L’Autre Journal 1986年3月26日号には、舞踏家古関すまこ氏(*1)へのインタビュー。
Sumako Koseki ; “La voix d’Artaud à la fin de sa vie, c’est buto.”(アルトーの晩年の声、それは舞踏です)
見出しのそばに巨大な「舞」の毛筆字。
舞台写真を何点か添え、二通りの書体で「舞踏」の字を示して注釈。
Bu indique le haut du corps, donc l’élévation
To le bas du corps, des entrailles aux pieds.
舞は上半身、従って上昇を表す
踏は下半身、腹から足を。
10ページほど後にギベールの連載 Portrait
Il est disons 19 h 50. Orson Wells entre en titubant un peu ? il est fatigué ? dans sa suite d’hôtel Lancaster. Immédiatement, sur une console, il jette la Légion d’honneur qu’on vient de lui remettre. Il est accompané d’un ami qu’on appelle le Prince. Derrière une des portes, fermée, on perçoit le chuchotement d’une femme qui téléphone.
(時刻はそう、19時50分。オーソン・ウエルズは少しよろめきながら―疲れている―ランカスター・ホテルのスイートに入る。授与されたばかりのレジオン・ドヌール勲章をすぐコンソールの上に投げ出す。プリンスと呼ばれる友人が一緒。ドアの一つ、閉められているがその向こうで、電話をする女のささやきが聞こえる)
写真では勲章はコンソールのほぼ中央に置かれ、ケースの蓋を開け「見せている」感じ。両側から対になったアール・ヌーヴォー(?)風電気スタンドが照らす。壁に掛かった絵(下の方しか見えない)、そこに描かれているのが絵かリアルな物体か、一瞬戸惑う。ことばで記述しにくい複雑な起伏を持つ空間。オーソン・ウエルズその人の姿はない(こういうひねくれた肖像写真ばかりではないのだが)。
ギベールの手書き文字(サムネイル表示)は、愛用したというモンブランの万年筆によるものか?それは別のページの漫画(Chantal Montellierによる)に書き込まれた、かっちりとした文字 LE MARCHÉ CONCLU, L’HOMME... と対照を成す。
(*1)古関すまこ舞踏の会 http://www21.0038.net/~sumakobuto/homepage/
L’Autre Journalのインタビューからー「私は10年ほど前にパリに来ました。なぜフランスなのか?舞踏は初期にはフランスに負うものが大きかったからです。ジョルジュ・バタイユの作品はとても大きな影響力を持ちました。最初のグループの一つは「アルトー館」と呼ばれました。ちなみに私はアルトーを一度も見ていません、ただ晩年の、精神病院にいた時の声を聞くことができました、そしてそれは、まさしく舞踏でした」
土方巽が踊り手を「突っ立っている死体」と呼んだのは有名だが、この記事でも
「演技する時には一種の死、その時自分の生であるものの否定を経なければなりません」
...quand on joue, on doit passer par une espèce de mort, de négation de ce qu’on est à ce moment-là de sa vie.
「死を経ると私たちが呼ぶのは、自分の身体にカメラか鏡のように客観的眼差しを向けることです」
Ce qu’on appelle passer par la mort, c’est avoir un regard objectif sur soi-même, à la façon d’une caméra ou d’un miroir.
編集委員だからと言って全原稿に目を通すわけではないだろうが―特にギベールはそういう律儀さとは無縁に思えるーこのあたり読めばどう感じたか。