発見記録

フランスの歴史と文学

パンの身(mie de pain)人形

2005-12-18 20:24:16 | インポート
cochons012
アルフォンス・アレの多くの短篇でも屈指の作品Les petits cochons は「豚執症」として写原さんが訳されている。
(以下ネタバレになります)

夕飯の後コーヒーを飲みながらmie de pain(パンの柔らかいところ、「身」)を丸め小さな豚を作るのがついやめられなくなる。
これが「豚執症」の始まりだが、ボワロー&ナルスジャック最初の共作(ただしAlain Boucarrèje名義)?L’Ombre et la proie?(1951) に、こんな一節がある。

陶器工場経営者Robert Denisotは謎の死を遂げ、夫人と再婚したFombieuxが工場を継いでいる。
女中MargueriteはDenisotとFombieuxを比べて言う、Fombieuxには陶器のことなどわからない、旦那様は「芸術家」artisteだった。
?...Quelquefois, tout en causant avec nous, il arrachait un morceau de mie de pain, et s’amusait
à le pétrir. Il avait des doigts... Il faisait tout ce qu’il voulait, par le fait. Des petits bonshommes qui marchaient, qui dansaient, qui jouaient du biniou...?
(時々私たちとお話になりながらパンの身をひとちぎり、さも面白そうにそれをお捏ねになるのです。まあその指先のご器用なこと。もう自由自在に、何でも作っておしまいになりました。小さな人形、歩くの、踊るの、バグパイプを吹くの・・・)
パンの身と人形。匂うものがある。

Avignonに近い村Fontaine de VaucluseのMusée du Santonのサイト 人形の由来を解説したページOrigine des santons

プロヴァンスといえばおなじみのサントン人形の歴史は、フランス革命期に遡る。教会が閉鎖され、人々はクリスマスにクレーシュcrèche(キリストの生誕を模型にしたもの)を見に行く愉しみを奪われた。そこでクレーシュを自宅でこっそり作り出す。ヨセフ、マリア、幼な児イエス。小さな人形は「小さな聖人」の意味でSantons(プロヴァンス語でSantouns)と呼ばれた。
Ces petits personnages, ils les faisaient avec ce qu’ils avaient sous la main, mais principalement en mie de pain ou en papier mâché comme on faisait les masques.
これらの小さな人形は手近にある材料でこしらえた、主にパンの身か、仮面を作るのと同じ紙粘土を使った。
1798年にマルセイユの人Jean-Louis Lanelが靴についた粘土からサントンを作るのを思いつく。石膏の型と粘土の使用で、まとめて製作できるようになった。
パンの身によるものも乾すか焼いた上、油絵具とニスで彩色処理されたらしい。
サントンのページは無数にあって驚く。
Photo de santon à Aix en Provence pendant Noëlにはマントに杖、牧人ふうのセザンヌをかたどったもの。サイズも極小からこのくらいまで幅があるのがわかる。

1940年生まれの彫刻家Jephan de Villiersによるパンの身や森の小枝の「寄せ集め」(アサンブラージュ)(→写真
Jephan de Villiersは子供の時、小枝や樹皮で土の上に村を作った。
作品はサイトJephan de VilliersのGallerieに。

L’enfant... mot-clé de toute la démarche de l’artiste.(子供―このアーティストの流儀の、全体を解く鍵になる語)
Voyage en Arbonie avec Jephan de Villiers : Rencontre avec l'artiste, par Colette Bertot


シムノンとヨーロッパ

2005-12-15 10:54:53 | インポート
サイト更新 ジョルジュ・シムノンの時間

しばらく寝かせてありましたが年の終わりも近いし、現時点ではこれ以上書けません。

引用の場所がなく割愛したのがG.-H.デュモン『ベルギー史』(村上直久訳 文庫クセジュ)の
かくも多くの軍隊が次々に通り過ぎ、荒らして行くのを目のあたりにして、ベルギー人の間には中立へのあこがれという政治的な受け身の姿勢が生まれてきた。「征服者はどうでもいいが、われわれを平和な状態にうっちゃっておいてくれ!
(宗教戦争時代を叙述した第五章「欧州の戦場」から)
1999年から毎夏ヴァンデのLes Sables d'Olonneで行なわれるle Festival Simenon05年のテーマは「シムノンとヨーロッパ」でした。
どんな話が出たのかまでわかりませんが。

祖先はポルトガルのユダヤ人、トルコのイスタンブールで生まれ育った男が地中海の船上でベルギーの踊り子と出会い、ブリュッセルで殺人を犯し彼女の家にかくまわれ、そこにはヴィルナ(現リトアニアの首都ヴィリニュス、マリー・トランティニアンはここで撮影中亡くなった)生まれのユダヤ人学生が下宿している。(『下宿人』) これがシムノンの世界だ。

