長電話

~自費出版のススメ~

キャッチャー・イン・ザ・LIE

2010-01-27 | 政治
小沢民主党幹事長の話題が賑々しく喧伝され、悪人顔のリスクを一人で背負っている感もある彼に同情すらもよおす、このみっともない日本の政治状況ですが、小沢氏へのよく分からない検察のひたすらな情熱を見ていると、かつてまたよく分からない理由で逮捕、頭の悪い立花隆氏はじめマスコミの大量報道によって葬られた人物、田中角栄を思い出します。

思い出す、というのは田中派の流れとか、金脈や政治手法ではありません。検察(官僚)やメディアの後ろにアメリカが動いているのではないかという陰謀論です。田中派→竹下派は一時期大変な権勢をふるいましたが、アメリカのエージェントであった岸信介(アメリカで公開された公文書で証明されている事実)の流れを汲み、官僚依存の強い清和会(小泉や安部、福田など)と敵対することが多く、官僚を道具とみなす傾向や、アジア重視の政策をもつ大きな政府指向の派閥でした。

田中角栄は、資源の乏しい日本の危うい資源安全保障のため、石油の東南アジアルートを開発しようとしたり、中国との国交をアメリカによく相談せずに再開しようとしたり、と、アメリカに依存しない政策を採ろうとしていたところ、アメリカの逆鱗に触れ、ロッキード事件を演出され、失脚に追い込まれたとも言われています。同じように小沢氏も日本アメリカ中国の正三角形論をぶったり、大量の仲間を連れ中国に乗り込んだりし、鳩山総理もまたアジア重視を打ち出し、アメリカの機嫌を損ねることの多い今日この頃ですので、この検察の無理筋の捜査やマスコミのバカ騒ぎに、これはひょっとして・・・と、思っているのは私だけではないでしょう。

と、ここまで書いたところで、アメリカ人・サリンジャーの訃報。昨日村上氏訳の本を買ったばかりなので、しっかり読んで追悼したいと思います。

萌えよ、ドラゴン

2010-01-21 | アート
リタ・ヘイワーズとオーソン・ウェルズの名作「上海から来た女」の鏡のシーンは、ブルース・リーの「燃えよドラゴン」の最後の戦闘シーンに引き継がれ、そして上海から始まったそのループは香港を経由して今、タイに訪れ、新たな傑作を生み出しました。

今や、猿でも多用する不自然極まりない「ワイヤーアクション」やCGを一切使わず、傷だらけになりながら作り上げられたこの本作は、全体にブルース・リーへのオマージュとして構成されているアクション映画ではあるのですが、主人公の少女の萌え要素の強いキャラ設定や、敵役のバリエーションの豊富さにより、その(アクション映画という)枠を超えた歴史に残るに足る作品となっております。

なかでも、その過剰さによって社会に適応できない、ある種の障害者である主人公と同じ、複雑な過去をイメージさせる敵役が登場するシーンがあり、少女はその妙な敵に順応・感応することによってコミュニケーションをはかりながら戦うフリークなシーンは、特に印象に残りました。

キネ旬のベスト10には入りませんでしたが、2次元大好きな日本の男子の食いつきそうなおいしいキャラだらけなのに、あまり評判にならなかったのは、宣伝が下手だったからでしょうか。ルーキーズなど、くだらない映画の広告費の膨大なお金の一部でもこちらにまわしてもらって、こういったよい映画を周知させてほしいものです。

印象的な日の訃報

2010-01-12 | アート
どうやらヨーロッパだけでなく、世界中が寒波に襲われているようで、降らない土地であるはずのポルトガルで雪が観測されたり、また中国の紫禁城でも半世紀振りに積雪があったりと、北半球全体が冷凍庫に入っているような状態だそうです。温暖化なぞやはり嘘やんけ、と指摘する向きもあるようですが、気象と気候は違うもの。ただ、冬らしい冬を久し振りに味わえると、暖房設備の貧弱な新事務所で震えながら喜んでおります。

毎年成人の日あたりはよく雪が降っていたような記憶があります。(固定であった)かつての成人の日の15日は「松の内」が終わり、元日の大正月に対して小正月という位置付けで、生活が一段落するせいなのか、関連はよく分かりませんが、元服の儀を行っていたことから「成人の日」となったそうです。しかし、あのおぞましいハッピィマンディという最悪のネーミングの最悪の動機による最悪の制度によって2000年から1月第2月曜となってしまいました。もう10年以上たつんですが、まだ慣れません。慣れる前に敬老の日、海の日などと共に元に戻してくれませんかね。

