東野芳明氏の死を「美術手帖」で知る(米倉守『閉じられた蝶番』)。一月程度の時差は良いほうで、時には何年ものずれが生じる。雑誌ではずいぶんお目にかかったが本棚には『アメリカ 虚像培養国誌』(美術出版社 1968)一冊。つまりこれは決して真正のファンによる追悼文ではない。
東野氏はパリ滞在中、その美しさを「いささか博物館的」と感じずにいられない。「戦後の焼野原に育ったぼくのような男には、人間の叡智がながい間に徐々に沈殿してでき上がったような都市は、あまりにも凝りすぎ、完成しすぎていた」
「欲求不満」を解消してくれたのがニューヨークだった。東京とニューヨークの「博物館でないエネルギー、猥雑でけたたましく、がたぴししていて、すべてがお互いに不均衡でお互いからはみだしているような面が、ヨーロッパの古都とは違った魅力なのである」(「わが都市遍歴」)
「最近、急速に、その神秘的な特性が若い作家の間で称賛されはじめた、孤独な作家ジョゼフ・コーネルにふれておこう」(「アメリカ美術の神話」)のような部分がある意地の悪い「いまさら」感を引き起こすのに比べ、「馬喰町四丁目九番地」での誕生を起点とする「わが都市遍歴」は再読意欲を誘う。
映画『ヒロシマ わが愛』についての貴重な証言―「一時、東京の青年の間では、独り旅のフランス娘とランデ・ブーをするのに、オリンピック工事で原爆ドームのように化した銀座四丁目の和光の前をえらび、「トーキョー・わが愛」などと名付けるという、けしからぬ遊びがはやったことがある」
「原爆ドーム」の比喩は悪趣味を承知で選ばれている。
良くも悪しくも東野氏らしさを感じるのは、
(*1) Musée Tinguely(仏・英・独語)>LE MUSEE>Jean Tinguely>Biographieに問題のHommage to New York(1960) Study for an End of the World (1962)の各写真あり。
東野氏はパリ滞在中、その美しさを「いささか博物館的」と感じずにいられない。「戦後の焼野原に育ったぼくのような男には、人間の叡智がながい間に徐々に沈殿してでき上がったような都市は、あまりにも凝りすぎ、完成しすぎていた」
「欲求不満」を解消してくれたのがニューヨークだった。東京とニューヨークの「博物館でないエネルギー、猥雑でけたたましく、がたぴししていて、すべてがお互いに不均衡でお互いからはみだしているような面が、ヨーロッパの古都とは違った魅力なのである」(「わが都市遍歴」)
「最近、急速に、その神秘的な特性が若い作家の間で称賛されはじめた、孤独な作家ジョゼフ・コーネルにふれておこう」(「アメリカ美術の神話」)のような部分がある意地の悪い「いまさら」感を引き起こすのに比べ、「馬喰町四丁目九番地」での誕生を起点とする「わが都市遍歴」は再読意欲を誘う。
映画『ヒロシマ わが愛』についての貴重な証言―「一時、東京の青年の間では、独り旅のフランス娘とランデ・ブーをするのに、オリンピック工事で原爆ドームのように化した銀座四丁目の和光の前をえらび、「トーキョー・わが愛」などと名付けるという、けしからぬ遊びがはやったことがある」
「原爆ドーム」の比喩は悪趣味を承知で選ばれている。
良くも悪しくも東野氏らしさを感じるのは、
ここで思い出すのは、先年来日したスイスの電動モビール彫刻の作家ジャン・ティンゲリー(*1)のことだ。かれは機械文明の首都ニューヨークで廃品や古びたボンコツ機械で高さ一〇メートルの塔を作ったことがある。電流を通すと、猛烈な騒音と火炎をあげて、この塔は三〇分で自滅してしまった。題して「ニューヨーク讃歌」。来日したとき、ぼくは、広島の記念公園で、この種の「事件」をやったらと暗示した。しかし、レネの「夜と霧」を知っているかれは顔を青くして、恐ろしくて出来ない、と語った。かれはネヴァダ砂漠で、水爆実験に挑戦(?)する、大爆発事件「世界の終末」をNBCのために敢行したのだが、広島は〈聖域〉であり、「世界の終末」そのものであってこれに手をふれることは出来ない、とでもいうように、かれは首を振った。「わが都市遍歴」のいわば負の中心が、広島だといえるだろう。「大半の日本人と同じく、ぼくはこの都市と無縁に生きてきたし、むしろ、ここをわれわれの魂のエルサレムとする道程をできるだけひきのばしつづけている、といってもよいかもしれない」と書かれる「ヒロシマ」が。
(*1) Musée Tinguely(仏・英・独語)>LE MUSEE>Jean Tinguely>Biographieに問題のHommage to New York(1960) Study for an End of the World (1962)の各写真あり。