Pedigreeもシムノン自身はゲーテの自伝『詩と真実』に比べている。第二次大戦中にはドイツ語の個人教授を受けた。(『詩と真実』をちょっと覗くぐらいはするべきだったと思う)
シムノンが「古典を頓珍漢に引用すれば笑われそうです」(J'aurais peur du ridicule en citant les classiques de travers.)と遠慮がちながら、ジッドをヴォルテール、ゲーテと共に「ある種の精神の族長」une sorte de patriarche d'espritの系譜に位置づけている手紙(1950年11月23日)の裏面に、ジッドは冷然とSans importance(重要ではない)と記す。

LePoint.frのGeorges Simenon Lettres contre ma mère (Michel Schneider)に引かれたシムノンのことば? Tout est vrai, sans que rien soit exact ?(すべては真実だ、なにも正確ではないけれど)は、『詩と真実』が頭にあるのかも。
シュネーデルの書評はシムノン『母への手紙』 Lettre à ma mèreの再刊に際して書かれた。辛い幼年期から逃れるため自伝=フィクションを繰り返し書かずにいられないシムノン。
Etre écrivain, c'était pour lui se faire ? redresseur de destinées ?, une sorte de ? Maigret médecin ?, de ? psychanalyste ?, confie-t-il (? Quand j'étais vieux ?).
作家であるとは自分にとって「運命を正す人」、一種の「医師メグレ」、「精神分析家」となることだった、彼はそう打ち明けている(日記『私が老人だった時』)
坂本浩也氏は【フランス・ミステリ通信②】「メスプレード事典」 をめぐって( 「本棚の中の骸骨」藤原編集室通信)で日本の「新本格派」作家がフランスの新しいミステリに期待するものと、現実のフランスの状況とのずれを指摘されていた。
やや冷淡に思える日本の出版界の動向にはおかまいなく、シムノンは読まれ続けて行くだろう。



Tandem(3) 「サスペンス」とは何か

2005-12-13 20:56:52 | 本と雑誌
理論好きなのはナルスジャックのほうで、推理小説の理想の長さは80~100ページ、nouvelleとromanの中間ぐらいだという。推理小説の登場人物は「どうしても型通り」forcément conventionnels になる。 これは読者と登場人物の一体化をさまたげる。読者は「覗く人」にとどまる(...le lecteur reste un voyeur) (pp.22-25)
二人が考えたのは(別のインタビューから補えば)人物を「より生き生きとし、厚みを持ち、真実なもの」にすることだった。
Là, soudain, dans nos livres, ils vivaient sous les yeux du lecteur.
(とつぜん、私たちの本で、人物は読者の眼下に生き始めたのです)(*1)
これだけでは二人の考えた「サスペンス」の説明として不十分だろう。
「耐え難いぎりぎりの状況、その陰に隠れた解きえない謎」une situation intenable dissimulant un mystère irréductible「筋立ては、人物が容赦のない運命のおもちゃと見えるように構成される」...l’action sera distribuée de telle sorte que les personnages paraîtrons les jouets d’un destin implacable.「結末は、まやかしの解決しかもたらさないだろう」L’épilogue n’apportera jamais qu’une solution en trompe-l-œil.
そして(推理小説が探偵の小説なら)サスペンスは「犠牲(被害)者の小説」le roman de la victime (通常の推理小説では被害者は最初に殺されてしまう)、また暴力的なロマン・ノワールは「刑吏(残虐非道な人間)の小説」le roman du bourreau とされる。(*2)
*1 SUSPENSE EN DUO par Boileau-Narcejac
*2 LE ?SUSPENSE? par Thomas Narcejac
どちらもQuarante ans de suspense. Vol.I (Coll.?Bouquins?,Laffont)に収録。



Tandem(2) 映画の世界と「火の洗礼」

2005-12-11 15:55:42 | インポート
Celle qui n’était plusはジャンル分けの困難な、破格の作品だった。複数の出版社で断られ、Denoëlに救われる。本が出るとすぐクルーゾー監督が目をつけた。
だが映画権獲得は「オプション契約」によった。監督は一年間作品を「据え置き」にする。その間、物語は彼を魅し続けることができるか?これがクルーゾーのやり方だった。
ヒッチコックからも遅れて申し出があったと聞き、ボワロー&ナルスジャックは自分たちの模索する「サスペンス」の方向性に確信を持つ。クルーゾーからは何の接触もない。二人は苛立つ。初めて関わる映画の世界、彼らの「火の洗礼」baptême de feuだった。
映画の題がLes Diaboliques(邦題「悪魔のような女」)と決まり、おまけに撮影のため子供を集めているとのニュースには驚いた。Les Diaboliques?バルベー・ドールヴィイの?(しかもこの有名なタイトルは相続人が著作権を持っていた)