エリック・ロメールの死を悼むように東京でも雪が降り始めました。雪や雨は音を吸収するのでとても静かです。

最後の政治家

2010-01-07 | 政治
マスコミの大好きな小沢一郎氏が目立つ民主党政権、旧来通りの対応しかしない濁った目をした大新聞との確執もあり、支持率は、八方美人の優柔不断というイメージが定着しつつある総理の問題もあり下落傾向です。

この20年程、政界は小沢氏を巡って展開してきており、実力ナンバーワンであることは誰しも認めるところ。その彼が中枢にいるのですから、政権は安定するはずです。昨日の財務相交代劇もつつがなきもので、落とし所としてはあまりに凡庸と揶揄する向きもありますが、当たり前のことを当たり前に実行しただけのこと。財務省だけを味方につけ、省庁を分断統治するという民主党の戦略は管さんも十分理解していることでしょうから、藤井氏との手法の違いはあれその方針は変わらないと思います。

小沢氏の「独裁者」イメージを国民に植えつけるのに必死な某産○という間抜けな新聞のキャンペーンはみっともないものですが、私は腐った官僚や政治家、マスコミの意識を変える荒療治をするには、私はむしろもっと権力を利用し、徹底的に「独裁」をしいてほしいと思っているくらいです。2・26の時代と違い、軍という暴力装置を背景としない政治家の台頭なら結構なことじゃないですか。

守秘義務がありながら、都合のいい情報ばかりをリークする官僚や、それを情報利権として垂れ流すマスコミ。特捜部の無意味な正義を気取った張り切り方も、支持率と議席の数という背景があってこそ駆逐できる対象です。まだ新鮮さのあり、あるいは小沢氏自身が元気なうちにいろいろ手を打って、無能なものでもシステムにさえ乗れば自動的に機能するような体制をしいておいてほしいものです。

言い募るようなイデオロギーも宗教も、一貫した支持政党もない私のようなタイプにとってはいまだ新鮮なキャラであり続ける小沢氏という政治家は、フェリーニや溝口が一代限りの怪物であるように、きっと引き継ぐことのできない現象なのでしょう。

気ままにいい夜

2010-01-06 | アート
かつて年末年始のテレビといえば「大脱走」。いまやほとんど見るべきもののないテレビ番組メニューですから、せめていい映画をピックアップしてほしいものだと思っていたのですが、やはり不作、いや凶作ともいうべきで、うっかり見てしまった「僕の彼女はサイボーグ」などまったく日本の正月に不似合いな権威的な映像で、ちょっとした発想と俳優とスタッフを揃えればもう映画企画は成功したような気分になってしまう業界の気質がもろに表われた実に下らない映画でした。

そんななか、唯一面白く見ることができたのが、テレ東の「カンブリア宮殿」の村上龍と小沢一郎の対談。記者クラブの安易でお定まりな質議のやりとりと違い、村上氏は専門性を避けながらも相当にこなれた高度な問いかけをし、さらに小沢氏の背景も丁寧に説明、時間を割くという視聴者を選別しないスタッフの姿勢によって、とても好感がもてる番組に仕上がっていました。

村上龍といえば小説以外では、日曜日の夜のゆるい時間帯に放送されていた「気ままにいい夜~Ryu’s Bar」が印象に残っています。「カンブリア宮殿」のようにしっかり編集されたものではなく、私の日常と同じく会話が突然途切れて間の悪い沈黙があっても、そのまま流すという生放送のようなトーク番組で、映像の意味を意識せず、とにかくラジオのように間を埋め尽くそうとする昨今のバラエティとは対極にある珍しいものでした。

メッセージを伝える必要も、需要もなかった「Ryu’s Bar」が放送されていた80年代と違い、村上氏はエピキュリアン(快楽主義者)であることをある程度封じ、公的な立場を意識しながら活動するようになりました。「ちょい悪おやじ」だの「よごれダンディ」だの「少年の心を失わない大人」を売りにする巷の親父ども(それこそずるい大人そのもの)とは随分違う地平にいる方のようです。