同士の違和感ありありの、それも上位の取り組みに眉をしかめる日本人はいくらでもいたのです。

亀田兄弟同様、横綱の素行の悪さを指摘し困ったもんだと悦にいるという、いわゆる「品格遊び」は、既に消費しつくされており、そろそろ相撲自体に彼も集中できないものか、と思っていたところに降ってわいたような「引退」。千代の富士以来のアスリート系力士の不在は残念ですが、長い間の朝青叩きにすっかり慣れてしまった相撲ファンにとっては、いつか来るだろう状況に心の準備はできており、折込済みだったような気もします。

東京新聞は、朝青龍のモンゴルでの(問題)会見によって生じた双方(朝青龍と協会、或いはモンゴルと日本)の対立は「誤訳」に基づく不毛なものだと指摘しています。いずれにしろ彼のことは引退相撲も含め、今後は相撲ではなく芸能・格闘技・政治マターにシフトしますので、どーでもよいっちゃー、そーなんですが、間抜けな国際問題もあったもんです。

とはいえ、各力士はいつもより1敗少なく星取りを計算できるのですから、むしろそれぞれ各々の目標に対してモチベーションがあがるはずです。日馬富士や白鵬は「責任」を背負い、しっかりスイッチが入っていますし、把瑠都も大関挑戦場所でありながら、突きという新しいスタイルを取り入れて大関の地位に安住するつもりがないことを表していますし、隠岐の島という大型美形日本人力士の登場もあり、大阪は淡々と盛り上がっています。

ところで我等が安美錦ですが(彼は関脇という日本の相撲界ベスト8という地位にいます)初日にあっさり白鵬に敗れた後、琴欧洲に勝ち、話題の把瑠都に善戦するという離れ業をやってのけております。

みなさん、安美錦は応援しなくていいのですが、注目はしてください。そのうちスルメのように味がわいてきますよ。

TBSラジオ「アクセス」の終了

2010-03-15 | アート
宮崎哲哉氏があっさり辞めてしまった後、水曜日のパーソナリティを固定させず、試行錯誤が続くのかと思っていましたら、番組自体が終わってしまうTBSラジオ「アクセス」。

愛して止まない小島慶子と麻木久仁子という特異なキャラクターを擁して始まり、今や民主党の華・蓮訪(パーソナリティとしてもキャラクターとしても嫌いでした)や、お騒がせタレントの山本モナ(実は恐ろしく有能な女性、そしてラジオ向き)などに引き継がれ、最後は渡辺真理(凡庸ゆえに広範な人気)をアンカーに起用し、NHKラジオすら聴取率において抜き去った名番組。なのに、終わってしまいます。

TBSラジオは、毎日新聞系列と思われがちですが、資本関係はなく関係は決して濃くはありません、だから平気で一般のメディアではとりあげない、「記者クラブ」や「クロスオーナーシップ」など、放送業界のタブーにも切り込んできた唯一の放送局で、アクセスはその先端にいる番組でした。

すっかり親米右翼清和会路線を突っ走る産経新聞、戦前、反戦を主導していたのに、部数減故に戦争賛美に走らざるをえなかった朝日新聞(戦後真逆にぶれる)などが典型で、視聴率の悪いテレビや、人気のない新聞など、メディアは売れなくなると啓蒙を止め、ポピュリズムに走り、その主張は平易になり、乗せられやすいアホな情報弱者に届き、さらにアホで偏狭な人間を量産します。いわゆる「貧すれば鈍す」「小人閑居して不善を為す」という因果にはまるのです。

「アクセス」は誰も取り上げない複雑なネタを取り上げることが多く、時に厳しく、時にゆるく世界を捉え、また、もう古くなったスタイルなのかもしれませんが、素人が電話で参加することによって目線が専門的になりすぎず、私にはなじみやすいものでした。

ギャラの問題で終わってしまった同じくTBSの「ストリーム」に続き、硬派な番組がなくなってしまうのはとても残念で、また聴取率さえよければ番組が続くものではないのだと、放送業界の苦境に驚かされました。後番組も報道系だとのこと、しっかり「ストリーム」や「アクセス」の精神を引き継いで欲しいものです。

20代の小島慶子の「アクセス」を録音したものをいくつか持っていますが、いまや私の宝物となっております。


箱の宇宙 山崎巌展 ウィリアムモリスにて

2010-03-04 | アート
美術的な音楽というものとは例えばどういうものでしょう。絵画のアブストラクトや書道と、音楽のインプロビゼーションは対応しているといえるでしょうか。あるいはビートルズの「レボリューション9」のようなサウンドコラージュが美術的でしょうか。

カンディンスキーやミロのように「リズム」を感じさせる絵は音楽的だといわれますが、そこにあるべき形や色を自然から感応し、スキルを駆使してキャンパスに再生するという作業が絵描きの仕事ならば、スタイルはどうあれ、意味より、詩や音の美をあるべき位置に配置することを優先させるミュージシャンによる音楽もまた絵画的であるといえます。

井上陽水は、ポップミュージシャンとして認識されていますが、彼の音楽もまた、意味は少なく気分だけがメロディーやリズムに反映されてます。

一昔前の音楽が古く懐かしく思えるのは、聞いていた当時の時代背景が想起され、それをセットにして曲を捉えてしまうからでしょう。井上陽水の唄が今もってどの曲も新鮮に聞こえるのは、性格としてメッセージをもたず、詩も含め美術的アプローチによって作られた作品だからなのかもしれません。

6月に私も参加させていただいた「本と箱」展で水際立った作品を出品された山崎巌氏の個展「箱の宇宙」が、渋谷の「ウィリアムモリス」にて開催されています。渋谷、青山にお立ち寄りの際は、是非、彼の表現から聞える「音」を見に来てください。

ちなみに山崎氏の奥様は、井上陽水の奥様「石川セリ」がお好きだそうです。