国見弥一さんのTB「ブグローの官能の美の徒(ただ)ならず」へのお返しです。
ブグローのような「官展派」の絵を「ポンピエ」と呼ぶことがある。まずは意味を確認。
Wikipédiaの?Peinture académique?によれば
アカデミック様式はまた「ポンピエ」とも称されるが、第二帝政期の絵画の主流を成す。歴史的主題の偏愛と、オリエンタリズムを特徴とする。アカデミック絵画はダヴィッドやアングルの新古典主義に主題、様式また技法(グラッシglacis〔地の絵具に薄い透明な絵具で上塗りをして光彩を与え、色調を整える〕)の面で借用を行なう。この芸術はまた当時のブルジョワ的モラリスムと、いささか偽善的なエロティスム感覚を借り受けている。
「ポンピエ」(ロベール辞典によれば1888年初出)の名称は恐らく、当時の大作(grandes compositions)のある人物が被った光る鉄兜が、消防士(sapeur-pompier)を思わせたことへの暗示。「ポンペイ風」Pompéinのもじりとする説も。最後に、この語はpompe(華美、仰々しさ)pompeux(形容詞形)を連想させる。
「グラッシ」の注釈は辞書の定義の合成。怪しいのでGoogle「油絵 グラッシ」検索結果
鉄兜の消防士 参考に―オルセー美術館のクールベ『火事場に駆けつける消防士』(図)
ジェロームはイタリア滞在中、古代美術に熱中する。ナポリの美術館でポンペイから出土した剣闘士の甲冑に出会い、作品の霊感元としたという。ジェロームとその一派が「ポンペイ風」と呼ばれたとすれば、これに由来するものか。(Jean-Léon Gérôme Biography)
剣闘士を描いたジェロームの作品。?Pollice Verso?(下ろした親指 殺せという合図)
http://www.phxart.org/collection/verso.asp
?Ave imperator, morituri te salutant!?(帝よ、死なんとする者らが貴方に礼を送る)
http://penelope.uchicago.edu/~grout/encyclopaedia_romana/gladiators/ave.html
「ポンピエ」という言葉を知ったのは確か阿部良雄氏の『西欧との対話』(河出書房新社 1972)で、ダリが1967年に催した展覧会「メソニエ頌」Hommage à Meissonierの話から
ダリの逆説をどこまで真に受けてよいものか、ということはとにかく、「近代芸術」の諸冒険が正当(あるいはそれ以上)の評価を受けるようになったのと並行してかつての王座から引きずりおろされた官展派大家―「ポンピエ」たちの復権をはかる試み―もっと極端には、セザンヌの代わりにドゥターユを師表の位置につけようという試みは、それ自体まじめな論議の対象になり得るものだと思います。あの時はガエタン・ピコン氏の真正面からの反論、「近代絵画」と呼ばれるものは、画家自身にとっても未知な何物かを追求する芸術であって、既知のものとしての技法(メチエ)によって既知のものとしての題材(シュジェ)を再現するだけのポンピエ芸術と同日の談ではない、という反論が出てきたようなわけでした。(p.156 原文では傍点による強調)
ドゥターユDetaille, Jean-Baptiste-Edouard (1848-1912)は特に戦争画で知られる。普仏戦争には志願して遊撃歩兵と。「普仏戦争のエピソード パリ攻防時、ある森での砲兵隊の戦い」(図)
「早朝、橋を守る遊撃隊が急襲を受ける」(図)
主題も思ったより多様で、ポンピエと一絡げにしていいものか(レッテルというのは大雑把になりがちだが) どうかすれば近代派に劣らずモダン(?)な印象を受ける。
固定した近代美術観から少しずつ自由になる、それは私だけが経験してきたことではないだろう。その過程では迷いや葛藤もあった。瀧口修造訳のダリ『異説・近代藝術論』に衝撃を受けていたから、阿部氏の上に引いた一節も真剣に、何か大事件のリポートのように読んだのだった。
(2/8追記)阿部良雄氏は先月亡くなられていたのを知りました。ご冥福をお祈りします。