映画は冒頭、字幕でバルベーのことばとして Une peinture est toujours assez morale quand elle est tragique et qu'elle donne l’horreur des choses qu'elle retrace.(絵画は、おそろしい物事を描いても、悲劇的で戦慄させる絵になり得ていればつねに十分道徳的である)を引く。これはLes Diaboliquesへの序文(全体はこちら)から。
Bien entendu qu'avec leur titre de Diaboliques, elles n'ont pas la prétention d'être un livre de prières ou d'Imitation chrétienne... Elles ont pourtant été écrites par un moraliste chrétien, mais qui se pique d'observation vraie, quoique très hardie, et qui croit - c'est sa poétique, à lui - que les peintres puissants peuvent tout peindre et que leur peinture est toujours assez morale quand elle est tragique et qu'elle donne l'horreur des choses qu'elle retrace. Il n'y a d'immoral que les Impassibles et les Ricaneurs. Or, l'auteur de ceci, qui croit au Diable et à ses influences dans le monde, n'en rit pas, et il ne les raconte aux âmes pures que pour les en épouvanter.
(むろん「悪魔のような女たち」と題するからには、祈りや「キリストのまねび」の書を僭称するものではない。しかしこれらの物語を記したのは一人のモラリストである、キリストを信じ、大胆だが真を射た観察力を自負し、信条として(ここに彼の詩法がある)力のある画家はすべてを描くことができ、何を描いても、その絵が悲劇的で描かれたものへの戦慄を起こさせるならつねに十分道徳的だと考える。不道徳なのはただ「感じない者」、「嘲笑する者」だけである。さて本書の著者は、悪魔と悪魔の世界に及ぼす力を信じる者であり、笑わずこれを純真な人々に物語るのは、ただ戦慄させるためなのだ)

原作に映画が重要な改変を行なうのは珍しくない。トマも
Nous admirions. Nous nous estimions très heureux d’être trahis avec tant de talent.
(感嘆しました。これほど巧みに裏切られるのは幸せだと思いました)
と言う。それでも二人はこの映画には強い違和感を持ち続けた。




Tandem 二人で書く時は

2005-12-09 10:19:02 | 本と雑誌
アルフォンス・アレとキャプテン・キャップのような「二人組」をtandemというらしい(実際二人が「タンデム自転車」で登場する作品もある)

La victoire du tandem Chirac Raffarin 17/06/2002 (ずいぶん昔のニュースに思える)
小泉純一郎=田中真紀子両氏についても
Le tandem eut un effet médiatique fracassant.
二人の共闘はメディアを通じ絶大な反響を呼んだ。(U-blog/berlol)

tandem
政界とは違い、長年共同作業を続けたボワロー (ボアロー)& ナルスジャックが対談形式で「サスペンスの35年」を語るのがBoileau Narcejac Tandem ou 35 ans de suspense (Denoël,1986)
ピエール・ボワローが元になるアイデアを提供し、小説に練り上げる過程ではトマ・ナルスジャックの役割が大。出会う前から特に短篇を得意としたピエールと、リセで文学を教えるトマ。時間に余裕のあるピエールと、教職兼業のトマとの違いも手伝った。
聞き手の「X氏」(M.X)が、二人の生活と作品を実によく知っている。X氏は「母胎になるアイデア」l’idée-mèreとは何か、「ただのアイデア」 la simple idéeとどう違うのか、自分流の考えを熱気を込めて語り出し、

M.X : [...] Vous me suivez ? Si vous n’êtes pas d’accord, arrêtez-moi.
PIERRE : Marchez ! Marchez !
X氏 わかってもらってるかなあ?ご異論あればストップをかけてください。
ピエール どんどんやって!

活き活きした対談記録のように見える。各章タイトルはPremier enregistrement(第1回録音)以下第12回まで。しかし序文でX氏は〈読者〉?le public?を代表する想像の人物だとことわられ、つまりこれはあくまで書かれた対話なのだ。そしてどうやってこれを二人で書いたのかと好奇心をそそる点、小説と変わりがない。

雑誌『海』のアルフレッド・ジャリ特集号で、何人も乗るmulticycleの写真を見た記憶がある。
は十二人乗り。

トマが教えていたのはナントの Lycée Clemenceau いち早くこの学校にシネ・クラブを作ったという。
パリのピエールとの連絡は手紙や電話・電報。ある時、「マルス、ナルス・・・」と電報の発信人名でもたつく局員に「ナルスジャック」だと言うと「あら、あなたが浴槽の!」("Ah ! C'est vous la baignoire !") 映画化されたベストセラー『悪魔のような女』(Celle qui n'étais plus)のせいだった。